海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「モルグの女」ジョナサン・ラティマー

酔いどれ探偵ビル・クレインをはじめ、一癖も二癖もある登場人物たちの破天荒ぶりが楽しい1936年発表作。ハードボイルドの要素は薄く、スラップスティックすれすれの展開だが、不可解な謎の提示などミステリの仕立てはしっかりとしている。テンポの良い会話、情景ごとの印象的なエピソード、大団円に向けての盛り上げ方など、映画脚本家としても活躍しただけあってラティマー流石の筆致である。

真夜中のモルグから身元不明の女の死体が盗まれる。抵抗したらしいモルグの番人も殺された。依頼を受けた私立探偵のクレインが、失踪した娘の身元確認のために訪れた直後のことだった。クレインは自身の嫌疑を晴らすが、対立する大物ギャングのボスらが「俺の女をどこに隠した」とクレインを追い掛け始める。消えた女の死体を探すために探偵社からクレインの仲間が駆け付けるが、酔っ払う機会は更に増え、女の正体は二転三転し、事態は益々混乱を極めていく。

雑多な風俗が入り乱れるアメリカ1930年代のムードが書き込まれ、舞台となるシカゴの街も明るい色調で描かれている。様々に様相を変えた正体不明のモルグの女を巡る謎は、クレインがラストできっちりと解き明かす。オフビートでありながらも、ミステリの定石を踏まえた職人技が冴える。

評価 ★★★★

 

モルグの女 (1962年) (世界ミステリシリーズ)

モルグの女 (1962年) (世界ミステリシリーズ)

 

 

「魚が腐る時」マシュー・ヒールド・クーパー

所謂「ケンブリッジ・ファイブ」を題材にした1983年発表作。

舞台は1951年、ソ連の二重スパイから英国内要職に12人の工作員が潜入していることを掴んだ外務省次官ストラングとSIS長官メンジーズは、公けに暴露されて失墜することを恐れ、或る秘策を練る。同時期に反政府ポーランド人グループから「カティン虐殺」がソ連軍によるものという証拠がもたられていた。第二次大戦中、カティンの森で1万5千人にものぼるポーランド人将兵らの死体が埋められているのが発見されたが、ソ連は関与を否定し、ナチス・ドイツに責任転嫁していた。折しもポーランド情勢は不安定で、この事実が明らかとなれば、これを機に衛星国から脱する可能性があった。ストラングらは自国政府には隠密でソ連と直接裏取引を試みる。虐殺の公表を控える代わりに、ソ連スパイの存在もなかったことにしろという脅しである。独裁者スターリンは怒り狂い、強引な後処理を秘密警察長官べリアらに命ずるが、敵対する陸軍情報部のオルロフが交渉の窓口として選任された。一方、ストラングの私設秘書で正義感の強いペラムは、カティン虐殺の事実を知り単独行動に出る。ペラムの動きは取引の破綻を招くため、メンジーズはソ連側に「処理」を依頼。だが、その時オルロフは意外な動機でペラムに接触していた。

長々と前半までの大筋を綴ったが、アメリカで不遇の扱いを受けていたCIAの思惑も絡み、事態は不穏な空気の只中で動いていく。終盤にはペラムとオルロフによる逃避行が描かれているのだが、堕落した権力者の腐り切った保身の足元で崩壊していく人間らの脆さと虚しさを無常な世界観の中で描いている。特筆すべきは、スターリンの狂気を描いたシーンで、凄まじいまでのリアリティで迫ってくる。

評価 ★★★

 

 

魚が腐る時 (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)

魚が腐る時 (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)

 

 

「サンドラー迷路」ノエル・ハインド

1977年発表のスパイスリラーの秀作。二重三重に仕掛けられた謎、緻密な伏線、終盤で畳み掛ける種明かし、苦い結末など、捻りの利いた構成で唸らせる。ハインド32歳での執筆と知って驚くが、多くの登場人物や複雑なプロットの展開がやや整理しきれていない点はあるものの力技で読ませる。

