海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「死のドレスを花婿に」ピエール・ルメートル

現代フランス・ミステリの底力を見せつけるルメートル。2009年発表の本作でも繊細且つ大胆な仕掛けを施した超絶技巧が冴え渡り、暗い情念に満ちた濃密なノワールタッチの世界と相俟って読み手を魅了する。

ソフィー・デュゲは、悪夢から目覚め、現実の地獄へと戻る。膝の上には死んだ子ども、レオ。ベビーシッターとして世話をしていた6歳になる男の子だった。その首にはソフィーの靴紐が巻かれていた。レオの家に泊まり込んだ翌朝。まだ子どもが眠っていると信じたレオの母親が仕事に出掛けたのを見届け、自分のアパートへと戻る。身の回りの物を鞄に詰め込み、逃げ出す。行くあてなどない。銀行から有り金全部を引き出す。気を落ち着かせるためにカフェに立ち寄るが、目を離した隙に荷物を盗まれた。その場で知り合った女が好意をみせ、自宅へと招いてくれた。後刻。気付けば、その女が足元に横たわっている。刃物で滅多刺しにされた死体。またしても……。行動が思い出せない。重度の記憶障害。意識無き空白の時間。確かなことは、関わった人間が死に、ソフィーが殺人者であると告げていたことだった。連夜うなされる夢の中では、死んだ夫や義母も、その犠牲者だった。彼女は逃亡するための計画を練る。頬をひたすらに涙が零れ落ちた。

一行目から始まる重苦しいムードは、頁をめくるごとに息苦しさを増す。記憶を失った主人公が殺人を犯していたかもしれないという設定は、格別珍しいものではない。しかしルメートルが有り触れた着想で創作するはずがなく、予測不能の展開で読み手を翻弄する。四部構成の物語は、次のパートに移ると一気に様相を変えていく。導入部での最大の謎は、追い詰められた女は〝狂った殺人者なのか〟とうことだが、極めて異常な語り手(日記)が登場する第二部において事件の背景はあっさり明白となる。だが、本作はここから猛毒を放ち始めるのである。
絶え間なく悲劇に見舞われた一人の女の軌跡。徐々に明らかとなる真相への道程は、最大限の衝撃をもたらすよう緻密に構成されており、物語の核となるこの長いパートの中で、暗鬱な狂気に捕らわれた犯罪者の肖像が分厚く塗り固められていく。或る意味、読み手にとっては試練となるだろう。読み進めることが困難になるほど残酷非道を重ねる鬼畜に対し、フィクションであるにも関わらず心の底から憎悪を抱くであろうから。同時に、心身ともにズタボロとなりながらも、運命に抗い、常に次の一手を見極める女の屈強な精神に驚嘆するだろう。
第三部以降は鋭利なサスペンスを基調にして加速、急転する第四部へと雪崩れ込む。先手を打ち、出し抜く。より狡猾な者が勝つ。結末で鮮やかなツイストを決め、苦いカタルシスの生じる終幕へと導く。
本作の構成は、アイラ・レヴィンの〝あの傑作〟に通じると感じたのだが、殺人者が狂気に陥った要因を解き明かす終盤の流れは、その救いの無さにおいてはるかに凌ぐ。純粋無垢な善など幻想であり、程度の違う狂気を誰もが宿している。それが一旦解放されたならば、利己的な妄想は肥大化/暴走し、己のアイデンティティを満たすためだけに、暴力/破壊衝動を解き放つ。人間はどのように狂っていくのか。醒めた視点を崩さないルメートルの冷徹な筆致は徹底しており、撥ね返された汚辱の罪を背負い、殺人者が最終的には破滅するまでを生々しく描き切る。傑作だ。

 評価 ★★★★★

死のドレスを花婿に (文春文庫)

死のドレスを花婿に (文春文庫)