海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「市民ヴィンス」ジェス・ウォルター

2005年発表のMWA最優秀長篇賞受賞作。プロットは至ってシンプルで、強引に要約すれば、しがない犯罪者という以外は「何者でもない」生活を送ってきた一人の男が、人生の岐路に立ち、それまでとは違う選択をして再び歩み始めるというだけの話だ。タイトルには含みをもたせており、個人名に敢えて「市民」を付けている理由は読み進める内に分かる。スタイルはクライムノベルだが、物語に大きな起伏は無く、文学志向が強い。

闇の組織を裏切って告発者となった男は、政府の「証人保護プログラム」下に入る。出生名を捨て「ヴィンス」を名乗り、生業となったドーナツ屋店主を続ける傍らで、以前と変わらずカード偽造と麻薬密売の裏稼業にも手を染めていた。だが、その〝流通システム〟と縄張りを狙い、ヴィンスの前に殺し屋が姿を現す。男にとって即刻の逃亡は必至だったが、「ヴィンス」の名で大統領選の選挙権を取得したことを知り、転換期を迎える。同じ頃、カーターとレーガンによる次期米国大統領の選挙戦が繰り広げらていた。政治的なものとは無縁だった男は、ようやく己自身と向き合い、「何者でもない」地点から、「市民」としての自覚、社会的責任を負う共同体の中の一人としての在り方に、おぼろげながらも思い至る。つまりは、過去を清算しての第二の人生への出立である。

内面を語らず、男の転機を行動によって表す。どこまでも不器用な小悪党が「実存」に目覚めるさまは、哲学としても掘り下げることも可能だが、本作はあくまでも世俗的な流れで展開する。凡庸な犯罪者の挫折と再生、その足取りをミステリらしからぬ構図で描いたことが、逆に高い評価へと結びついたのかもしれない。

評価 ★★★

 

市民ヴィンス (ハヤカワ・ミステリ文庫)

市民ヴィンス (ハヤカワ・ミステリ文庫)