海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「最後に笑った男」ブライアン・フリーマントル

ジョナサン・エヴァンズ名義による1980年発表作。スパイ小説界の旗手として既に名を馳せていたフリーマントルは、当初〝別人〟に成り済ましていた。より作風の幅を拡げたいという思いと、溢れ出てくるアイデアをひとつでも多く書くために、敢えて複数の筆名を用いたのだろう。何しろ、絶頂期にはノンフィクションも含めて一年間に4、5冊上梓しており、しかもどの作品も安定した評価を得ている。1984年のインタビューでは、長編の場合リサーチに約2カ月、執筆には6~8週間という驚異的なスピードで仕上げると語っている。当然、敏腕ジャーナリストとして活躍した下地があってこそだが、簡単に真似が出来るものではない。
本作は、中東での謀略を巡る熾烈な諜報戦を主軸に、活劇的要素に最大の力点を置いている。要は冒険小説へのアプローチを試みた意欲作であり、全編ボルテージが高い。必然ボリュームも増し、読み応えがある。

 アフリカのチャドに突如出現したロケット発射基地。西ドイツの一企業が自国政府の支援を受け、秘密裏に建造したものだった。米国CIAは、第三国によるスパイ衛星打ち上げに真の目的があると読む。間もなくして〝借り手〟が判明した。リビア。標的がアラブ諸国の宿敵イスラエルであることは明白だった。もし衛星が軌道に乗れば、均衡が一気に崩れ、中東は火の海と化す。同時期、ソ連KGBも情報を入手しており状況を危惧していた。実は、米ソは戦争を望んでいなかった。手綱を握れないリビアイスラエルの暴走は、両陣営独自の中東覇権政策と相容れないものだからだ。CIAとKGBは各々に工作員を現地へ送るが、基地に辿り着くことさえ叶わず全て失敗する。そんな中、両国は前例の無い打開策を見出した。

本作最大の肝は、スパイ衛星発射阻止のために、米ソ諜報機関が手を結ぶことにある。双方の利害が一致すれば、前代未聞の〝タッグチーム〟も不可能ではないという大胆な着想が冴える。厄介な中東での火種を消すために、遂には東西冷戦の両親玉による共同作戦がスタートを切るのだが、易々と「昨日の敵は今日の友」となるはずは無く、腹の探り合いの中で計画は練られていく。仮に破綻した場合であっても、相手国に責任転嫁する裏工作を練っておく両者の狡猾さもきっちりと描いている。

密談を重ねたCIAとKGB両トップはミッションを3つに細分化し、両陣営から能力と経験が同レベルの人員を同数手配することとした。重要度と優先度の高い順から上げれば、一つ目は、西ドイツ政府職員を擬装して基地内部に潜り込み、発射システムを麻痺させる工作グループ。二つ目は、武器弾薬を使い暴力的手段によって基地自体を破壊するコマンド部隊。三つ目は、現地の自然を荒廃させ、基地で多数就労する周辺住民を物理的/精神的苦境に追い込む要員。何れも条件に合致する第一線の科学者、軍人、工作員が選抜された。
本作は三部構成で、準備段階/実行/その後と流れを追うのだが、物語を大きく占めるのは3班に分かれた米ソ混成部隊それぞれの工作活動となる。それまでは倒すべき敵と刷り込まれていた者たちと行動を共にすることで、次第に不信と困惑が薄れ、同じ目的に向かって進む〝同志〟となっていく。その過程の描き方が巧い。打算的な上層部に比して、彼らは自然と互いにシンパシーを抱いていく。敵国の人間といえども信頼しなければ共倒れとなり、現場の者にしか分からない苦悩を共有するからだ。不測の事態が次々と襲う中で繰り広げる死闘。徐々に狂っていく筋書き。盤上の駒として不条理な運命に翻弄されていく彼らの末路が空しい。

フリーマントルのファンならば、結末がどのような形を取るのかは、ある程度覚悟するだろうが、本作も決して甘くはない。一貫しているのは、大義への懐疑であり、官僚主義への徹底した批判である。権力者は、名も無き工作員らの犬死にを闇へと葬り、自壊した策略は予め用意していた最悪のシナリオで代替する。だが、事の全貌が明かされる終幕に至って、さらに強烈なしっぺ返しを食らうこととなる。米ソの巨大諜報機関を一気に骨抜きにし、最大の利益を得て「最後に笑った男」とは〝誰〟か。
緻密に練り上げたプロットに、またしても感嘆する。果たしてフリーマントルに、弱点はあるのだろうか。

 評価 ★★★★

 

 

「ブルックリンの少女」ギヨーム・ミュッソ

フランスのベストセラー作家による2016年発表作。突然失踪した婚約者の行方を追う男。手掛かりを求めて女の過去を掘り起こしていくが、その過程で鍵となる関係者らが次々に不可解な死を遂げる。わたしの愛した女は、いったい何者だったのか。

