海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「狂気の果て」デイヴィッド・L・リンジー

ヒューストン市警殺人課刑事スチュアート・ヘイドンを主人公とする第5弾で1992年発表作。本作をもってシリーズは途絶えている。

振り返れば、捜査活動をメインとするオーソドックスな警察小説は、第1作「噛みついた女」のみで、以降一作ごとに物語の軸を大きく変えている。ただ、現代社会の不条理な暴力の有り様を探究し、その闇にジャーナリスティックな視点で切り込む骨太な姿勢は不変。重厚な語り口は更に深みを増し、リンジーが到達した文学的境地を物語る。とにかく、これまでの作品をも凌駕する熱量/テンションには圧倒された。ミステリという範疇では収まらない多様な読み方が出来るシリーズの集大成に相応しい傑作。

富豪マラー家の娘リーナが、中米グアテマラで失踪した。平和活動家として同国貧困層の支援に携わっており、フリー・ジャーナリストの男と行動を共にしていた。或る事件でマラー家と知り合っていたヘイドンは、リーナ発見と保護に力を貸して欲しいと頼まれた。言い知れぬ暗い予感を覚えながらもヘイドンは承諾。警察を休職し、グアテマラへと飛ぶ。
1960年から続いた激しい内戦で多くの血が流れた国。軍事クーデター後は独裁体制が敷かれ、今も政情不安が続いていた。腐敗の極みにあり、インディオ/マヤ民族に対する差別と虐殺が横行。ゲリラとの戦闘も絶えず、治安は悪化の一途を辿っていた。独裁政権は麻薬カルテルと結託、暴力装置同然の軍隊と警察は反政府グループを容赦なく弾圧した。
マラー家は先に私立探偵フォスラーにリーナ捜索を依頼していた。ヘイドンとは旧知の仲だった。だが、現地に探偵の姿はなく、滞在していたホテルの部屋は争った形跡があり血塗れだった。リンジーはリーナの友人ジャネット・ピットナーを訪ねる。米国大使館に勤めるジャネットの夫は、何かを隠すような不審な態度を見せた。ヘイドンは、リーナの僅かな痕跡を追うが一向に行方を掴めない。そんな中、元CIA工作員ケイジが接触してきた。かつては敏腕の国外要員だったが、離脱後は情報屋として現政府の闇に通じているらしい。
後日の夜、再び姿を現したケイジは、ヘイドンを或る場所へと連れて行く。モルグだった。そこには見るも無惨な女の死体。願い虚しく間に合わなかったのか。なぜ彼女は殺されたのか。真相を追い求めるヘイドンが出口の見えない迷宮でもがくほどに事態は不可解さを増していった。

序盤から漂う凄まじい暴力の匂い。それは主人公が動く先々で死人が出るという展開で可視化される。敵か味方か判然としないケイジに翻弄されつつ、否応もなく主人公は〝狂気の果て〟へと引き摺り込まれていく。
間もなくヘイドンは、消えた女に関わる虚偽と事実を見極め、腐敗した国家の最底辺でうごめく非人道的犯罪を知る。物語の根底にあるのは、道理無き暴力に晒され続けてきた者たちの怒りと哀しみであり、狂った社会の中で生きざるを得ない焦燥と無常だ。腐り切った権力者と、それに付き従い私利私欲を貪る俗物の群れ。弱い者は常に虐げられ、やがては破滅する。その巨悪と対峙し、無残な事実を白日の下に晒し、どう駆逐するか。
リンジーは、人間の根源的な悪の本質に迫る地獄巡りを主人公に課す。ヘイドンの物語が本作をもって絶えた理由は、スケールが大きくなりすぎて、一介の刑事に負わせる役回りを遥かに超えてしまったからではないか。本シリーズは、事件に没入し沈思黙考するヘイドンと、過剰に深入りして心身を病む夫を思いやる妻の繊細で温かいやりとりも魅力のひとつだったが、本作ではささやかな幕間は省かれ、一人の男がグアテマラで視る狂気の様相を語ることに焦点を絞っている。下手なホラー小説を超える恐怖を覚える流れもあり、逃げ場のないまま読み手は終始緊張感を強いられる訳だが、ページを捲る手を止めることはできないだろう。
情景は暗く濁り、闇はどこまでも深い。強烈で生々しいリアリズム、繊細な描写によって生まれるリリシズム。終盤に向かうほど高まっていくダイナミズム。時に冷徹に、時に劇的にシーンを印象付けるリンジーの卓越した筆力に唸る。
辿り着いた〝狂気の果て〟で何が待ち受けるのか。終幕の余韻は余りにも重い。

