海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「最後の暗殺」デニス・キルコモンズ

謀略の狭間で死闘を繰り広げるプロ対プロ。一方は引退間近のフリーランスの殺し屋、もう一方は引退同然だったMI6諜報員。どちらが先手を取り、より有効なダメージを与えるか。二人に共通するのは、些か錆び付いているとはいえ、時に鋭い光を放ち敵の眼を眩ます燻し銀の技倆に他ならない。1987年上梓、緊密な構成と至極のサスペンスが出色のスパイ・スリラー。

 1968年4月4日、米国メンフィスで黒人指導者マーティン・ルーサー・キングは暗殺された。事件から20年後、真実を明かすという人物が突如現れる。その代理人となるジャーナリストのロイドは、不可解にも英国の報道機関にネタを売り込もうとしていた。同国諜報部は、狙いと真偽を探るため、休職中だったMI6工作員ピーター・レイシーを呼び戻す。記者を装いロイドに接触したレイシーは、キング暗殺の〝真犯人〟を名乗るラウルが滞在するスペインへと飛ぶ。
男の話は俄には信じられないものだった。当時のキングは行き詰まった公民権運動の行く末を悲観し、このまま凋落するよりは、道半ばでの〝殉教者〟となる道を選んだというのだ。暗殺の偽装工作には、当時キングの側近だったバーネットも関わっていたらしい。現在、バーネットは黒人初の副大統領候補として躍進中だった。レイシーは背後に策謀の匂いを嗅ぐ。だが探り始めた直後、何者かによってラウルが惨殺された。やがて浮かび上がる〈ザ・ボード〉と称する秘密結社の影。レイシーは米国へと飛び、CIAと共同で事に当たるが、事態は予期せぬ展開を辿り、さらに錯綜する。

 スリラーとしては珍しいキング暗殺を題材とするが、安易な陰謀物で終わらせず、水面下の熾烈な諜報戦を重厚な筆致で描き、全編緊張感が途絶えることはない。事件の背景を物語る序盤はややスローペース。正体不明の暗殺者が動き出す中盤から一気に加速し、徐々に焦点を絞り、核心へと迫っていく。策略に裏切りが絡むことで、終盤まで全貌を掴むことは難しいのだが、視点が揺らぐことはないため、破綻することなく真相へと導く。

本作最大の魅力は冒頭に記した通り、入り乱れる陰謀の末端で激烈な攻防を展開する工作員と暗殺者の造型にある。
〝熟練〟の殺し屋サザランドは、独自の行動基準を持ち、英米諜報機関を翻弄するばかりでなく、資金源である極右組織〈ザ・ボード〉に反するような動きさえ見せる。巧妙な隠れ蓑の下で、敵味方問わず攪乱し続けるサザランド。その真意とは何か。老獪な殺し屋が実際に姿を現すことが殆どないが故に、逆にその不気味さが増幅する。
一方のレイシーは、直近の任務で心身を病み、感情を失った抜け殻に等しいことを、導入部で明かす。キング暗殺を巡る新たな仕事は、さらに過酷な工作活動を強い、より一層精神を蝕むかに見えた。レイシーは、口封じのために或る男を躊躇うことなく殺した後、自嘲する。これこそが俺の仕事なのだ、と。舞い戻った非情の世界で、再び滾る野獣の血。そして、次第に〝好敵手〟となっていくサザランドに対し、不条理であることを自認しつつも、シンパシーを抱き始める。遂には決着の場で〝実体化〟した殺し屋と対峙。終幕のシーンは意外にも静謐な空気感を漂わせている。

共に権力闘争やイデオロギー対立などを唾棄し、〝個〟として闘うことに実存を見出すレイシーとサザランド。覚醒したプロフェッショナル二人は、最終的な駆け引きによって超大国の思惑と巨大組織の野望を打ち砕いていくこととなる。

 キルコモンズは英国のジャーナリスト兼作家で、17歳から記者の道を歩んだという俊才。日本では無名に近いが、骨太なプロットと巧みな人物造形、情景を鮮烈に印象付ける筆力は確かだ。翻訳数は少ないものの、その実力は本作で存分に味わえるだろう。

