海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「エヴァ・ライカーの記憶」ドナルド・A・スタンウッド

1912年処女航海の途上で沈没した豪華客船「タイタニック号」を題材に、半世紀にわたる連続殺人事件の謎を解き明かす壮大なミステリ。練り上げられた緻密なプロット、巧みな人物造形、臨場感溢れる情景描写など、重厚な読み応えに唸る傑作だ。

1941年、ハワイに滞在していた夫婦が不可解な情況下で惨殺された。二人はタイタニック号からの生還者だったという。警官ノーマン・ホールは死体発見時に恐怖にかられて職務放棄、事件は未解決のままとなった。その20年後、作家へと転身し名を馳せていたホールのもとに、米国の富豪ウィリアム・ライカーから突然の依頼が来る。進行中だったタイタニック号引き上げ計画についてのルポを書いて欲しいというものだった。沈んだ船にはライカーの妻子、秘書らが乗り、娘のエヴァだけが奇跡的に救い出されていた。過去の失態も含めて、奇妙な因縁を感じたホールは、史上最大の海難事故の実像に迫るが、それは同時に歴史の闇に隠された瞠目すべき犯罪の痕跡も炙り出していくこととなる。

「事件」「解明」と題した二部構成の中で、様々なエピソードを絡めつつ高まっていくサスペンスは実に見事で、その勢いは途切れることなく終盤の山場まで進んでいく。特に、その後の「運命」を知らないままに、タイタニック号の船上で繰り広げられる緊迫感に満ちた犯罪劇と、氷山に衝突した豪華客船内が一瞬にして地獄絵図へと変転する様は、異様なまでのリアリティで迫り、物語の白眉となるシーンだ。タイタニック号の悲劇的な最期を、どこまでも映像的/劇的に描写したスタンウッドの筆力には驚嘆せざるを得ない。
さらに本作は、極めて異常な犯罪者らが登場し、主人公が真相を探る過程で明らかとなっていくのだが、その狡猾で惨忍な人格は強烈なインパクトを与えてくる。

完成までに8年をかけたというスタンウッド28歳の作。その後上梓した作品は評判とならず、消えてしまった作家の一人なのだが、この渾身の一作でミステリ史上に名を留めることは間違いない。

評価 ★★★★★

 

エヴァ・ライカーの記憶 (創元推理文庫)

エヴァ・ライカーの記憶 (創元推理文庫)

 

 

「死刑台のエレベーター」ノエル・カレフ

ノエル・カレフ1956年発表の小説で、翌年撮影されたルイ・マル監督の映画化によって、世界的な知名度を誇るミステリ。身も蓋もない話だが、個人的には両作含めて「死刑台のエレベーター」に関しては、映画音楽としては革新的ともいえる即興演奏によって、作品の価値をさらに高めたマイルス・デイヴィスの芸術に尽きる。当時モダン・ジャズに於いて既に頂点を極めていたマイルスだが、その前衛的でアンニュイなトランペットの響きは、人間心理の闇を照射するモノトーンの映像と融合し、虚無的なフィルム・ノワールの世界へと見事に結実していた。
カレフの原作は心理的な側面よりも、偶発的な不条理を核にしたもので、完全犯罪を為した男が予測外の側面から転落していくさまをドライなタッチで表現している。経営者である主人公の男は同じビルに事務所を構える金貸し屋を殺し、返すあての無い借金の証拠を消し去る。だが、完璧なアリバイ工作を施した殺人計画は、時を同じくして動き出した見知らぬ若者らによって打ち砕かれ破綻していく。物語は、序盤と終盤でしか交差しない二つのエピソードを並行して描くのだが、最期まで互いを知らないままに両者とも同等の地獄へと墜ちていくというアイロニカルな結末によって、ありふれた勧善懲悪に終わらないフランス・ミステリの独創性を強烈に印象付ける。
余談だが、罪を犯すもう一人の人物が「実存主義者」と称されているのだが、ジャン=ポール・サルトルが提唱した実存主義とは全く相容れないものであることを付け加えておきたい。

評価 ★★★

 

死刑台のエレベーター【新版】 (創元推理文庫)

死刑台のエレベーター【新版】 (創元推理文庫)

 

 

「窓際のスパイ」ミック・ヘロン

落ちこぼれの個人やグループが千載一遇のチャンスを機に奮闘、大逆転劇を演じて栄光を勝ち取るという設定は、娯楽映画/小説では常套のため、よほどの新機軸を盛り込まないと「またか」という印象になりかねない。本作は〝泥沼の家〟と揶揄されている英国諜報機関の吹きだまりでくすぶるスパイらの物語。スパイスにユーモアを振りかけることで、ひと味違う仕上がりにはしているが、手掛ける事件そのものが組織内部の汚職という地味なもので、展開も抱腹絶倒とはいかないところが物足りない。主人公の薄い存在感と、アクの強いメンバーの描き分けが中途半端で、多数登場する割りには、個性が際立っていない。
ただ、誰にも増して冴えないリーダー格の男が、ここぞという時に男気を発揮するという展開はベタではあるが巧い。落ちぶれた背景がぼかしてあるのは、シリーズを通して明らかにするつもりなのだろう。
上層のエリートらの薄汚れた功名心が組織を危機に陥らせ、それを下層の爪弾き者らが救うというテーマをどこまで掘り下げることができるか。次作に期待だ。