評価 ★★★★★

 

「九尾の猫」エラリイ・クイーン

劇的な終幕を迎えた「十日間の不思議」(1948)に続く1949年発表作。単なる〝思考機械〟から苦悩する探偵へと様相を変え、円熟味を増したエラリイ・クイーン中期を締めくくる傑作だ。

正体不明の連続殺人鬼にマンハッタンは震撼していた。何れも絞殺で、犯行には絹紬が使われていた。性別や人種、年齢や家庭環境に共通点はなく、動機も解明されない。新聞は過激な記事で恐怖を煽り、殺人鬼を〝猫〟に見立て、新たな犠牲者をその尻尾に付け加えた。すでに尾は五つ。市民らは自警団を作り、不甲斐ない警察と市政を批判。父・リチャードに懇願されて捜査の陣頭指揮を取ることになったエラリイは手掛かり皆無の連続殺人事件に着手するが、まるで霧の中を彷徨うが如く事件解決への道は八方塞がりだった。


舞台をニューヨーク/マンハッタンに絞り、大都会の喧騒を織り交ぜつつ、格差や人種差別などの社会の闇もしっかり描いており、発表当時はかなり刺激的な作品だっただろう。
論理的思考を駆使した前期傑作群を彷彿とさせる渾身の一作であり、よりダイナミックな展開で人間の心理/闇を照射し、罪と罰の在り方をも掘り下げている。サイコパスによる無差別連続殺人に打ち震えるマンハッタンの狂騒、探偵クイーンの苦悩、殺人者にまつわる暗い過去、終盤で辿り着く重い真相はミステリ作家として成熟の極みにあった証左だろう。後に席巻するサイコキラー物の先駆的作品としての価値も高い。精神分析を巧みにプロットに絡ませるロジックは見事に昇華して、大きく畝り、読者を圧倒する。或る意味必然的にこの悲劇的な結末を取らざるを得なかったクイーンの達観は深い余韻を残す。

評価 ★★★★★

 

「コフィン・ダンサー」ジェフリー・ディーヴァー

如何にして読者を欺くか。ミステリ作家の腕の見せ所であり、読者はエンターテインメント小説として〝気持ち良く〟騙されることを望む。単に複雑なプロットを盛り込んだだけでは成功しない。シンプルなストーリーでも逆転の手法が冴えていれば幾らでも面白くできる。常に高いクオリティーを維持し、現在も第一線で活躍する希有な作家の一人、ジェフリー・ディヴァー円熟の腕が冴える。

科学捜査官リンカーン・ライムシリーズ第2弾で1998年発表作。四肢麻痺であるライムが捜査活動の手足とする女性警察官アメリア・サックスと組み、知能犯と対決する骨子は、いわば現代版ネロ・ウルフといった感じか。ズバ抜けた知識と頭脳で謎を解くウルフと最先端科学を駆使するライムでは捜査法に大きな違いはあるものの、犯行現場を殆ど見ることなく犯人を追い詰める安楽椅子探偵として共通する部分は多い。

物語の軸はライムと犯罪者の知恵比べだが、ディーヴァーは読み手自身に〝この真相が解けるか〟を挑んでくる。二重三重を遥かに上回る仕掛け、微に入り細に入り潜めた伏線、ラストに向かって疾走しつつ全ての謎を回収/解き明かし、鮮やかな大団円へと繋いでいく。その技法はミステリ作家の中でも飛び抜けており、文章/構成そのものがミスディレクションとなって読み手を翻弄する。サブ・ストーリーとなるアメリア・サックスとの恋愛模様などは、ややサービス過剰な感じはしたが、まあ娯楽小説として割り切ればよい。
本シリーズ最大の魅力は、主人公の知能に匹敵する〝好敵手〟との対決。エッジの効いた展開は尽きる事がなく、本作でもディーヴァーの真髄が存分に味わえるだろう。

評価 ★★★★

 

巨匠フォーサイス逝く

2025年6月9日、フレデリック・フォーサイスが86歳で逝去。
昨年末に同じく英国の作家ブライアン・フリーマントルもこの世を去っていたと知り、残念でならない。ル・カレに続き、スパイ小説で一時代を築いた巨匠らが姿を消していった。
1971年発表の傑作「ジャッカルの日」によって世界的な名声を得たフォーサイスは、ミステリファンならずとも幅広い読者を獲得。その生涯は自伝「アウトサイダー/陰謀の中の人生」で明かしている通り波乱に満ちたものだった。
フォーサイス登場により一夜にして国際謀略小説が確立/熟成され、以降隆盛を極めた。ただ、スタイルを真似ただけの亜流も数多く輩出し、無味乾燥なテクノスリラーが席巻することになるのだが。