評価 ★★★★

 

「10億ドルの頭脳」レン・デイトン

相変わらずの迷宮世界で独自のスパイ小説を構築するデイトン1966年発表作。
共産圏壊滅を狙う極右組織。その実態は現実性に乏しい策略を捏ねくり回す素人集団に過ぎなかった。この滑稽な妄想家らの企みの穴に付け込み、フリーランス工作員が暗躍、某国への土産を手に亡命を目論む。
……以上は、私が大まかに掴んだプロットだが、多少は違うかもしれない。本作はボンドシリーズのパロディとも読める。陰謀に勤しむ資本家、いいように振り回される大国。その醜態を茶化しながらも、クールに〝なすべき事をなす〟諜報員。主人公は、デイトンの初期作品でお馴染みの英国情報機関WOOC(P)局員の「わたし」。ゴロワーズを咥え、要所要所で巧妙な罠を仕掛けつつ、絡み合った紐を解きほぐす。極めて冷徹な男は、隙を見せて油断させ、敵の懐へと潜り込んでいく。

明晰だが含みを持たせた比喩。シニカルな警句を吐きつつ謀略渦巻く地を渡り歩く名無しのスパイ。水面下で展開する諜報戦。意図的に状況説明を省いて構成を捩り、工作活動の不透明/曖昧さを表出する。殆どの登場人物は独白もなく、正体と真意を明かさない。拡がる波紋に浮き沈む情報の断片。主人公に成り代わりそれを拾い集めるのは、読み手となる我々自身だ。
ル・カレは書き込み過ぎ、デイトンは削り過ぎる。両巨頭の作品が難解となるのは、至極当然といえるが、これが逆に魅力となっている。スパイ小説の極点にいる二人の価値はこれからも不動だろう。
評価 ★★★

 

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「地獄の群衆」ジャック・ヒギンズ

1962年発表作。同年上梓の「復讐者の帰還」はなかなか読ませたが、本作はどう贔屓目に見ても習作どまり。この時期は出来不出来が激しかったようで、気負いが実作に結び付いていない。
娼婦殺しの容疑者に仕立てられた男が刑務所から脱走し真相を追及するというプロットは、構成の粗が目立ち、ストレートに物語が流れない。熟練の土木技師でもある主人公の設定を生かしたシーンはあるが、冒険的要素は少ない。篠突く雨、霧の波止場、荒れ果てた墓地、寂れた酒場。情景や道具立ては、ヒギンズ・ファンには馴染みのものだが、情感を盛り立てるまでには至っていない。全体的には英国風ハードボイルド・タッチで光る面もあるのだが、ヒーロー像を固められずに弛緩しているのは残念だ。
後の傑作群を思えば、これもヒギンズが高見を目指すための修練となる〝冒険〟だったのだろう。
評価 ★★

 

「大統領専用機行方を断つ」ロバート・J・サーリング

予測不能の展開が強烈なサスペンスを伴い読み手を翻弄する1967年発表作。

 第37代合衆国大統領ジェレミー・ヘインズを乗せた大統領専用機が、静養先のパーム・スプリングスへ向かっていた。時は夜間、航空路は荒れ模様だった。機長は管制塔との交信で、雲上へと回避することを告げる。その直後、機影はレーダーから忽然と消えた。場所はアリゾナ山中。急遽大規模な捜索が始まるが、一帯は険しい山岳地のため困難を極めた。事故か、策謀か。いまだ国民にはケネディ暗殺の記憶は生々しく残っており、国内は騒然となる。