主人公は、人気のミステリ作家ラファエル・バルテレミ。短期間で終わった結婚生活の後、引き取った幼い長男の育児に追われ、しばらく休筆していた。そんな中、生涯を共にしたいと願う女に再び巡り会えた。小児科研修医のアンナ。メティス(白人と黒人の混血)だった。再婚を控えた旅先でラファエルは、決して過去を語ろうとしない彼女に対し、知っておくべき秘密がないかを尋ねた。アンナは覚悟を決めたかのように「これが私のしたこと」と、或る写真を見せる。そこに写っていたのは、黒焦げとなった三人の焼死体だった。ラファエルは衝撃を受け、その場から逃げるように飛び出した。気持ちを落ち着かせた後、宿泊先に戻るが、既にアンナの姿は無かった。携帯電話にも応答が無い。パリに引き返すが、現在二人が暮らす家にもいなかった。嫌な予感を覚えたラファエルは、元刑事の友人カラデックに協力を求めた。彼女が個人で借りていたアパートに向かい、足掛かりを探す。やがて、スポーツバッグに入った40万ユーロにも及ぶ現金、偽造した身分証明書2つを見付ける。大金が意味するものとは何か。なぜ、彼女は素性を隠していたのか。徐々に浮かび上がる女の軌跡。何もかもが偽りだった。そして、彼女の足取りは予想を超える苦難に満ちていた。

ストーリーは目まぐるしく動くが、場面転換のキレは良い。プロットは重層的で、端役と思っていた登場人物が、後になるほどに重要度を増す流れも練られている。ただ、ミステリの定石から外れることはないため、それほど新鮮味がある訳ではない。総じて実力のある作家らしい仕上がりで決して悪くはないのだが、気になった点も少なくない。以下、思い付くままに挙げるが、あくまでも私の嗜好によるもので、読み手によっては逆に長所と捉える部分となるだろう。
本作は、主人公による一人称とパートナーである元刑事の三人称を交互に展開する。時に、事件関係者の独白を挿入して補足するのだが、それは殺人の被害者にまで及び、自らの死の間際までも語る。つまり複数の人称が混在することになる。これは明らかに蛇足で、技巧的にこなれていないと感じた。また、終盤で明かされる事の真相は偶然性に頼り過ぎて無理がある。中盤過ぎから浮上する或る策謀についても同様で、強引さが目立つ。
流麗な文章が印象的な作品だが、過激な題材としっくりとこず、違和感が残る。主要な登場人物のみならず、どう考えても俗語の方が相応しい者まで教養豊かな比喩や文学的引用を会話の中で多用する。これは作者の創作スタンスなのだろうが、狂った監禁事件や政治家の堕落などを扱いながらも、通俗的なミステリにはしたくないという〝括り〟が、結果的に物語の強度を弱めてしまっている。各章に置いたエピグラフや「消えてしまうことを学ぶ」などの極めて甘美な見出しなどは、ミュッソの文学的素養を表しているのだが、私は常に醒めた状態でしか読めなかった。つまり、見た目は綺麗だが、心にずっしりとくる重さがない。多少の粗はあっても、突き抜けるような激情やインパクトが欲しい。実は本作で最も驚いたのは、冒頭のシーンだ。婚約者から惨い写真を見せられて何も言えずに逃げ出す主人公の極端なナイーブさ。けれども、この男は犯罪小説を書く作家という設定であり、こんなことでパニックに陥るのは無理がある。過去にトラウマがあるかと思いきや何もない。この物語のテーマは、恐らく〝家族の絆〟なのだろうが、序盤の出来事が象徴しているように、弱さ故に招く悲劇についての掘り下げが甘いため、登場人物らの〝顔〟に焦点が合わず、声高に叫ぶ〝愛〟だけが浮遊している。

評価 ★★☆

ブルックリンの少女 (集英社文庫)

ブルックリンの少女 (集英社文庫)

 

 

「南極大氷原北上す」リチャード・モラン

本作の時代設定は、〝近未来〟の1995年(発表は1986年)。大規模な地質学的流動により南極大陸下の海底噴火口からマグマが噴出。その結果、32万平方キロメートルに及ぶ巨大なロス棚氷が大陸と分離され、太平洋へと流れ出す。この棚氷が溶けた場合、海の水位は6メートルも上昇。さらには、棚氷の無くなったロス湾から、南極大陸の西氷床全体が滑り出し、一気に水位を上げると予測。世界の港湾都市や大陸沿岸部だけでなく、内陸の広大な地域が水没することになる。南海の島々、米国フロリダ、メキシコ湾内陸部一帯、ヨーロッパではオランダ全土が海の中へと消える。ニューヨークやロンドン、東京などは、ベニスのような運河の街と化す。全ては時間の問題だった。この衝撃的事実に、世界は震撼する。