個人的に一番好きな作品は短編「シェパード」。この作家の奥深い一面を知れる珠玉の一篇である。


長らく本ブログから離れていたが、ぼちぼち再開し、未読も多いフォーサイスの作品も含めて紹介していきたい。

 

 

「殺人容疑」デイヴィッド・グターソン

1994年上梓、純度の高い傑作。

時は第二次大戦前後。舞台は米国ワシントン州の西にある孤島サン・ピエドロ。島民は約5千人、1920年代には多くの日本人が移住し農業などに従事していた。今では、その二世らも大人になり米国籍を取得できる日を待っていた。だが、大東亜共栄圏という虚妄の大義を掲げ、覇権主義をひた走る〝祖国〟によって望みは打ち砕かれた。1941年12月8日、真珠湾攻撃を発端に米国との無謀な戦いを始めた日本。敵国の人間として在米日本人は強制収容所へと送られた。二世男子の少なからずは米兵として従軍、主にヨーロッパ戦線で対ナチスの地獄を味わう。その命懸けの〝愛国心〟の発露も虚しく、帰還した足に絡みついたのは依然として根深いレイシズムという鎖だった。

日本敗戦から10年が経った1954年9月16日。沖一帯が濃い霧に覆われた早朝、漂っていた漁船から刺し網漁師カール・ハインの死体が発見された。当初は事故死と見られていた。自らの船で転落し、漁網に絡まり身動きが取れなくなったことによる水死。だが、船内の状況と漁師らへの聞き取りにより、他殺の線が浮上。保安官は、間もなく容疑者を特定する。日系二世カズオ・ミヤモト。カールの幼馴染みだったが、二人の間には父親の代から続く土地を巡る因縁があった。

本作が優れている点を挙げれば切りがない。現在と過去をドラマチックに繋ぐ構成力。数多い登場人物を描き分け、しっかりと印象付ける造形の分厚さ。戦争と差別に翻弄された人々の苦悩を軸に、人間の尊厳を問い直すアクチュアルなテーマ性。
多民族国家としてのアメリカが抱える闇。作者は、人間の尊厳を踏み躙る社会を物語の根底において批判しているのだが、特筆すべきは、その公平な視点が最後まで揺らぐことがない、ということだ。日本人移民を取り上げているが、例えどこの国の者であっても、スタンス不変の気高い倫理観を感じさせる。
黒人や先住民族らへの差別が潜在意識に染み込んだ米国社会に於いて、日系人だけが例外となるはずはない。しかも、わずか10年前は憎むべき敵国だった。陪審員は提示された事実を吟味することなく、歪んだ先入観/偏見のままで結論を出そうとする。この辺りの流れは非常に怖い。現実社会に於いても、偏見に基づいた数多の冤罪が生み出されてきたであろうし、米国の陪審制が抱える大きな問題点をも本作は抉っている。

物語は法廷シーンから始まる。裁判の進行と共にカール・ハイン事件に関わる者の背景が過去へと遡り、徐々に明かされていく。

状況は全てカズオには不利だった。検事が提示した物的証拠は、カールの船にカズオが乗り込んでいたことを裏付けた。また、カールの妻は、事件前日も二人が激しく言い争っていたと証言した。カズオは殺人容疑を否定するが、結果的にカールとのやりとりを隠していたことが災いし、追い詰められた。
その様子を一人の男が傍聴席から見詰めていた。島で唯一となる新聞の発行者兼記者のイシュマエル・チェンバーズ。太平洋の戦地から帰還後、死んだ父親が一代で築いた稼業を継いでいた。戦場で片腕を失ったイシュマエルは日本人に対する怒りがくすぶっていたが、そこにはより複雑な感情が絡んでいた。被告人カズオの妻、ハツエ。少年期、イシュマエルは彼女を愛していた。それを阻んだのは人種という厚い壁だった。その隔たりを理解しつつも、一方的に彼女に裏切られたという屈折した恨みが薄れることはなかった。そしてこの時、粛々と進行する審理を傍観していた隻腕の男は、カールの死の真相に繋がる事実を掴んでいた。ハツエが愛する男、カズオ。ハツエを愛した男、イシュマエル。言い知れぬ愛と憎しみの中で新聞記者は身悶える。