題材となるのは紙幣偽造によって敵国の経済混乱を目論んだナチスの「ベルンハルト作戦」だが、本作では偽札造りの「名人」が連合国と枢軸国両方で暗躍していたという設定。大富豪でもあったその男サンドラ―の娘として遺産継承者を名乗り出たレスリーが、同家の弁護士だった父親を持つ主人公ダニエルズを訪ねるところから物語は始まる。二重スパイでもあったサンドラ―は戦後に米国内で殺害されていた。だが女は、父親は今も生きていると告げ、その正体を隠すために妻と娘を殺そうとしたのだという。ダニエルズは調査を開始したが、やがてレスリーという人物も既に死んでいることを知る。背後に見え隠れするのは、サンドラ―を巡る大国間の陰謀であり、ダニエルズ自身にも関わる闇の歴史だった。そして屈折した過去へと遡る巨大な迷宮の入り口が開く。

登場する人物のほぼ全てが、狙いを明かさず正体を隠したまま行動するため、読み手は混乱するのだが、ミステリならではの謎解きの醍醐味は存分に味わえる。

評価 ★★★★

 

サンドラー迷路 (文春文庫 (275‐16))

サンドラー迷路 (文春文庫 (275‐16))

 

 

「クリムゾン・リバー」ジャン=クリストフ・グランジェ

グランジェ1998年発表作。自身も脚本で参加した映画でも話題となった作品だが、派手さはなく、終盤までは地道な捜査活動に終始する。フランス司法警察警視正ニエマンスと地方警察の警部アブドゥフの二人が別の発端/ルートを経て、一つの事件へと結びつく構成だが、敢えて枝分かれさせた手法がそれほど効果を生んでいるとは思えない。両者の性格、捜査法に極端な違いがある訳ではなく、さらにいえば、猟奇的な連続殺人事件に関わるニエマンスに比べ、単なる墓荒らしに執着するアブドゥフの動機がいささか弱いこともある。プロットの核にあるのは優生学であり、レイシズムなのだが、暗躍するグループが最終的にどのような目標を持っていたのかという重要な説明も抜け落ちている。といっても、謎に満ちた「少年」の真相に迫るアブドゥフのパートが中盤以降サスペンスを高めていく展開で読ませるので、ミステリとしては充分な出来だろう。結末における刑事らの悲劇的なシーンもドラマティックで、余韻を残す。

 評価 ★★★

 

クリムゾン・リバー (創元推理文庫)

クリムゾン・リバー (創元推理文庫)

 

 

「蜃気楼を見たスパイ」チャールズ・マッキャリー

肉を削ぎ落した骨格のみで作り上げた構成だが、読了後に滲み出る哀感が忘れ難いスパイ小説の傑作だ。自身もCIA局員であったチャールズ・マッキャリー1973年発表作。

物語は、或る委員会に提出された工作員の報告、通信文、盗聴された会話の記録、監視報告などの資料、注記によって成り立つ異色の構造だが、通常の小説の形をとらないとはいえ、違和感なく読み進むことが出来、逆にこれこそスパイ小説の根幹に相応しいスタイルだと感じた。

幕開けの舞台は冷戦期1959年のスイス。国際連合の専門機関WROには加盟国から派遣された400名の職員がいたが、多くは擬装を施した情報工作員だった。その中の一人ポーランド人ミェルニクに帰国命令が下るが、或る理由により政治犯として投獄される恐れがあり、亡命することを望んでいた。ミェルニクと親しいアメリカ人のクリストファー、イギリス人のコリンズ、フランス人のブロシャール、そしてスーダンの皇太子でもあるカタールらは、ミェルニクの真意を量りつつ接近する。同じ頃、スーダンでは反政府テロ組織の活動が活発化しており、ソ連から組織の指揮をとるための工作員が派遣されるとの情報があった。クリストファーらは、ミェルニクがその工作員ではないかと疑う。やがて、カタールが父親の指示によって購入したキャデラックに乗り国へ帰ることとなる。図らずも同行することとなったクリストファー、コリンズ、ミェルニクらは、スイスからスーダンへの旅を疑心渦巻く中でスタートする。

スパイ小説の真髄である謀略と人間不信、そして裏切り。本作は、その諜報戦の非情さを冷酷なまでに浮き彫りにし、敵味方の区別さえ困難な情況下で、人知れず犠牲となっていく者どもの悲劇を描き切る。原題「ミェルニク調書」が示す通り、物語の中心となるのは風采の上がらないお人好しで頑強な性格のミェルニクであり、この孤独な男を冷徹に見据える他国のスパイとのやりとりが凄まじい緊迫感を作り上げている。影の主人公であるクリストファーの眼を通して語られるミェルニクの焦燥と哀しみが、無情なる結末で倍化し、砂漠の蜃気楼のように現れる覇権争いの不毛を指し示す。

評価 ★★★★★