海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「墓場への切符」ローレンス・ブロック

「人生を考える者には喜劇であり、感じる者には悲劇である、と誰かが言うのを聞いたことがある。私には人生は喜劇であると同時に悲劇であるように思われた。考えることも中途半端な者にとっては」

現代ニューヨークを舞台に無免許探偵マット・スカダーが奔走する、厳しくも美しい一大抒情詩。迷走するハードボイルド小説は、ローレンス・ブロックの手によって息を吹き返し、ひとつの到達点に達したといえる。ハメット、チャンドラーの時代から誇り高き男の夢物語であったハードボイルドは、アメリカ合州国の中下層に蔓延る病巣を常に照射し続けてきた。

シリーズ第八作。スカダーにとって(無論作者にとっても)、大きなターニングポイントであった傑作『八百万の死にざま』から延々と続くアルコール中毒克服の過酷な闘いは、凶悪な犯罪者の追跡の途中で何度も挫折を遂げようとする。

「私立探偵小説とは、なによりも私立探偵の物語である」とは各務三郎の至言だが、まさにスカダーの連作は複雑なプロットよりも孤独な探偵を巡る人間模様を描くことに主眼をおく。

スカダーは、極めて私的な闘いを続けていく中で、
神無き時代における「罪と罰」の形而上学的な問いかけに悩みぬくが、結果的には、極めて暴力的な結末へと己自身を導びいてゆく。そこにはカタルシスはあるが、決して「終わり」は訪れない。
再びの孤独と新たな「罪と罰」次章へと没入していくのみ、だ。

評論家池上冬樹の言説を少し長くなるが引用する。
「善悪の判断が曖昧になり、罪と罰が正しく機能せず、犯罪者が街に放たれている現代では、チャンドラーが規定した私立探偵、すなわち卑しき街をひとり行く孤高の騎士も変わらざるをえない。汚れざるをえない。自ら怪物(絶対悪)を殺さざるをえなくなる。(中略) 探偵たちの苦悩が深まり、ときに秩序の回復よりも破壊へと向かい、伝統的なハードボイルドの公式そのものから免脱していく」
 〔私立探偵小説からノワールへ〕 『ユリイカノワールの世界』(2000)

マット・スカダーが破滅の一歩手前で、しかし敢然とまたひとつ己の物語を終える時、読者の胸に去来するものは何か。

評価 ★★★★

 

 

墓場への切符―マット・スカダー・シリーズ (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

墓場への切符―マット・スカダー・シリーズ (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)