物語の大半を占めるのは、事件に関わる主要人物の回想となる。下手な作家であれば中弛みの要因ともなるが、グターソンの静謐で詩情溢れる筆致によって、どんどん引き込まれていく。鮮やかに読み手へと迫ってくる心象風景。過去と現在を繋ぐ挿話が、緻密な構成と力強いタッチで塗り重ねた油彩のように魅了する。
表情を変えてゆく美しい自然の中で描かれるイシュマエルとハツエの幼い愛。
雪の白銀、苺の朱色、森の深緑、海の群青。人や植物、動物が生々しく匂い立つ。
寂れた港町の情景。春から夏へ。風薫る苺畑の輝き。年輪を重ねた杉が自生する森林。雨季のスコール。秋から冬へ。降りしきる雪。いくつもの年月を経て土地は開拓され、島民は生きる知恵を学び、子を育て、閉鎖的ではあるが豊かなコミュニティを築き上げてきた。
季節は巡り、大きな戦争を挟んで、時は流れた。

カズオの裁判が始まったのは12月だった。島は18年ぶりという猛吹雪に見舞われ、町は混乱の極みにあった。突如起こった「殺人」事件は、隠されていた人々の業を剥き出しにした。凍てつく人心。掘り起こされた人種という種。それは〝共存〟という名の花を地上に咲かせることなく〝差別〟へと形を変え、足を絡め取られる泥濘の如く島民を苛つかせた。

当然のこと人種差別を忌み嫌い、傲慢なレイシストらの所業に敢然と抗う者もいた。その崇高なヒューマニズムを表出するエピソードの数々が心を打つ。
彼らもまた、かつては移民であった歴史を持ち、共感の度合いは強い。だが、それよりも深い人間性に根差したものであることを伝える。
事件解明の鍵を握るイシュマエルはユダヤ系。その父アーサーは、日本との戦争勃発以降も新聞での言論を通して、島民である日系人は同朋であると擁護し、いわれなき差別を止めるよう呼び掛け続けた男だった。当然、中傷を浴び、新聞の購読数は激減する。だが、気骨の男は些かも揺らぐことなく、信念に生きた。また、カールの血族もドイツからの移民で、父親は島で財を成しながらも、驕り高ぶることなく日系人と接し、敬愛された。殺人容疑の「動機」となる7エーカーの土地売買に関わるトラブルも、彼が生きてさえいれば解決できていた問題だった。

さらに裁判終盤では、カズオの弁護士ガドマンドソンと判事フィールディングの言葉が、読み手を大きく揺さぶることだろう。ガドマンドソンは陪審員に「これは偏見についての裁判だ」と明瞭に語り掛け、一人の人間としてのカズオに評決を下すよう求める。フィールディングは「あなた方の各人が、恐れたり、えこ贔屓をしたり、偏見を抱いたり、同情したりせず、正しい判断力を働かせ、疾しさを覚えずに、証拠にもとづいて」全員一致で結論を出すことを告げる。この彼らの誇り高く滋味深い言動は、読んでいて胸が熱くなるほどで、単純な謎解きミステリにはない深い感動へと誘う。

終幕では、事件当日の「事実」が綴られていくのだが、ここでもグターソンの筆力の凄さに圧倒された。まるで、読み手自身が波涛に呑み込まれていくような錯覚に陥る。そして「その後」を追う、どこまでも静かで耽美な情景に酔う。
「カズオは通り過ぎる貨物船の汽笛の低い音が海面に響くのを聞いていた。……それは、灯台の、もっと高い、もっと物侘びしい霧笛の音と交互に聞こえた。霧がその音を包み、くぐもったものにした。そして、貨物船の汽笛の音はひどく太かったので、この世のものではないように聞こえた。……ぶつかり合う、二つの耳障りな音。……カズオ・ミヤモトは家に帰って妻を抱擁し、自分たちの人生がどんなに変わったかということを妻に話した。」
暗い海の上で汽笛と霧笛の音がぶつかり合う。この描写に、不条理と対峙せざるを得ない人間の苦闘を視る私は深読みし過ぎなのだろうか。

そして、多くの時間を掛けた陪審員らは、評決を下した。


原題は「Snow Falling on Cedars」。1999年に「ヒマラヤ杉に降る雪」のタイトルで映画化もされており、原作の世界観を陰影のある映像で仕上げた秀作だった。
グターソンは、これも傑作となる「死よ光よ」(1998)が翻訳されているのみ。いったい、日本の出版社はどこに目をつけているのだろうか。作品とは関係ないが、翻訳本の邦題と装幀は、本作の主題と魅力を全く表現出来ていない。この名作が埋もれたままになっている最大の要因だろう。

閑話休題
本作は至高のミステリであり、紛れもない文学作品である。

評価 ★★★★★☆☆