大統領専用機は奥深い渓谷に墜落していた。乗員乗客は全て死亡。爆発炎上による死体損傷が激しく、身元確認は困難を極めた。間もなく判明した不可解な事態に米国政府は慄然とする。大統領の遺体だけが発見できない。側近と共にヘインズが搭乗する姿は多くのマスコミ関係者によって視認されていた。専用機は、墜落するまで一度も着陸していない。さらに混乱する要因があった。身元不明の死体。ちょうど大統領専用室の残骸付近で見つかった。だが、搭乗名簿に記載は無く、どこの誰かも判らない。大統領でなければ、この男はいったい何者なのか。そもそも、大統領はどこに消えてしまったのか。

 読者を引き込む魅惑的な謎をいかに創り出すか。序盤での作家の腕の見せ所だ。当然、アイデアがどれだけ驚天動地のものであろうと、辿り着いた真相が荒唐無稽であれば、駄作の烙印を押されるのは必至だ。いかに違和感なく、しかも予想を遙かに超える解明に導くか。本作は、その稀な成功例のひとつといえる。全編に横溢する濃密なスリル、冒頭で広げた大風呂敷を綺麗に畳み込む謎解きの妙、数多い登場人物を一人も無駄にすることなく造型する技倆。何よりも、大胆且つ切れ味の鋭いプロット。つまり、実に完成度の高い傑作なのである。

物語は、主に二つの視点で展開する。ひとつは、米国政府内部の動き。大統領ヘインズは、不穏な国際情勢の真っ只中で新たな戦争に突入しかねない瀬戸際に立たされていた。台頭する中国の脅威。どう動くか読めないソ連の思惑。核戦争勃発寸前という未曾有の危機。そんな中で、国家の最高責任者の生死が不明なまま、権力欲だけは一人前の凡庸な副大統領が代行する役目を担う。この男が慢心して暴走する結果となるのは明らかだった。

もうひとつは、消えた大統領の謎を独自に探り始めた通信社IPSの動き。事故直前までのヘインズの行動を掘り起こし、事件の内幕に徐々に迫っていく。このパートこそ、本作の読みどころとなる。作者サーリングは元UPI通信社の航空担当記者で、培った経験と専門知識を存分に発揮し、敏腕記者らの生彩溢れる奮闘ぶりをリアリティ豊かに描き出している。彼らは地道に関係者にあたって事実を拾い集め、矛盾に着目し、嘘と真実を見極め、パズルのピースを嵌めていく。前代未聞の大スクープ。それは、徐々に形になり始めていた。

特に主人公を設けていないのだが、怒濤の勢いで進行するストーリーは、時に迫真のドキュメントタッチで緊張感を煽り、時に記者らの仕事に懸ける情熱を活写して物語に厚みを加え、クライマックスまで疾走する。終盤近くまで、消えた大統領の謎が解明されないという構成も凄い。遂に明かされる全貌。その鮮やかな手並み。ミステリの真髄が、ここにある。

評価 ★★★★★

 

「老人と犬」ジャック・ケッチャム

ホラー小説界の異端児ケッチャムは、稀代の問題作「隣の家の少女」(1989)で精神的加虐性を極限まで抉り出し、読み手の度肝を抜いた異能の作家だ。1995年発表の本作は、そのイメージを引き摺ると肩透かしを食らう。結論から述べれば、実に余韻の深いノワール・タッチの小説で、この作家の底知れなさに驚嘆した。他の作品で顕著な不快感を煽る過激且つ過剰なサディズム嗜好は抑えられており、暗流にあった屈折した抒情性をストレートに表出している。私見だが、これこそケッチャムの本質なのではないかと感じた。

 老いた男は、町外れの川で釣りを楽しんでいた。傍には長年連れ添った愛犬。そこへ見知らぬ少年三人が近付く。最年長と思しき少年は、高価なショットガンを携えカネを出せと脅した。老人は僅かばかりのカネが車中にあるから自由に持って行けと答えた。端金だと知った年長者は、犬に銃を向け、躊躇うことなく頭を吹き飛ばした。少年らは笑った。犬の亡骸を抱えた老人は、去って行く三人を呆然と見つめ、打ち震えた。喪失感と、それを凌駕するほどの煮え滾る怒り。男は、すぐさま行動に移った。

