海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「雷鳴」ジェイムズ・グレイディ

1994年発表作。スパイ映画の秀作「コンドル」の原作者グレイディが〝お家芸〟となるCIA内幕を題材としたスリラー。

主人公はCIA局員ジョン・ラング。ある朝、同局員で友人のマシューズが流れ弾を浴びて死んだ。公には事故として処理されたが、明らかに故殺だった。不可解にも局上層部は、ラングに事件を追求するなと警告した。マシューズは、中東で暗躍していたテロリストへの武器供給が絡む内部情報を追っていたらしい。納得のいかないラングは、下部組織CTC(対テロリズムセンター)所長のグラスに接触し、内密の協力を得て事件を探り始めた。徐々に浮かび上がる背信者の影。必然、ラングは危険を招き寄せた。

 本作にも期待していたのが、気の抜けた炭酸水のように味気ない作品だった。対テロ工作の造反を主軸とするストーリーは、起伏に乏しく中弛みも激しい。改行の多い短い文章を繋げていくスタイルは映像的でテンポは良いが、翻訳文庫600頁の長さはどう考えても冗長。感傷過多で前後の流れが遮断されていくため、状況を把握しづらい。

ラングは、秘密工作の口封じのために殺された友人の仇を討つべく、上層部の圧力を掻い潜り、関係者を当たっていく。だが、真相を解明する手掛かりとなる人物は次々に暗殺され、雇われた殺し屋は間近に迫ってくる。概ね「コンドル」を焼き直したようなプロットなのだが、デビュー作の完成度には程遠い。何より、登場人物にさっぱり魅力を感じなかった。主人公は、過去にアジアでの工作活動に失敗して恋人を死なせ、トラウマになっているようなのだが、情動の描き方が軽いため、物語に生きてこない。さらに死んだ友人の娘が何やかんや絡んでくるのだが、単なるにぎやかしで微塵も必要性がない。終盤に明かされる黒幕も、意外性が無く、やっぱりこの男か、と溜め息が出たほど。
冷戦後のスパイ小説の方向性として、諜報機関内部の腐敗を暴くことは〝正しい〟とは感じるが、如何せんグレイディは〝内幕物〟に絡め取られ過ぎて、空回りしている。 

評価 ★

 

 

「消えた錬金術師」スコット・マリアーニ

ベン・ホープシリーズ第1弾で 2007年発表作。いかにも英国人好みの高潔で高貴な男を主人公に据え、歴史ロマンを絡めたアドベンチャーを展開する。

ホープは本作の時点で37歳。元英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)の隊員で、現在はフリーランス。主に誘拐された子どもを奪還する仕事を専門に請け負っていた。今回の依頼主は、老いた富豪の男。不治の病に冒された孫娘を救う〝秘薬〟があり、その秘密を解き明かした手稿を手に入れてほしいという。男の話は眉唾物だった。20世紀初頭、フランスの錬金術師フルカネリが発見した〝不老不死の霊薬〟が存在するというのだ。ホープは、手掛かりを求めて接触した米国の女性生物学者ロベルタの協力を得て、ヨーロッパへ飛ぶ。時を同じくして、或るヴァチカン大司教の密命を帯びた凶悪な〝異端審問官〟が動き始めていた。事態は混迷しつつ、危険度を増していく。

現役作家でいえば、ダン・ブラウン/ジェームズ・ロリンズの系譜を汲むが、米国と英国の気風の差が如実に表れている。マリアーニの特徴を些か短絡的に述べれば「品が良すぎる」というところか。フレッシュな感性や柔らかいタッチは魅力で、剛腕で押し切るロリンズの大作のように胃にもたれることはない。だが、気負い過ぎて雑になった部分が目立ち、完成度を下げてしまっている。

主人公は、清廉で正義感が強く、子どもや女性に優しい。そして、或るトラウマを抱えている。まさに絵に描いたようなヒーローなのだが、これも残念ながら造型が浅い。ヒロインとなる学者も大してサポートしておらず、あくまでも賑やかしの存在で止まっている。秘密結社の黒幕も迫力不足。このタイプのストーリーでは強大な悪こそが不可欠であることを改めて感じた。
肝心のプロットは、どこかで読んだ作品の寄せ集めのようなもので、知的興奮度も低い。そもそも核となる〝宝〟が、錬金術によって生み出された不老不死を叶える秘薬なのだから、読み手は絵空事として冒頭から割り切って読むしかない。謎の解き方もご都合主義が目立ち、同系のスリラーを読み慣れた読者なら、物足りなさを感じる部分も多いだろう。終盤の盛り上げ方にも工夫が欲しい。

といっても、今の時代に新たな活劇小説を創作しようと奮闘するマリアーニの心意気には好感が持てた。次作に期待したい。

 評価 ★★☆

 

「ボーン・マン」ジョージ・C・チェスブロ

実力派チェスブロの1989年発表作。娯楽的要素を盛り込んだ一味違うスリラーで、埋もれたままにしておくのは惜しい秀作だ。

激しい雨が降り続いていたニューヨーク/セントラル・パーク。その一角で憔悴した状態の浮浪者が市に保護された。男は入院後しばらく意識を失っていたが、ようやく長い眠りから覚めた。頭は冴えており、流暢に話せた。だが、自分が何者かが思い出せない。記憶を無くして呆然としている男に対し、病室の隅で待機していた大柄な刑事が告げた。「お前はホームレス連続殺人事件の容疑者だ」と。
刑事は証拠を二つ示した。先夜殺された老婆の首飾りを男が身に付けていたこと。そして、被害者の血痕が衣服に不着していたこと。男は自問する。俺は本当に殺人者なのか。いや、決して狂ってはいない、と確信できた。だが、無実を晴らすためには、もと居た場所へと戻り、自分の行動を検証し直す必要があった。男は自らを〝見知らぬ男〟と捉え、瞬時に浮かぶ思念や無意識の行動を把握しつつ、記憶を取り戻す方法を模索し始める。

