海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「眠れる美女」ロス・マクドナルド

1973年発表リュウ・アーチャーシリーズ第17作。錯綜する謎は終盤に向かうほど乱れ縺れていく。ラストシーンで暗鬱なる真相へと辿り着いたアーチャーは、ひとときの安らぎの中で眠る娘の額に口付ける。美しくも哀しい、心に残る幕引き。ミステリ史に残る傑作群を発表した円熟期を経て、ロス・マクドナルドが到達した境地の何と凍てついていることか。
荒んだ家庭の悲劇を厳しい眼差しで見つめ続けた男は、さまざまな末路へと至る卑しい人間の業を声高に誹ることなく、渇いた感傷のみ残して立ち去っていく。彼の作品の中でも複雑さにおいてはずば抜けたプロットを持つ「眠れる美女」は、筋を追うだけでも大変なのだが、終章で氷解した後に改めて物語を振り返れば、隅々に至るまで緻密に構成されていることが分かる。前作「地中の男」では山火事、本作では石油流出事故が、愚弄なる社会悪の象徴として暗流に留まり、展開の起伏に呼応するかのように勢いを増して不安を煽り脅かす。物語全体を揺り動かすのは、愛するが故に一層重くのし掛かる不信であり、善悪の狭間であまりにも脆く崩れ去り、現状に耐えきれず罪を犯さざるを得ない人間の悲劇である。
ロス・マクドナルドでしか味わうことのできない芳醇な比喩は、対象を簡潔に切り詰めて描写するハードボイルドのスタイルからは乖離しているかもしれないが、その世界観は孤高であり、生々しい感情を鋭く抉り取ることにおいて、他の作家の追随を許さない。

眠れる美女」において儚い愛情の萌芽さえ感じさせるアーチャー。ロス・マクドナルドは、孤独な男の「それから」にどのような想いを込めていたのだろう。


評価 ★★★★★

 

 

眠れる美女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

眠れる美女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)