海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「倫敦から来た男」ジョルジュ・シムノン

1934年発表作で、当時まだ30歳前後であった シムノンドストエフスキーの強い影響下にあった時期の創作とされるが、その筆致が既に熟成していることに驚く。一介の市民に過ぎなかった男が、「魔が差す」瞬間を経て犯罪に手を染め、「罪と罰」を想起させる破綻/自戒へと至る。
犯罪小説としての筋立てはシンプルで、展開もゆったりとしている。主人公の内面描写はあるものの最低限に抑え、次の行動に移るまでの一瞬の思考/判断を指し示すに過ぎない。計画性の無い男が予測の出来ない事態に対処できずに自滅するさまを、シムノンは冷酷に突き放して描き、読者の感情移入を拒む。
本作が「極限の心理の襞を繊細に描ききって人間の存在の本質に肉迫する」までの傑作かどうかは、読み手の受け止め方次第だろう。ただ、人間のエゴイズムが如何に短絡且つ傲慢で、結局は脆弱な精神故に強烈な報いを受けるかを、乾いたリアリズムの手法でまとめ上げた秀作であることは間違いない。特に大金を盗まれた被害者の娘が、誰よりも惨い運命にある加害者の妻に対し、そのエゴを剥き出しにして当たり散らす醜態に、シムノンの極めて冷徹なメッセージが込められていると感じた。
惚れ惚れとするほど美しい情景描写は、翻訳界の重鎮/長島良三によって見事に甦っている。
評価 ★★★★

 

倫敦から来た男--【シムノン本格小説選】

倫敦から来た男--【シムノン本格小説選】