 老人の名はエイブリー・ラドロウ。犬の名はレッド。冒頭の悲痛なシーンによって、ラドロウがレッドの仇を討つという暴力的な流れに一気に突入するのではないかと、読み手は予測するだろう。けれども、ケッチャムはあくまでも〝正攻法〟で物語の土台を固めていく。雑貨店を営み、友人も多いラドロウは人格者であり、怒りをコントロールするすべを身に付けた理知的な男として描くのである。ラドロウは「目には目を」ではなく、あくまでも少年が罪を認めて謝罪し、相応に償うことを求める。この達観的境地がどう変わるのか、或いは変わらないのか。読者は憤りと共に読み進めるだろう。

 老人はショットガンの薬莢を手掛かりに犬を殺した少年の名を突き止め、その家へと向かう。ダニー・マコーマック。その父親マイケルは、土地転がしとして名を知られ始めていた成金だった。傲慢にも息子の行為を認めず、逆に雑貨店の土地を売れと強要した。謝罪の言葉を得られれば許してもいい、という虚しい思いを呆気なく裏切られたラドロウは、法的手段へと駒を進める。だが、証拠は不十分で、マイケルが講じた裏工作によって、裁きの場はあっけなく打ち砕かれた。老人は次の段階へと移る。その挑発は、マコーマック親子の暴力衝動を瞬時に目覚めさせた。無論、すでにラドロウにも闘う覚悟はできていた。

 ストーリーは至ってシンプル、引き締まった構成によってテンションは重圧感を伴いながら急激に上がっていく。主人公ラドロウは67歳、妻は10年ほど前に亡くなり、娘は結婚して家を出ていた。二人の息子がいたが、ラドロウは語ろうとしない。その残酷な真相は中盤で明かされるのだが、合間に挿入する過去のエピソードが、現在の有り様と徐々にオーバーラップし、老いた男の実存を補完する。このあたりの繊細な造形は見事で、作家の技巧が成熟していることが分かる。ラドロウの半生を知ることで、劇的な結末の必然性が高まるのである。

 相変わらず不条理な暴力と退廃的な狂気が横溢しながらも、本作が〝安心〟して読めるのは、現実の猟奇殺人を基にしたという「…少女」には微塵も無かった〝救済〟という概念を根底にしっかりと置いているからだ。
また、トラウマを抱えた主人公の分厚い造型をはじめ、僅かしか登場しない端役でさえ強い印象を残すのは、誰もが生き辛さ、弱さを抱えながらも家族や友人のために力になろうとする、その関係性を丁寧に描き出しているからだろう。老人は孤独だが、人望という〝力〟を持つ。それは、喪失から再生への足掛かりとなるものだ。或る者は己の弱さを自覚し打ち克とうとする。或る者は業の命ずるままの享楽を経て自壊する。老いた男は、悪を体現する相手にさえ、思いやりを示す。この辺りの微妙なニュアンスを表現するケッチャムの筆致は洗練の極みにある。

「死とは、人が潜む闇だった」……このモノローグのあと、老人は最後になすべきことを悟り、最終的な決着の場へと赴く。

不条理な狂気の行き着く果てとしての暴力。終局に於ける情景に圧倒された。現実と幻想が入り乱れるレトリック。ズタボロになりながらも、愛するものを弔うために地を這い続ける老いた男の信念。その鮮烈なシーンは、巻末で解説者述べるところの映画監督サム・ペキンパーのバイオレンスに近いかもしれない。つまりは映画「わらの犬」や「ワイルドバンチ」のクライマックスに於ける暴力衝動の放出によるカタルシスだ。だが、本作の幕切れは、清々しいまでに生への〝希望〟に満ちており、単なる〝暴力の美学〟で終わらない感動へと導く。
私は、娯楽小説として見た場合の「…少女」に納得がいかず最低評価を付けたが、ケッチャムの才能を思い知らされた本作は、文句なく推薦できる。そして、カテゴリはホラーではない。ノワールだ。


評価 ★★★★

老人と犬 (海外文庫)

老人と犬 (海外文庫)