海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「切り札の男」ジェイムズ・ハドリー・チェイス

米国産ハードボイルドなど生ぬるいと言わんばかりに冷酷非道の犯罪の顛末を描いた処女作「ミス・ブランディッシの蘭」(1939)。無名の英国人作家の衝撃的な登場に、世界中のミステリファンは度肝を抜かれた。私利私欲に塗れた悪党が入り乱れる突き抜けた構成、スピード感溢れる簡潔且つドライな文体、まやかしの正義を葬り、より狡猾な者だけが生き残るという徹底したシニシズム。世の中に善人などいない、という虚無主義を貫き、因果応報の予定調和を打ち壊す。ジェイムズ・ケインをさらに粗暴にしたかのような圧倒的なインパクトに、海外ミステリを読み始めたばかりだった私は完全に打ちのめされた。チェイスは、その後も「蘭の肉体」(1942)、「悪女イブ」(1945)などで退廃的世界観を深化させてベストセラーを連発するが、熱狂的に迎え入れたフランスの読者を除き、大半の批評家らは眉をひそめるか無視し続けたようだ。だが、ここにきて、人間の生々しい愛憎と背徳を前面に押し出したスタイルによって、チェイスこそが現代へと繋がるノワールの先駆者だと再評価され始めている。刻印された〝通俗〟という揶揄は、チェイスに限っては褒め言葉にしかならない。高尚な芸術性とは無縁の犯罪小説の真価。まずは、チェイスを体感すべきだろう。

1971年発表の「切り札の男」は、カネと色に没入し、卑しいエゴを剥き出しにした男と女の騙し合いをテンポ良く描き、最後に誰が勝つか分からない捻りを効かせたプロットで読ませる。欲しいモノは手に入れる。行動の基準は、これのみだ。とにかく徹底して悪い奴しか登場しない。敵を蹴散らす〝切り札を持つ男〟を味方に付けるのは誰か。どう転がっていくのか予測不能のまま、読み手を引き込み、ラストまで突っ走る。さすがに初期のサディスティックな暴力性は弱まり、人物造形やストーリーの流れに重点を置いている。デビューから30年を経てチェイスも成熟し、丸くなったというところか。だが、柔な倫理観など歯牙にも掛けない非情なスタンスは相変わらずで、何よりもスリラーとしてよく出来ている。

 評価 ★★★

切り札の男 (1977年) (創元推理文庫)

切り札の男 (1977年) (創元推理文庫)