評価 ★★★

 

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

 

 

「カメレオン」ウィリアム・ディール

石油利権を巡る巨大多国籍企業の謀略と、その転覆を謀るために暗躍する正体不明の男〝カメレオン〟の対決を主軸とした1984年発表のスリラー。日本を主な舞台とした異色作であり、トレヴェニアン「シブミ」(1979)の影響が色濃い。ただ、外国人作家が陥りやすい〝誤解/曲解〟が多く、武道や禅の精神性、〝東洋の神秘〟的な風俗の描き方に過剰な面がある。あとに重厚な世界観に圧倒される傑作「27」を上梓するディールだが、本作の構成はやや粗く、中盤までは主要人物を絞り込みにくい。
冒頭では、世界各地で石油関連企業の関係者らが不可解な死を遂げていくのだが、彼らの生い立ちなり取り巻く情況をたっぷりと挿入した上で、突然物語から退場させるため、大方の読者は戸惑うだろう。提供する情報の多くが、後に繋がる伏線とはならないことが構成に乱れを生じさせている。だが、それらの枝葉が不用というのではなく、散りばめられたエピソードこそが面白いのが曲者ディールの特徴なため、厄介だ。しかも、全体の対立構造が明確になるのは終盤近く。それまでは、米国人作家によるエキゾティシズムたっぷりのニッポンで展開する暗殺者らの狂宴を楽しむしかない。

評価 ★★★

 

カメレオン (海外ベストセラー・シリーズ)

カメレオン (海外ベストセラー・シリーズ)

 

 

 

「流刑地サートからの脱出」リチャード・ハーレイ

監獄と化した絶海の孤島を舞台とする異色の冒険小説で1987年発表作。ハーレイの翻訳は、現在のところ本作のみのようだが、筆力があり一気に読ませる秀作だ。

同様の設定で連想させるのは、実話を基にしたクリント・イーストウッド主演の映画「アルカトラズからの脱出」(原作はクラーク・ハワード)だが、島全体が監獄となった「流刑地サート」には、看守などの役人は一人も常駐していない。衛星カメラによる監視システムと海岸周辺に張り巡らされたレーダー探知によって、囚人の行動は終始モニターされ、下手な動きは死に直結した。つまり、脱出は100%有り得なかったのだが、それ以上に大きな障害として立ちはだかるのは島の住民自身だった。極刑同然の島流しを喰らった男らは、更生不能の凶悪犯ばかりであり、限られた物資と食料を巡り、生存のための闘いを日々繰り広げていた。法による秩序は望めず、弱い者は淘汰されていく。送り込まれた囚人の大半が、死刑の方がまだ慈悲深いと思い知るような最期を迎えることとなるのである。

主人公ラウトリッジは、身に覚えのない殺人事件で有罪となり、英国本土で眠らされた状態で流刑地へと移送される。目覚めた先は〝ヴィレッジ〟と呼ばれる砦の中。島の囚人は大きく3集団に分かれて対立していたが、唯一〝ヴィレッジ〟のみが規律ある共同体として、政府が定期的に投下する物資を独占していた。リーダー格として君臨する男〝ファーザー〟の命により、新入りは「砦の外で一定期間生き延びる」ことを仲間に加えるための条件としていた。〝ヴィレッジ〟の外では己の知恵と力のみに頼らねばならない。更に深刻なのは、凶暴な犯罪者らがうろつく無法地帯に放り出されるということだった。ラウトリッジは生きて再び〝ヴィレッジ〟へと戻る覚悟を決めるが、早速新顔に感づいた一味が襲撃を加えてくる。

本作の読みどころは、後半の山場となる脱出劇よりも、生き残りを懸けた中盤までの〝デスマッチ〟にある。不毛の地で餓えを凌ぎつつ、さらに凶暴化した犯罪者らと繰り広げる死闘。一瞬の気の緩み/判断の誤りが死を招くことになるため、逃げ場無きサバイバルは当然のこと凄まじい緊張感を伴う。
平凡な人間に過ぎなかった男が、絶え間ない闘争を通して成長するさまも読みどころの一つだ。男しか登場しないため、アブノーマルな一面も描いてはいるのだが、ハーレイはあくまでも異常な世界での冒険行にウエイトを置いている。

評価 ★★★★

 

流刑地サートからの脱出 (新潮文庫)

流刑地サートからの脱出 (新潮文庫)