力強いストーリーテリングに唸るスペクタクルの秀作。未曾有の危機にどう立ち向かうか。単なるパニック小説で終わることなく、あらゆる側面から克明に記録している。刻一刻と変わる状況を俯瞰的にリアルタイムで追い、雑多に陥ることなく的確に描き分ける筆力は相当なものだ。着想の根拠とする科学的データやシミュレーションについても、専門家の検証と助言を得た上で構想しており、真実味を帯びている。何よりエンターテインメント性を重視し、大量の情報を扱うにも関わらずスピード感を損なうことなく構成している。物語の中心となるのは、最悪の結末を防ぐべく叡智を結集する科学者らの命を懸けた闘いだが、逃げ場を失い津波に飲み込まれていく被災地の様子や、前例の無い難局に混迷する各国政府の危機管理能力、恐慌をきたす人々を遅滞なく避難させるために敷く報道管制のあり方など、起こり得る惨状と問題点を多面的に盛り込んで活写している。また、主役級から端役に至るまでしっかりと造形。生と死にまつわる印象深いシーンも多い。

これだけでもプロットとして充分だが、本作はさらに捻りを加えている。時は冷戦下であり、人類が直面した災厄に乗じて覇権争いを加速させようとする米ソの攻防を同時進行で描くのである。ソ連軍部は、これ幸いとばかりに流出した棚氷を軍事利用する大胆不敵な謀略に着手。察知した米国はレーザー戦闘衛星で一網打尽にする対抗策を打ち出し、ついには核爆弾使用が避けられない泥沼へと嵌まり込む。つまり、水没と核戦争という破滅のシナリオが二つ同時に展開する訳だ。地球が危機的状況にありながら人命軽視のゲームに明け暮れる権力者の愚劣さと、一人でも多くの生命を救うために邁進する者たちの熱い信念の対比。この重層的な構造がよく出来ている。
この物語がどういう結末を迎えるか。作家として腕の見せ所となるが、モランは中途半端に投げ出すことなく、あくまでも正攻法にこだわった鮮やかな解決策を提示している。

現実的に南極の氷は温暖化の影響により急激に溶け出している。仮に、全世界の淡水の70%を占める南極氷床の氷が融解すれば、世界の海水面は60メートル上昇するという。事実、南極半島の気温はこの50年間に約2.5℃も上がり、巨大氷山の分離などが起こっている。つまり、本作の主題は決して絵空事ではない。

評価 ★★★★

 

「獅子とともに横たわれ」ケン・フォレット

稀代のストーリーテラー、フォレット1985年発表作。
舞台は1982年のアフガニスタン。3年前に軍事侵攻したソ連イスラム原理主義を掲げるゲリラの戦いは膠着状態にあった。米国は対共産主義の戦略的要衝としてアフガンを重視。ソ連に対抗するためには、散発的で効果が薄いゲリラ戦に終始する部族/各派を統一する必要があった。必然、統率者は現地人でなければならない。白羽の矢が立ったのは、「パンジシールの獅子」と呼ばれた英雄マスード。この男をリーダーとする共同戦線を作り上げるため、CIAは敏腕工作員テイラーを派遣する。
最先端の武器弾薬提供を餌に、マスードとの交渉に向かったテイラーには、実は別の目的もあった。パリで愛した女との再会。今は人妻となった看護師ジェーンは、無料奉仕の医師団に所属する夫ジャン=ピエールとともに現地にいた。テイラーとは過去に愛人関係にあったが、フランスでのテロ組織を炙り出す作戦完遂後に別れた。反体制派と密接に関わっていたジェーンは、テイラーを裏切り者と捉えたのだった。
だが、彼女はジャン=ピエールにも秘密があることを知らなかった。彼は筋金入りの共産主義者で、KGBのスパイとしてゲリラの動向を探っていたのだった。旧知のテイラーがアフガニスタンに来た理由は明白で、ジャン=ピエールはソ連に情報を伝えるべく独自に動く。かくして、二人の男と一人の女は、絡み合う愛憎と信念を抱えつつ、硝煙のただ中へと身を投じていく。

