海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「二度死んだ男」マイケル・バー=ゾウハー

完全なるエスピオナージュ。処女作「過去からの狙撃者」に続き、CIA諜報員ジェフ・ソーンダーズを主人公とする1975年発表作。バー=ゾウハーは第三作「エニグマ奇襲指令」以降は、より娯楽性を重視した作風へと変わるが、初期ニ作は厳然たるスパイ小説で、その完成度の高さには驚嘆する。東西冷戦期の熾烈な諜報戦で捨て駒となり身を滅ぼしていく工作員たち。その無残なる死にざまと、終わりなき謀略の虚妄/非人間性を容赦なく描き切る問答無用の傑作である。

中南米ハイチの山間で白人の焼死体が見つかる。ブードゥー教の儀式で生贄となったが如く擬装された殺害現場、死体発見者がMI6要員に接触を試みるなど、不可解な点が多々あった。事件当日、秘教研究で滞在していた英国人が失踪しており、犠牲となった疑いが持たれていたが、結局指紋は一致しなかった。焼失を免れたというよりも、敢えて死体の身元を明かすために残したと推察できる右手。それは明らかに、英国情報部に対して、何らかのメッセージを伝えるものだった。予想は当たり、現実には有り得ない人物が浮かび上がる。
状況を察知した米国も動き出す。CIA上層部に呼ばれたソーンダーズは、犠牲者の名を聞いて驚愕する。殺された男は、英国を揺るがしたスパイ事件の被告エグレトンで、一年前に同地で死んでいたからだ。その墓には、米国の連絡員として関わったソーンダーズ自身が菊を手向けた。つまり、時を経て、全く違う場所で、男は二度死んだことになる。

エグレトン逮捕は、ソ連の諜報員であることを自ら暴露した結果によるものだった。同時期、ソ連情報部は、反共主義の先鋒で首相候補でもあった英国の新進政治家クライトン=スローンを、ソ連のスパイ網を束ねる影の大物に仕立てる陰謀を企てていた。そのトリックを施す中心的役割を担っていたのがエグレトンだった。メディアが大々的に報道し、破滅寸前まで追い詰められたクライトン=スローン。それを救ったのがエグレトンに他ならない。ソ連の作戦を暴露し、自らが身代わりとなって、敵国の政治家を守った。その理由とは何か。そもそも、なぜソ連を裏切ったのか。その事実が公になることもないままに、心臓発作によってエグレトンは裁判中に死んだのである。

真相を探るべくハイチへと飛んだソーンダーズは、一連の事件の裏に英国情報部と首脳らが絡む大きなからくりを探り出す。だが、二度死んだ男を巡る英ソの攻防は、まだ前哨戦に過ぎなかった。やがて、英国の粗悪な謀みを嘲笑うかのように、闇の中からソ連の巨大な罠が姿を現した。

冒頭で幾重にも渡る仕掛けを施しつつ、緊張感溢れる展開と緻密な構成によって、読み手を一気に物語の中へと引き込んでいく。イデオロギー剥き出しでひた走る覇権国家の飽くなき策略、敵の裏をかくことこそ使命と言わんばかりの諜報組織の陰湿な頭脳戦、その手足となり暗躍する末端スパイの捨て身の工作活動。巻き込まれていく無辜の市民たち。あらゆる側面から丹念に、その無常なる闘いの顚末を描くことに、スパイ小説の神髄がある。
前作に続き、ソーンダーズは、極めて鋭利な分析力に基づいた論理的な推理をまとめあげた上で、全体の構図を終盤で明瞭に解き明かしていく。全ての謎が解かれてゆく快感は、下手な本格推理小説を軽く超えているのだが、それにも増して迫ってくるのは、真相の重みであり、名も無きスパイらが使い捨てとなっていく策謀の冷血ぶりである。
諜報機関とは、権力闘争に於ける権謀術数の最前線に位置し、大組織の最下層にいる工作員は否応なく消耗品と化す。大国が繰り広げる果て無き覇権争いに、柔なヒューマニズムが入り込む余地など無いことを、バー=ゾウハーは冷徹な筆致で示す。

終幕。多くの犬死をもたらした元凶であり、その正体が知られることよりも自死を選択するに違いない大物スパイに対して、ソーンダーズは告げる。
「自殺は勧められない。事故死の方がいい」

ソーンダーズは、その死にも菊の花を手向ける。諜報の世界に生きる虚しさ。それを知り尽くした男の胸中に去来するものを、決して口にすることもなく。

評価 ★★★★★