海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「フランケンシュタイン」メアリー・シェリー

フランケンシュタイン(の怪物)」は、吸血鬼、狼男と並ぶ古典的な三大モンスターとして世界中で浸透し、今も〝娯楽の素材〟として流通している訳だが、唯一伝承や宗教的な典拠を持たず、一作家の創作から誕生したという点で、独創性に富み、尚且つ汎用性に優れている。

1818年、シェリーが若干20歳の時に発表したゴシック小説。まさか後世に残る作品になるとは、作者自身も想像していなかったことだろう。実際、若書きのために小説としては拙い。構成が粗く、人物造形も浅い。往時には主流だった書簡体のスタイルもテンポが悪く、含蓄のある修辞も少ない。ただ、素人じみたまとまりのない恣意性は、逆に何でもありの発想で奇抜な世界を創り出し、連続する予想外の展開で読者を振り回す。
〝原典〟の内容は、現在流布する「フランケンシュタイン」のイメージとは遠い。そもそも、幕開けの舞台が北極圏で、逃走する怪物をその創造主が追い掛けている、という異常なシチュエーションから始まるのだから。

物語は、北極点に向かう英国人冒険家の船に、遭難しかけていたフランケンシュタインが救助されたのち、自らの過去を回想/告白する形で進行していく。野心に突き動かされた若い科学者による人造人間の創造。怪物を生み出すまでの過程が曖昧なのは止むを得ないとして、墓場から掘り起こした死人を繋ぎ合わせ、再び生命を吹き込んだ動機を明確にしていないのは、多少の倫理観に絡め取られた結果なのだろうか。物語は、人間の業に焦点を絞り、寓話的なエピソードを重ねていく。
怪物を生み出した直後、恐怖に駆られた科学者は全てを放り出し、その場から逃げ出す。この時点で既に男の身勝手さに呆れ返るのだが、次々と近親者らが怪物に襲われる段になっても、自責の念に一切駆られることがない。中盤で、フランケンシュタインが怪物と語り合う長いシーンがあり、本作での山場ともなっているのだが、切々と創造主の独善、無責任を饒舌に非難する怪物に対して、科学者は何一つ悪びれることなく糾弾し、身内の不幸は己の狂気が引き起こした因果応報であることに思い至らない。遂には物別れとなり、互いを狩ることに没入するのである。恐らくこの辺りで、怪物は「犠牲者」であり、フランケンシュタインこそが「加害者」である、という逆転現象が起こる。

不条理極まりない己の境遇に同情を求め、理解と幸福を得ようと虚しく〝生きる〟怪物は、醜悪な生体故に差別され虐げられていく。一方、〝人にあらざるもの〟に対して全責任を負うべきフランケンシュタインは、どこまでも利己的に罪過を否定し、暴力を用いて復讐に赴いた怪物の必然性を遺棄する。深層に於いて両者は表裏一体だが、最後まで互いを理解し合うことなく、未来に対して希望を灯すこともない。同様のテーマとして、後のスティーヴンソン「ジキル博士とハイド氏」で、怪物と人間が同一の身体を持つという、より怪奇性を強めた形で継承している。

シェリーは、無神論者/無政府主義者の父親、フェミニストの母親という特異な家庭環境に育ったらしい。深読みすれば、その思想的なバックボーンが本作に影を落とし、〝異形〟の存在への畏怖、科学主義/信仰への警鐘を、内包していたと捉えることもできる。何れにしても、怪物と対比することで、人間の卑しさが生々しく浮かび上がるという〝怖さ〟は、作者が意図せずとも本作に刻み付けられていると感じた。

評価 ★★★

 

新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)

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