フォレットは〝恋と冒険を通して成長する女性〟を好んで描く。時に脱線しかねないほど力を注ぐため、「冒険小説界のハーレクイン」という、誉めているのか、貶しているのかよく分からないレッテルを貼られてしまう。あながち外れていないとはいえ、その根幹には激動の時代を駆け抜けた者たちの熱いロマンが息づいており、単純にロマンス過多の甘ったるい作家として片付けられるほど浅くはない。特に、スパイ/冒険小説の新鋭として脚光を浴びた傑作「針の眼」(1978)や、劇的な顛末で感涙必須の名作「ペテルブルグから来た男」(1991)、そしてライフワークと言っていい大河小説「大聖堂」(1988~)シリーズなどで展開する波瀾万丈のドラマは、ジャンル不問で読み手を魅了する。
だが、本作に関しては、あまりにも〝恋と冒険〟に比重を置き過ぎて、全体的なバランスを崩していると感じた。本筋がシンプルなだけに、良くも悪くもフォレットの特質が過剰に出てしまっている。堂々と主役を張るジェーンは、敵同士である二人の男に裏切られた果てに、動乱の地に立ち、自らが信じる道を選択して行動する。運命に飜弄されながらも逆境を乗り越えていくタフな女の生き方こそが主旋律となり、クライマックスが近付くほどに強まっていく。けれども、それは門外が聴くオペラのように、どうにも馴染めないものだった。序盤でのスケール感が急速に弱まり、いつのまにか恋愛ドラマに変転している違和感。ロマンチックな〝危険な愛〟に焦点を当てる「ハーレクイン物」と割り切れば問題はないだろうが、延々と男女の絡みシーンを読まされては、溜め息しか出てこない。

 評価 ★★

 

「ストーン・シティ」ミッチェル・スミス

発端から結末まで刑務所内のみで展開する異色のサスペンスで、獄中で発生した連続殺人の真相を囚人が探るという大胆な着想が光る1989年発表作。上下巻に及ぶボリュームだが、特異なエピソードを盛り込んで高いテンションを保っており中弛みはない。前作「エリー・クラインの収穫」(1987)でも話題となった五感を刺激する執拗な描写を本作でも駆使し、息詰まるような世界を創り出している。

 チャールズ・バウマン、43歳の元大学教授。再婚し、前妻との間には息子がいた。パーティーからの帰り、自転車に乗っていた少女を轢き殺し、そのまま逃げた。酒を飲んでいた。収監から一年が経ち、男は曲がりなりにも〝生き残る術〟を習得。現在は、文盲の囚人に読み書きを教えて「先生」と呼ばれている。さらに学生時代の経験を生かして刑務所内の強豪ボクシングチームのトレーナーも務めていた。
監獄は、シャバの肥溜めの如き醜悪な縮図だった。裏社会の敗残者たち。殺人犯、盗人、強姦野郎、放火魔、詐欺師、性的異常者……極悪人のみで形成された閉鎖空間。悪党らは、人種や共通する嗜好のもとに群れ、互いに覇権を争っていた。悪にも格差があり、小児性愛者は最も忌み嫌われていた。そんな中、所内で不可解な殺人が相次いだ。バウマンは、検察局と州警察から脅し同然の〝協力〟を求められる。恐らく知性と順応性を買われたのだろう。獄中に於いて無難な人間関係を築ける社会性を有した者は稀だからだ。自由無き牢獄での限定的な自由を得た男は、狂気と暴力が支配する〝石の都〟の更なる下層へと下りていく。

本作がメインに描いているのは、受刑者らの生々しい狂態であり、異常であることが〝正常〟と映る異界である。どこまでが実態に即したものかは分からないが、作者は念入りに取材をした上で構想したことを窺わせる。特異なのは、多くの者が閉塞感/焦燥感とは真逆の開放感/充足感に浸っていることだ。要は、牢獄の中でこそ、実存を見出せているのである。但し、ひとつ判断を誤れば、自らの死を招くことを誰もが肝に銘じている。物語は、犯罪者のシュールな生態を盛り込みつつ、囚人殺しの謎に迫る主人公の行動を追うのだが、それは既にヒビの入った硝子の上を這いずるようなもので、奈落の底へと一気に落ちる危険性を常にはらんでいる。狂った者たちと、どう駆け引きし、渡り合うか。そのバランスをとるさまが凄まじい緊張感を伴い、脆い綱を渡る男の〝捜査〟をより困難にする。
さらに、より強い印象を残すのは主人公の二面性である。人格者のように見えるバウマンは冤罪でないかと疑いつつ読み進めたのだが、徐々に明かされていく回顧から犯した罪が紛れも無い事実であることを知る。同時に極めて低い贖罪の意識と〝運の無さ〟を嘆く図太さに気付く。他の悪人と比べて、狂気性や暴力性の程度は〝軽い〟ものの、決して善人ではない。この設定が、勧善懲悪の定型を打ち破る終局への流れに違和感無く繋がっていく。

全てを解き明かした果てに男を待ち受ける無常なる運命。それを不条理と感じるか、当然の応報と捉えるか。衝撃的なラストシーンは〝この程度の動機〟で人を殺す完全なる狂気から、何者も逃れる術がないことを冷然と指し示し、虚無的なカタルシスへと導く。本作は、作家の剛腕あってこその異形のミステリであり、劇薬を忍ばせている。

評価 ★★★