海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「バビロン脱出」ネルソン・デミル

デミル(本作邦訳時の表記はドミル)が名を上げた1978年発表作。この後、トマス・ブロックと共作した航空サスペンス「超音速漂流」(1982)、ベトナム戦争を主題とする重厚な軍事法廷小説「誓約」(1985)、斬新な設定と成熟した筆致に唸る至極のミステリ「将軍の娘」(1992)などの傑作を次々に上梓し、さらに評価を高めていく。

本作は、解決の糸口が見えずに膠着していたイスラエルパレスチナ問題を背景に置く。イデオロギー対立に関わる考証などは最小限に留め、ようやく実現に漕ぎ着けた和平交渉に臨む両者と、その阻止を目論むゲリラとの戦いを主軸に据えている。物語の大半を占めるのは砂漠地帯での戦闘シーンなのだが、凡庸なアクション小説で終わらせず、大義に殉ずることの葛藤と虚無性をしっかりと描いている点は流石だ。


国連本部での中東和平会議に出席するイスラエル代表団を乗せたコンコルド2機がハイジャックされた。実行したのはイスラム系テロ組織で、狂信的過激派として悪名を轟かせていたアラブ人リシュが首謀者だった。超音速旅客機2機の間近を飛ぶ小型ジェット機から交信し、命令に従わなければ機内に仕掛けた爆弾を爆破すると脅迫。護衛のイスラエル空軍機は離脱を余儀なくされた。間もなく、リシュの指示に背いた一番機が爆破され、乗員乗客50人余りの生命が一瞬で空に散った。残された二番機には、イスラエル政府要人の他に、航空会社保安要員ハウズナーが搭乗していた。対テロ工作の元エキスパートで、過去にリシュを限界まで追い詰めたことがあった。ハウズナーは悔やむ。あの時、このテロリストに死を与えていれば、と。

 序盤の流れはルシアン・ネイハムの名作「シャドー81」(1975)を彷彿とさせるが、意外にもハイジャックに関わる駆け引きは早々に終わる。物語は地上へと舞台を移し、怒濤の本篇へとなだれ込む。登場人物が多いため一人一人の造型の浅さがやや気になったが、事態を多面的に捉えつつ個々の状況を的確に伝える筆力は確かだ。

 ゲリラに誘導されるまま空路を変えたコンコルドは、イラク領内に侵入。リシュは予め確保していた陣地への着陸を要求するが、二番機の機長は一か八かの賭けに出る。爆弾が機内最後部にあることは分かっていた。上空で爆破すれば墜落は免れないが、機体が地面擦れ擦れの状況にあれば、爆弾自体は小型のため、助かる見込みがあった。何よりも、アラブ・ゲリラの脅迫に屈して人質となることは、イスラエル陣営には許されないことだった。着陸態勢に入った二番機は、指定された地点を無視した。怒り狂ったリシュは爆破スイッチを押す。コンコルドは機体を一部損傷したものの、現地ゲリラの待機する目的地を越えて不時着。不意を突かれたゲリラ部隊は武器を手に取り、イスラエル人らに迫る。だが、そこは攻め込むには容易ならざる場所だった。

 現イラク南部、紀元前約1800年頃に栄えたバビロニア王国の首都バビロン。旧約聖書「創世記」に記されたバベルの塔空中庭園などの伝説も残る。イスラエル人にとっては何よりも、ユダヤ教確立の誘因となった「バビロン捕囚」の地であった。この皮肉な因縁を嗤う暇もないまま、コンコルドから降り立った代表団は、脆い史跡を砦にしてゲリラを迎え撃つべく、地形を読み、防御を固める。二番機には護衛の任に就いていたハウズナーをはじめとする実戦経験のあるプロが乗り込んでいたが、大半は政府役人などの素人集団だった。銃器も積み込んでいたが、限りがあった。無線は妨害されており、救援はすぐには期待できない。実際、大混乱に陥ったイスラエル政府はコンコルドを見失っていた。ハウズナーらは覚悟を決める。例え死すとも、ゲリラには屈しないことを。

 以降、砂塵が吹き荒れる中、バビロン包囲戦ともいうべき激烈な攻防が展開。その死闘は凄まじく、敵味方問わず次々に倒れていく。当然、その過程で様々な人間ドラマが繰り広げられていくのだが、デミルは甘い感傷を抑え、ドライに活写する。終盤は地獄絵図の如きカオスへと至り、カタルシスと呼ぶには余りにも空虚な終局を迎える。


本作では、物語の進行と同時に、ユダヤ人が辿ってきた道程、思想的土台も語られているのだが、読み終えて強い印象を残すのは、シオニズムに立脚するイスラエルの強固な国家理念と、自己犠牲をも辞さないユダヤ人の宿命論的な観念だった。それは、敵対するイスラム教の極めて厳格な教義と根底では通じるものがあると感じたのだが、互いに血を流さなければ和平交渉の場にさえ辿り着けない両者の歴史的悲劇性が立ち現れる。無論、デミルは娯楽小説に徹するべく創作しているのだが、本作で描いた状況が現実味を帯びていたことは間違いない。2001年9月11日は悪夢ではなく現実であり、冷戦終結後も中東問題は世界平和を妨げる脅威として残存し続けている。
秀れた作家は、まるでそれを予期していたかのような作品を創り上げる力を持っている。デミルが、その一人であることは言うまでもない。

評価 ★★★