海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「霧/ミスト」スティーヴン・キング

1980年発表作、キングの中編としては最も読まれている作品かもしれない。語り手は、デヴィッド・ドレイトン。物語は彼が残した手記というスタイルで展開する。

舞台は米国メイン州西部。激しい嵐が過ぎ去った翌朝、束の間の静寂を経て地区一帯を覆い尽くしたのは、かつて経験したことのない濃厚な霧だった。湖畔の家が倒木によって損壊し、ドレイトンは息子のビリー、隣家の弁護士ノートンと共に馴染みのスーパーマーケットへ物資の買い出しに向かう。妻ステファニーは自宅に残っていた。店に着いた直後、事態は様相を変えた。さらに濃くなった霧のために、一歩先さえ見通せない。不気味なサイレンの鳴り響く中、血塗れになった男が店に飛び込んできた。霧の中に何かがいると警告するが、大半の客は信じようとしない。痺れを切らして外へ出た者は、誰一人戻ってこなかった。ドレイトンは視る。濃霧に蠢く奇怪な生物を。その異様な触手に襲われ、若者が無残に殺されるさまを。

凶事が引き起こされた背景については、同地にある米軍基地内での極秘実験が要因と匂わせるが、最後まで真相を明かすことはない。ラヴクラフト的な世界観をモチーフに、閉ざされた空間に追い詰められた人々の恐怖を描いているのだが、キングが焦点を当てているのは、絶望の中で醜い争いを繰り広げていく集団心理の悍ましさにあると感じた。極限的状況下で、剥き出しとなる人間の本性。その生々しい〝過程〟にこそ真の恐怖があることを、暗鬱なエピソードを通して記録する。

以前からドレイトンと反りが合わなかった弁護士ノートンは制止を振り切り、助けを呼びに行くと言い残して同調者らと外へ出た。間もなく霧の中から彼らの叫び声が聞こえてきた。夜となり、さらに悪夢は続く。巨大化した異形の昆虫や鳥が店内に侵入し、次々と人間を捕食した。人々はパニックに陥りつつも、即興の武器で対抗するが、犠牲者は増えるばかりだった。そんな中、以前より狂信者として嘲笑の対象となっていたカーモディという女が、自分の存在を誇示し始めた。ついには憔悴し切った者たちを言葉巧みに煽動し、統率しようと図る。助かる手段はひとつ、生け贄を捧げよ。脅えて泣く幼い息子ビリーを抱き締め、ドレイトンは知る。いまや、対処すべき〝敵〟は内部にもいることを。

本作の肝は、人心の脆弱さに巧みに入り込み、〝神と悪魔〟〝黙示録〟という虚偽の体系を操り、非合理極まりない死を宿命として享受させようとするカーモディの造形にある。己は〝神の代弁者〟であり、その言葉は真理であることを主張。この試練は神がもたらしたものであり、人身御供が唯一救われる道であることを説く。中編ゆえに、狂った女がもたらす災厄は早々に暴力的な解決へと至るのだが、「怪物(悪魔)よりも人間の方が怖い」という通念を強烈に裏付けるキングの剛腕が冴える。やがてドレイトンは、行動することを躊躇う大多数の傍観者を見限り、ビリーと数人の仲間を連れて脱出することを決意。この判断がどういう結末を迎えるにせよ、ここには希望がないことだけは明らかだった。彼らは自動車を目指して、不気味な咆哮がやまない白く濁った世界へと一歩を踏み出す。

 実は本作を読み終えた後に、映画化された「ミスト」(2007年公開、フランク・ダラボン脚本/監督)を観て、文字通り唖然とする経験をした。人間の業を抉り出すことに於いて、原作を遥かに超えていたからだ。小説は終末的な退廃感のままに物語を打ち切っているが、映画ではキングのプロットを忠実になぞりつつも、独自の結末を用意していた。キングは物語を「希望」という言葉で閉じているのだが、映画の終盤では〝その後〟を描き、この世の地獄へと容赦なく引き摺り戻す。とにかく、ラストシーンが凄まじい。〝死という救済〟が〝生という絶望〟へと変転する虚無的な終幕。それまでの過程は、この残酷な情景のための伏線に過ぎなかったと思わせるほどだ。映画ならではの緊密な映像表現や役者の鬼気迫る熱演にも圧倒された。
映画版「ミスト」は、生きるための選択が死を招くこともある、という冷酷なパラドックスを見事に表現していた。当然のこと、小説と映画を同列にして比較/評価することは短絡的過ぎるが、本作に関しては、流石のキングも「してやられた」のではないか。

評価 原作/★★★
           映画/★★★★★

 

ミスト 短編傑作選 (文春文庫)
 

 

ミスト Blu-ray

ミスト Blu-ray

  • 発売日: 2016/02/17
  • メディア: Blu-ray