海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「神の拳」フレデリック・フォーサイス

1994年発表、いわゆる「湾岸戦争」を題材に虚構と事実を織り交ぜたスリラー。
1990年8月2日、OPEC内で他の産油国との対立を深めていたイラクは、遂にはクウェートに侵攻して即日全土を占領、同月8日には併合を宣言した。国連の撤退要求にフセインは応じず、1991年1月16日に米国を主軸とする多国籍軍が攻撃を開始。圧倒的な物量と最新技術を駆使した現代兵器の差は歴然としており、2月末にはクウェートは開放された。それら一連の流れを追いつつ、イラクが準備していた秘策〝神の拳〟の正体を米英らが探り、実行阻止に動くさまをドキュメントタッチで描く。

鳥瞰的にストーリーが展開するため、登場人物が整理しきれないほど多い。唯一の主人公格は、工作活動のためにバクダッドに潜入する英国軍人で、終盤では重要な任務を果たすものの、個性/魅力に乏しく印象に残らない。
要は〝良くも悪くもフォーサイス〟なのだが、本作に限っていえば良い点は少ない。構成が雑で、人物造形もなおざり。メインの謎となる「神の拳」も、一昔前のスパイ小説もどきで荒唐無稽。謀略小説の弱点と言っていい情報過多も、テンポを阻害している。湾岸戦争の顚末を俯瞰したプロットは、興味深い点が多いとはいえ、米英側に偏り過ぎている。アラブ民族の主義/思想の掘り下げも深いとはいえない。

フォーサイス自身のスタンスは明確ではないが、独裁国家の暴走を〝正義の側に立つ国家群〟が止めた戦争、という型通りのチープな勧善懲悪の構図を取っている。組み込んだ内情には偏向報道を鵜呑みにした部分や、短絡的な善悪二元論に捕らわれている観点も散見する。世界のパワーバランスを軍事力や諜報戦などに焦点を当てて背比べするだけの空疎な軍事小説に近いものを本作には感じた。
巨大な油田地帯を狙う米国の思惑によって、その後のイラクフセインが辿った道のりを考えれば、元ジャーナリストとしてはお粗末過ぎる予見の無さも際立つ。無論、読み手側の勝手な註文/文句であり、それこそ私はルポルタージュでも読めば良い話しではあるのだが。所詮、フォーサイス型のエンターテインメント小説では限界がある、ということなのだろう。


以下は、余談である。

ジョージ・ブッシュが主導した「湾岸戦争」と、ブッシュJr.が親父の私怨を晴らすために画策した「イラク戦争」の実態は、今では殆ど明らかとなっている。
冷戦終結によって、軍備拡大のための理由付けとなる格好の敵国ソ連を失ったアメリカが、さらなる肥大化を遂げるため、満を持して〝ならず者国家〟の筆頭に引き上げたのがイラクだった。
かつては中東の防波堤として利用したイラクを「潰す」動因は幾らでもあった。北朝鮮とは違い、そこには莫大な石油が眠っていた。さらに、その土地は中東での覇権には相応しい場にあり、イスラエルとの共同戦線を張るには万全の位置だった。
フセインを騙して誘導し、クウェート侵攻へと導く策略は見事に嵌る。ベトナムでの恥辱を、イラクで晴らす。悪党を正義のガンマンが征伐する。単純なウエスタンに、大衆が幻惑され、米国への誇りを取り戻すことを念頭にした謀略。それに追随する多国籍軍とは、米国に従属し見返りを求める国家群の寄せ集めに過ぎないが、物を言うのは手下の数である。〝湾岸〟ではカネをたかられて指を咥えていただけの日本も、二度目は戦場の恐怖を味わわせてやれる。
つまり、この二つの「戦争」はアメリカの筋書き通りに、世界中にハリウッド映画張りの刺激的な興奮を与えることのできる一大興行として擬装できた。「イラクが隠し持つ大量破壊兵器」という嘘を公然と吐いた果てに、喉から手が出るほど欲しがっていた巨大な油田地帯に足を踏み入れ、真の目的を成就する。今となっては無用の長物、フセインの首はすぐ其処にあった。
イラクを舞台とする「戦争」は、いわばギャングの抗争レベルに等しく、どちらがより狡猾な悪党かを決めたに過ぎない。当然、端から結果は分かっている茶番だった。

 湾岸戦争終結後に、フセイン抹殺へと至る派遣国家の狂った所業は、本作の創作時点でも充分に予期できたはずだが、フォーサイスの主眼はそもそも「戦争の実態を描く」ことではなかったようだ。どうやら、ジャーナリストとしての鋭い視点/考察に期待してはいけないらしい。

評価 ★★

 

神の拳〈上〉 (角川文庫)

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神の拳〈下〉 (角川文庫)

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