海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「誓約」ネルソン・デミル

打ち震える程の感動の中でラストシーンを読み終える。「この小説を書きたかった」と感慨を述べたネルソン・デミル、その積年の想いが伝わる渾身の大作である。本作を書き終えた瞬間の充足感は相当なものだったろう。
1985年発表の「誓約」は、1968年3月のソンミ事件を下敷きに、民間人大量虐殺の首謀者として裁かれた元軍人が国家を相手に闘うさまを、冷徹且つヒューマニズムに溢れた筆致で劇的に描き切った傑作であり、ジャンルを越境する力強さを持つ。鋭利な社会批判と重厚なリアリズム、心揺さぶるドラマ性を一体化し、現代の読者に相応しいエンターテイメント小説として完成させたデミルの才能は計り知れない。

地獄絵図の如く荒廃した戦場の有り様と、狂気の淵まで追い詰められ崩壊する人倫、その果ての無秩序から増幅/呼応し、遂には無差別殺戮へと至る非人間性と頽廃。狂うことよりも正気を保つ方が難しい状況下で起こるべくして起こった虐殺。
米国元陸軍中尉タイスンは、闇の中に葬られた悪夢の如き事件の罪を、長い年月を経た後に問われる。はたしてタイスンは皆殺しの命令を下し、主導したのか。或いは、部隊の長であるにも関わらず、隊員の凶行を黙認していたのか。司令部へ虚偽の報告をした理由とは何か。現地人ばかりでなく、「文明社会の同胞」であるフランス人らの医者まで殺めたのは何故か。タイスン自らの手で、無辜の人々を殺したのか。そこに星条旗に唾棄しなかったことを証明する「正義」は有り得たのか。

アメリカ合州国にとって唯一「勝てなかった」ベトナム戦争を題材とした小説は数多いが、国家と個人それぞれの罪と罰を根源的に問い直し、「止揚」へと至るまで突き詰めた作品は極めて稀だ。
虚妄の「正義」の旗印のもとでアメリカはベトナム以降も様々な紛争に介入し続け、障害となる国家/集団/イデオロギーを暴力的手段を用いて排除しているが、それまで順風満帆だった独善的な国家主義志向を根底から揺るがしたのが、泥沼化の一途を辿ったベトナム戦争に他ならない。無論、冷戦終結後の世界において同種の蛮行は絶えることはないが、物量/軍事力ともに圧倒する超大国が本格介入から10年にもわたって弱小国家を蹂躙し続けた罪過は、命懸けで戦場に赴いたジャーナリストらによって瞬時に全世界に報道され衝撃を与えた。無残な殺し合いの本質をまざまざと見せ付けたのである。
ベトナム戦争は負の象徴として認知され、以後、米国政府は徹底的な情報統制を敷く。それは中東への侵略の足掛かりとなった所謂「湾岸戦争」等でも明らかで、生々しい戦場の実態が暴かれていった戦争報道に対する規制の甘さへの「反省」に起因している。ナショナリズムを煽り、国民を鼓舞して戦意昂揚へと繋げるためには、事実を隠蔽し、偽りの「正義」の施行/完遂こそが至上命令となる。米国の為すことに「不正義」があってはならず、軍人に犯罪的行為があった場合は直ちに正さねばならない。巨大な悪の中に沈殿する一個人の「悪」を曝し裁くことで、国家的犯罪から大衆の眼をそらし相殺する。要は体面を保つための生け贄が必要なのである。体制の指導者や軍隊の将軍らが裁かれるのは、戦争に負けた場合のみであり、負けてはいないが勝利を得てもいないベトナム戦争で、罪を問われるのは「加害者であり被害者」でもあるタイスンのような末端の非権力者のみとなる。

或る誓約を胸の内に秘め沈黙するタイスンを嘲笑うかのように「戦友」らは公然と裏切り、その身は切り刻まれていく。果てに待ち受けるのは極刑であり、抗うことの決断を迫られた男を凄まじいまでの焦燥感が襲う。終局のカタルシスが胸に迫る理由は、人殺しの汚名を着せられ生死の瀬戸際まで立たされていた男が、闘い抜くことを決意することでそれまでの一切の呪縛を解き放つからであり、罪と罰に関わる不条理な命題について、デミルが人道主義的な見地からの「救済」策を提示し、物語を見事にまとめ上げたからに他ならない。
そもそも、人間を殺すことで勲章を授かる軍人らが、告発され軍事法廷に立った同胞を裁くことは茶番でしかない。タイスンが有罪であれば、それは己ら自身のみならず、すべての元凶である国家そのものが同罪であることを意味する。その欺瞞ぶりを容赦なく曝け出していることも特筆すべきだろう。

本作は、自らの体験に基づくデミル流の正義論であり、類い稀なる戦争文学だ。また、記憶と証言を通して事実を掘り起こしていく秀逸なる法廷小説でもある。感情の機微まで表現した人物造型の深さ、巧みな語り口と緻密な構成、怒濤のクライマックスへとサスペンスを高めていくストーリー展開など、小説愛好家を唸らせる技法に事欠かない。とまれ長々と駄文を書き連ねてしまったが、「誓約」はデミル畢生の名作である。

評価 ★★★★★☆☆

 

誓約〈下〉 (文春文庫)

誓約〈下〉 (文春文庫)