海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「傷心の川」ジョン・バカン

心の奥深く、いつまでも波打つ感動をもたらす「最後の、そして最高の冒険小説」。翻訳数は僅かながら、不慮の事故死(1940年2月11日)を遂げた翌年に出版された「傷心の川」がジョン・バカン畢生の名篇であることは間違いない。本作は、厳格さと慈愛を兼ね備え、静謐でありながらも瑞々しい生命力に満ちた人間賛歌の物語であり、「生きる」ことについての根源的省察の書だ。

富と名声を得ながらも常に孤独だった男、エドワード・リーセン。初老に差し掛かったその英国人の身体は病に侵され、医者からは残り一年の命と告知されていた。戦場で浴びた毒ガスが要因の肺結核。表舞台から姿を消した男は、人生の最期を迎えるに相応しい場所を思い描く。そんな折、旧友から或る依頼があった。米国で銀行家として大成しながらも、何もかも投げ出して突然失踪した男、フランシス・ガリヤードを捜し出し、連れ戻して欲しいというものだった。推察できたのは、フランス系カナダ人であるガリヤードが、自らのルーツを遡るためにカナダ奥地の故郷へと戻ったということ。かつてリーセンには、彼の地を旅した経験があった。事情を聞き、ガリヤードに対して或る種のシンパシーを感じたリーセンは、残り僅かな日々をどう過ごすかについての結論を得る。

北極圏の厳しい自然の中で、過去の栄華を葬り、眼前の道無き道を歩む若い男。その軌跡を追うのは、名誉よりも生きた証しを探し求める未来無き年老いた男。ガリヤードは束の間郷里に滞在した後、さらなる旅を続けていた。同行していたのは、カナダ北部の熟練ガイドであり、クリー族インディアンと白人の混血となるリュー・フリズル。リーセンは、奇しくもリューの弟ジョニィ・フリズルを雇い、川を渡り、山を越え、追跡を続ける。やがて、ガリヤードらの目的地は、さまざまな伝承説話を持つ前人未踏の「傷心の川」だと知る。人々を魅了しつつも、実際に行き着いた例を聞かない幻影の如き其処には、いったい何があるというのか。

肉体を蝕む病との闘いを続けつつ歩みを止めないリーセンは、心身を病み茫然自失のガリヤードをようやく発見する。実は、「傷心の川」到達に取り憑かれいたのはガリヤードではなく、案内人であるリューの方だった。雇い主が足手まといになると判断して冷酷にも置き去りにしたらしい。リーセンはガリヤードを介抱した後、再び出立する。幽寂の山峡を越え、不可思議な声に導かれるように秘境の谷間にある「傷心の川」を目指す。そして、死の淵でリーセンは視る。神々しい輝きを放つ幻の川と、悠然と屹立するリューの姿を。

物語は佳境に入り、格調高く詩情に溢れた終局へと流れていく。リーセンは既に帰国するだけの余力を持たず、端から望みもしなかった。「傷心の川」からの帰路、リーセンらは旅の途上で出会ったインディアン・ヘア族の部落へと寄る。
貧しさと餓えの中で生きることを諦めてしまった人々。荒れ果てた教会には宣教師もいたが、信仰で救えることには所詮限界があった。リーセンは人生最期となる地で、部落再建のために立ち上がる決意をする。途絶えようとするリーセンの生命。甦ろうとする多くの生命。そして、独りの男が為し得る最大限のメルクマールが、どこまでも深く刻まれていく。

読み終えてしばらくは、主人公のみならず作者の人生に、誰もが思いを馳せることだろう。政治や創作活動を通して人々の尊敬を集め、広く愛された人格者バカンの人となりが隅々に息づき、本作はまさに偉大な作家による「白鳥の歌」だったという表現が相応しい。
まるで自らの死を予感していたかのような達観の境地で、声高くメッセージを叫ぶでもなく、人間の実存を静かに力強く問い直す。富や名声では満たされることのなかった人生の終着点。死と向き合うことで、自らの生を識ること。そこから「どう生きるか」について、バカンは自らの人生観と経験を基にして本作を構想している。
主人公によって、心身ともに救われた男がラストシーンで回想する。
「あの人は自分が死ぬことを知っていた。同時にそれは、生きることについて知っていたことでもある」
バカンはキリスト教的な自己犠牲の精神を説いているのではない。その立ち位置は無神論的であり、人間はあくまでも無常にも死にゆく存在として、冷徹に捉えている。ただ、自然や社会との関わりの中でさまざまな経験を積み重ね、儚き人生の終わりを迎えるにあたってのひとつのあり方を、エドワード・リーセンという男、つまりはバカンの分身ともいえる人間の冒険を通して指し示すのである。時は、第二次世界大戦の前夜。人類の危機が目前に迫っていたただ中で、真の「生き方」を問うた知識人バカンの崇高さに打たれる。
この至高の小説が再版もされず、埋もれている現状は理不尽というほかない。

 

評価 ★★★★★☆☆

 

傷心の川 (1970年) (世界ロマン文庫〈8〉)

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