殺人容疑の掛かる記憶喪失者を扱ったミステリは、さほど珍しいものではないが、本作はユニークな着想と趣向を凝らした舞台設定で独自の世界を構築、簡潔でテンポの良い文章で淀みなく読ませる。静かに始まる発端から、物語は徐々に熱を放ち、ダイナミックな展開をみせていく。

正体不明の男は、一年前からセントラル・パークの至る所で目撃されていた。通常のホームレスとは違い、何から何まで異質だった。三十代で身なりは清潔。体躯は鍛えられているが、全身傷だらけ。行動範囲が広く〝同胞ら〟とも親しく接していたが、一言も喋らなかった。さらに、不可解にも〝謎の大腿骨〟を肌身離さず持ち歩いていた。
逮捕寸前の男を救ったのは、ソーシャルワーカーのアンで、彼女は以前から男を〝ボーン(骨)〟と呼び、並々ならぬ興味をいだいていた。彼女の尽力によって身柄の拘束をまぬがれた男は、棲み処であった広大な公園へと舞い戻る。ボーンは、自らを知る人間を探すために敢えて目立つ行動を取り始めた。同時に、途絶えていたホームレス殺しが再び続発。身に覚えがないながらも、もしかしたら自分が殺人者ではないのかとボーンは苦悩し、更なる窮地に陥る。

ストレートに主人公の奮闘を追っていくため、視点にブレがない。三人称スタイルで、殺人者のパートも挿入しているが、邪魔にならない。構成がシャープで、中弛みが無い。登場人物を絞っているため、殺人者は序盤から推測でき、中盤過ぎには明かされる。ボーンと殺人者はどう繋がっているのか。なぜ、誰も男のことを知らないのか。一年以上も前からセントラル・パークで何をしていたのか。指紋が摩耗している理由とは何か。そして、再び手にした、この骨の意味とは。
読み手に対して、男の正体を仄めかすことはない。ボーンが辿る経験を通して、同じように〝見知らぬ男〟の正体を探っていく。つまり本作は、主人公の存在こそ、最大のミステリとなる訳だ。街のゴロツキから逃げる際に、突差にビルの壁を素手のみでよじ登る特殊な身体能力にボーン自身が唖然とする。殺人者に近づくほどに、甦る記憶。中途まで読み進め、ようやく気付く。本作は冒険小説なのだと。過去を失った男が本能の命ずるままに行動し、本来の自分を取り戻す過程は、いわばロバート・ラドラム畢生の傑作「暗殺者」(1980)に近いテイストだ。名は二人とも〝ボーン〟(スペルと意味は違う)で、もしかしたらチェスブロは同作を意識していたのかもしれない。

終盤は、マンハッタンの真下に拡がる別世界で進行する。ここには、電気やガス、下水などの管や電線ケーブル、地下鉄が複雑に絡み合っているという。地下7階まであるグランド・セントラル駅の下には、さらに古い遺跡や水路があるとも考えられ、植民地時代の遺物とも交錯していた。地底には湖も川も洞窟もあり、そこには世捨て人が棲み着いている。いわば異世界に等しい摩訶不思議な地下を舞台に、アイデンティティを取り戻したボーンの探検と、殺人者との決着を描くクライマックスへと突入する。

常に男を支え続ける血気盛んなアン、地下世界を知り尽くした街頭詩人ズールーなど、脇役も多彩。枝葉まできっちりと彩色された作品が面白くないはずがない。
評価 ★★★★

 

「死体が転がりこんできた」ブレット・ハリデイ

1942年発表のマイアミの私立探偵マイケル・シェーン第6弾。同年にチャンドラーが「大いなる眠り」を上梓、ハードボイルド小説隆盛期に当たる。戦時下ということもあり、暗躍するナチスのスパイを絡め、この派にしては珍しくプロットに凝り、捻りを利かせている。主軸となるのは現金輸送車襲撃事件を巡るカネの争奪戦で、旧知のニューヨークの探偵がシェーンの事務所で事切れたことを幕開けとする。主人公はタフで知性的。文体は客観描写に徹し、テンポは良いが、やや殺伐としており、感傷の面では物足りない。手堅くまとまってはいるが、インパクトが弱いといった読後感だ。当時の米国で絶大な人気を誇り、いわばハードボイルドのスタンダードとも呼べるシリーズだったらしい。ハリデイの妻は、同じく著名なミステリ作家ヘレン・マクロイ。愛妻家である探偵の造形には、当時のハリディ家が反映されていたのかもしれない。
評価 ★★★

 

「ツンドラの殺意」スチュアート・カミンスキー

ソビエト連邦崩壊前、極寒のシベリア地方の小村を舞台とした異色の警察小説。エド・マクベイン「87分署シリーズ」へのオマージュらしいが、終始暗鬱なトーンに包まれており、アイソラの刑事たちが醸し出す躍動感は無い。
歪んだイデオロギーが暗流に淀み、自由無き閉塞感の中で、殺人事件の真相を追わねばならない刑事らの苦悩はしっかりと伝えている。だが、良い点は少ない。モスクワで発生した物盗り事件と並行して捜査が展開するモジュラー型だが、どうにも中途半端な構成で完成度を弱めている。謎解きも凡庸で強引さが目立つ。主人公の部下が国家主義を標榜するなど、体制批判よりも厭世的な達観の度合いが強い。
恐らく設定の奇抜さが受けて、MWA最優秀長編賞を受賞したのだろが、カミンスキーは他にもっと良い作品を書いているのではないか。

評価 ★★