海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「脱出せよ、ダブ!」クリストファー・ウッド

1983年発表、冒険小説本来の魅力を存分に味わえる隠れた名作。巻末解説で翻訳者佐和誠が熱を込めて述べている通り、本作の〝主人公〟は、縦横無尽に活躍する単葉飛行機《ダブ》である。オーストリアで生まれ、第一次大戦でドイツの主力戦闘機となり、初めて空中戦を行ったという歴史的名機だ。翻訳文庫本表紙には安田忠幸による装画で、その優美な姿が見事に表現されている。この装幀とタイトルだけでも、読むことを躊躇う冒険小説ファンなどいないだろう。「クラップタウべ」(折畳み鳩)と呼ばれた通り、全長15メートルの翼は畳むことができ、しかも組み立て式という秀れた機動性と機能性を持つ。このダブと出会い、ともに未曾有の冒険へと旅立つのは英国の若い軍人三人。舞台は西アフリカ、ドイツ統治下のカメルーンで物語は始まる。

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山岳地帯の敵陣地へ攻撃に向かっていた英国陸軍の分隊が、ドイツ軍の強襲を受けた。奇しくも生き残り、捕虜となったのは僅かに三人。誇り高い軍人だが気質が荒いカニンガム大尉、士気は高いが経験の浅いポインター中尉、そして陽気な性格だが型破りな元水兵のスミス。互いに相性が良いとは言えなかったが、それぞれに任務遂行能力は高い。連行された先で指揮を取っていたのは、ドイツ陸軍のグラーベン大尉で、戦前の一時期カニンガムとは学友だった。今は敵同士となった二人は、皮肉な懐古に複雑な思いを抱きながらも、再会を喜ぶ。逃亡を試みないという条件で、三人はある程度の自由を与えられた。その夜、スミスが上官の許可無きまま歩哨の目を逃れ、陣地の様子を探った。巨大なアンテナを取り付けた建築物。それは、増強しつつあったドイツ大西洋艦隊に重要情報を打電する無線局で、今後の戦況を有利に運ぶためには、叩き潰さねばならない基地だった。カニンガムは旧友の顔に泥を塗ったスミスの勝手な行動に怒るが、事の重大さは分かっていた。何としても、この事実を英国軍に伝えなければならない。彼らは脱走計画を練り、実行に移した。野生のポニーを手懐け、険しい山を下り、延々と拡がる砂漠地帯へ。追っ手はすぐ後ろまで迫っていた。目指すは、英国軍の拠点となる遙か彼方の港町ドアラ。だが、その道程はあまりにも遠く、極めて無謀な懸けだった。裏切られた上に軍事機密も握られたグラーベンは、カニンガムらの捕獲に執念を燃やし、自ら先頭に立って行方を追う。

 ここまでが序盤の流れだが、《ダブ》の登場まで間もなくだ。最低限の知恵と工夫で数多の困難を切り抜け、彼らは徐々に信頼関係を築いていく。互いに影響し合い、鍛え上げられる不屈の精神。徐々に弱さを克服し成長するさまを描く作者の筆致はストレート且つ生彩に富む。
強烈な喉の乾きに苦しむ中、行き当たったドイツ増援部隊を辛くも破り、ラクダと武器を奪ったカニンガムらは、砂漠のオアシスのような緑に囲まれた集落へと辿り着く。姿を現したのは敵意を剥き出しにするドイツ人宣教師だった。三人は束の間の休息を取りつつ、敷地内を調べる。倉庫には遠征中の敵部隊が保管していた大きな箱があった。カニンガムが眼を輝かせた。「これは《ダブ》だ」

 まるで芸術品のような飛行機だった。カニンガムらは、伝道所に集う現地人らの手を借り、備え付けの指示書を基に一晩で完成させた。宣教師が隠していた燃料も手に入れた。

三人は、ダブの美しさに魅せられた。搭載するのはダイムラーメルセデスの六気筒エンジン。翼全体にゴムをひいた布地を張った姿は、まさに鳥だ。翼後縁の竹で出来た自在小骨(チップ・リブ)と繋いだワイヤーを引っ張り、飛ぶ方向を制御。操縦するリア・コックピットの計器盤には、コンパス、気圧計、タコメーター、水温計などが据え付けられていた。夜明け。グラーベン率いる討伐隊の影。カニンガムは後部操縦席に飛び乗りエンジンを起動、ポインターとスミスを前部コックピットに相乗りさせた。スロットルを開き、滑走する。フルスピード。操縦桿を引く。まるで魔術のように機体がふわりと宙に浮く。カニンガムは歓喜の声を上げた。その瞬間、彼の体を一発の銃弾が貫いた。

 本作が真価を発揮するのは、ここからだ。ダブという名の〝希望〟を掴んだ男たちは、文字通り山あり谷ありの大冒険を繰り広げていく。敵は、狡猾で執拗なドイツ軍だけではない。アフリカの過酷な自然との闘いも待ち受けていた。容赦なく侵入者に牙を剥く野生動物、襲い掛かる無数の昆虫や凶暴な爬虫類。太陽が照り付ける砂漠を越え、鬱蒼と生い茂るジャングルを抜け、吹き荒れる嵐の中を潜り抜けていく。その中心には、常にダブがいた。ここまで飛行機を中核に据える冒険小説も珍しいのだが、物語はボルテージを上げたまま疾走する。ダブは冒険行を支える存在として鼓舞し続けた。中盤から連続する山場をどう乗り切るか、ダブの〝生命力〟にどれほど勇気づけられるか。趣向を凝らした魅惑的なエピソードが折り重なっていく。ドアラを目指して、空を翔け、地を這い、川を下り、どこまでも献身的に身を捧げる飛行機の勇姿。次第にダブに熱い友情を抱いていく男たちは、「別嬪さん」と語り掛け、共に次の死地へと赴く。絶え間なく降り掛かる危機に、彼らは「まだ俺たちにはダブがいる。彼女なら何とかしてくれる」と信じる。無論、作者はダブを擬人化するような馬鹿げたファンタジーにはしない。それだけに、ズタボロになりながらも彼らを乗せて最後まで闘い抜く物言わぬ飛行機の情景が胸に迫ってくるのである。遂には追い詰められ、掛け替えのないダブを失う終盤には、まるで愛する者と別れるような痛切な思いを読み手は抱くだろう。そして、翼をもがれながらも最期まで仲間の窮地を救うダブの哀切極まりないラストシーンに心が揺らぐだろう。

物語は、アフリカの植民地化を巡る帝国主義戦争の愚劣さをもシニカルに抉り出してはいるが、あくまでも冒険に主眼を置き、熱情の如きロマンを高らかに謳い上げる。第一次大戦から一世紀を経て、空には現代テクノロジーが作り出した無機質な殺傷兵器が飛んでいるが、かつて大空を翔けた〝真の戦闘機〟ダブの強さ、美しさに、到底敵うはずなどないのである。

冒険小説の真髄が、ここにある。

評価 ★★★★★