海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「最後に死すべき男」マイケル・ドブズ

ナチス・ドイツ終焉を一人の男の冒険を通して鮮やかに刻印する傑作。

幕開けは現代。自らの死期が迫っていることを悟った英国外務省の元官僚キャゾレットは、今まで避けていたベルリンを初めて訪れた。彼は観光の途中、ふらりと立ち寄った骨董品店で思い掛けない物を見付ける。古びた写真。煤けた銀製の額縁には紛うことなき鉤十字の跡があった。硝子内の写真を取り除くと、下に隠されていた肖像が現れた。アドルフ・ヒトラー。独裁者は、或る人物に宛てた献辞を記していた。キャゾレットは激しく震え「なんということだ」と叫んだ。約半世紀を経て、明らかとなった驚愕の事実。甦る過去の記憶。「……あの男は、ほんとうにやってのけたのだ」

時は第二次大戦末期へと遡る。当時キャゾレットは、英国首相チャーチルの補佐官としてヨーロッパの戦いをつぶさに見ていた。連合軍は、あと一歩でライン川を越える所まで進撃、ナチス滅亡は時間の問題だった。既に、米英ソにとってのドイツ占領は、次なる覇権争いを見据えた前哨戦に等しく、中でも首都ベルリン奪取は大きな意味を持った。だが、ヒトラーが最後にどう動くかまでは読み切れていなかった。潔く自決するか、もしくはアルプスの要塞で最後の抵抗を試みるか。
同時期、英国ヨークシャーの捕虜収容所からドイツ軍人が大量に脱走した。その数247名。なぜ彼らは、戦争が間もなく終わろうとする今になって、無意味な逃亡を謀ったのか。チャーチルは秘密裡の対処を命じたが、情報は漏洩した。収容所一帯を中心に大規模な捕獲作戦が行われ、ただ一人を除いて逃亡は失敗する。首謀者ペーター・ヘンケ中尉。謎に満ちたこの男が、戦争の行方を左右する存在となっていく。

1991年発表作。本篇は三部構成で、ナチス・ドイツ崩壊直前となる1945年3月のイギリスから始まり、ベルリンでのヒトラーの死をもって終わる。この短い期間に濃密な物語が展開するのだが、数奇な運命を辿る主人公ヘンケを軸に、独裁国家が破滅していくさまを徹底したリアリズムで描いている。史実と虚構を巧みに織り交ぜたプロット、登場人物は端役に至るまでしっかりと造型し、僅かなエピソードも鮮烈な印象を残す。

序盤となる第一部では、戦争を〝政治の手段〟として捉える政治家や軍上層部の思惑や駆け引きが、ヘンケがもたらした事態によってどう影響を受けていくのかを記録する。
第二部は、決死の脱出行をメインに据え、ヘンケがベルリンに辿り着くまでの緊迫した流れを追っていく。ナチス宣伝相ゲッベルズは、国民を鼓舞し反撃へと転じる精神的支柱としてヘンケを利用するため、無謀な計画を実行に移していた。
いかなる犠牲を払っても〝最後の最後まで諦めない男〟を帰国させねばならない。何度も死線をくぐり抜け、ようやくの終戦を心待ちにしていたドイツ軍兵士は、名前も顔も知らない一人の〝英雄〟を連れ戻すために、再び死地に赴くこととなった。このパートは、不条理な戦争の実態を鋭く抉っている。反英組織の女の力を借りたヘンケは、アイルランドへと渡り、出迎えたUボートにより脱出する。
だが、海軍は壊滅状態にあり、派遣された護衛艦は呆気なく撃沈された。熾烈な戦闘は永遠に続くかのようだった。ドイツを目前にしてヘンケが搭乗した潜水艦も敵駆逐艦爆雷によって損傷し、海底へと沈む。ここから続く一連のシーンは本作の白眉と言っていい。深度120メートル、ナチスの〝救世主〟のために、多くの尊い命が海の藻屑と消えた。生き残っていた潜水艦乗りたちは艦長のもとへ集う。「ひとつだけ望みがある」と艦長は告げた。Uボートの司令塔を脱出ハッチとして利用する。だが、残酷にも一人だけしか入る余地が無かった。兵曹らは「おれには女房と五人の子供がいる」などと口々に叫ぶ。艦長は「われわれの運は尽きた。だれにチャンスを与えればいいか、諸君にもわかったはずだ」と諭す。続けて、ヘンケに向かって言う。「間違いなく帰れ。これ(我々の死)を価値あるものにしてくれ」と。

第三部に至り、犬死にしていった同胞の屍を踏み越えて、ヒトラーらが待つ地下壕へ向かうヘンケの真意が、初めて明かされる。何のために、絶望の地へと男は舞い戻ったのか。この男に最後の希望を託す息絶え絶えの国家。その傲慢ぶりを嘲笑うように、終幕において、全てが覆されていく。

特筆すべきは、瓦礫の山と成り果てたベルリンの凄まじい描写だ。ルポルタージュのような迫真性に満ち、敏腕ジャーナリストならではの見事な筆力に圧倒される。読み手の眼前に、限りなくリアルで、どこまでも退廃的な情景が再現されていく。
「かつて偉大な都市だったベルリンは、あわれに破壊された姿を、我が身を燃やして照らしだしていた。死にゆく街の音」。激しい空襲は止み、ソ連軍は間近まで迫っていた。「戦闘の音の代わりに聞こえていたのは、ベルリンがバラバラに崩壊する音だった。攻撃に屈服し、打ちのめされた街の悲鳴が、いたるところで聞こえた。負傷者や、身体の自由を奪われて瓦礫から抜け出せないものが助けを求める、あわれを誘う叫び声。……行方不明の親を通りで必死で捜しまわる子供の泣き声。狂った悪夢を見ているように、そうした悲しみの叫びのなかから、酒、欲、堕落した行為、復讐に感覚の麻痺したものたちの、騒々しいどなり声や笑い声が聞こえた」


地獄の門前で身悶える人々を、男は見つめる。場所は首相官邸、街が一望できるバルコニー。傍に立つのはエヴァ・ブラウン。この後「最後に死すべき男」は廃人同然と化していた第三帝国総統のいる地下壕へと下っていく。時は、1945年4月30日。

ペーター・ヘンケとは何者だったのか。その内面が語られることは殆どない。ゲッベルスが手配した身上調査や、エピローグでのキャゾレットの述懐によって、ある程度の素性は判明するのだが、より深い部分については多くの謎を残したままで、物語は閉じられていく。それだけになおのこと、劇的な結末が強い余韻を残すのである。

評価 ★★★★★