海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「雪の狼」グレン・ミード

凍てついたロシアの墓地から始まる静謐なプロローグ。アメリカ人の男が40数年前にこの地で死んだ父親の〝二度目〟となる葬儀を見詰める。1953年の冷戦期、米国政府による極秘作戦。おぼろな回想が挿入され、未だその全容が解き明かされていないことが示される。CIAエージェントであった亡き父が旧ソ連へと潜入した目的、どのような経緯を辿り、その最期を迎えたのか。家族に対して事実と違う死亡日が告げられた理由とは何か。

簡潔ながらも情感豊かな描写、秘められた過去へと誘う謎の提示の仕方、惜しみなく一気に怒濤の正編へと突入する構成……。先を読まずとも、これは傑作だと確信した。
今も真相は定かでないスターリン暗殺を巡る秘史を主題とし、過酷な運命に翻弄されていくCIA工作員らの激烈なる活劇と壮絶なる死にざまを描いた本作は、あらゆる冒険小説のエッセンスを凝縮し、血の滾りにおいて抜きん出ている。冒頭のシーンは、いうまでもなくジャック・ヒギンズの最高傑作「鷲は舞い降りた」を彷彿とさせるのだが、やや甘美なムードに流れがちなヒギンズに比べ、ミードのスタイルは底流にロマンスを置きながらも、謀略の狭間で犬死にしていく人々の有り様を甘さを排して冷然と活写し、ラストまで勢いを増しつつ疾走する。

第二次世界大戦終結から8年後。愚劣極まりない秘密警察のベリヤを配下に従えたスターリンの恐怖政治は狂気の域にまで達し、粛清の嵐は公然と吹き荒れていた。核兵器開発でしのぎを削っていた米国は、ソ連水素爆弾実用化間近の報を受け、或る作戦に着手する。米ソ戦争を回避するためのスターリン抹殺。その無謀なミッションの指揮を執るのは、東欧からソ連へとスパイを送り込む任務に就き知略と実行力に長けたCIA工作員/マッシー。暗殺遂行者は、数々の要人を葬り去りKGBから恐れられていた伝説のアサシン/スランスキー。潜入時の補助役には、グラークから脱走後、マッシーを通して米国への亡命を果たしていた薄倖の女/アンナ。数奇な運命によって結びついた三人の過去と現在、そして命を賭した作戦へ赴く各々の状況と引き裂かれた家族への痛烈な思いが語られていく。

暗殺計画の発覚、米国政府の裏切り、周り全てが敵となった状態で、前代未聞のミッションは実行に移る。作戦名は「スノウ・ウルフ」。既に追い詰められている三人。重要人物がもう一人。暴政を敷くスターリン体制を嫌悪しつつも、家族の身を危険に曝され、暗殺者狩りの責任者となるKGB大佐ルーキン。誰が主役でもおかしくない四人の物語が劇的に交差する。

とにかく、登場人物一人一人の造形が分厚い。到底実現不可能な密命を受けながらも、戦争回避に繋がる任務遂行のために身を捧げるマッシーの崇高なる理想と優しさ。為す術もなくソ連の地に残してきた一人娘を抱きしめるために再びの地獄へと下りていくアンナの母性愛と儚き美しさ。愛する家族の生命を奪った祖国への復讐に燃えるスランスキーの孤高と宿命。間近まで三人を追い詰めたルーキンが知ることとなる衝撃の事実。四人の孤独と絶望は、或る瞬間を経て、希望となり絆となる。
ただひとつのターゲットに向かって時が熟す。熱く、重く、哀しい終幕。そして全ては、歴史の闇へと葬られる。

読み始めた時の確信は誤っていた。並みの傑作ではない。スパイ/冒険小説史に刻まれるべき名作だった。凡庸なアクション小説がまかり通る中で、グレン・ミードは真の冒険小説を伝承する。
評価 ★★★★★☆☆

 

雪の狼〈上〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

雪の狼〈上〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

 

 

 

雪の狼〈下〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

雪の狼〈下〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)