海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「殺人容疑」デイヴィッド・グターソン

1994年上梓、純度の高い傑作。

時は第二次大戦前後。舞台は米国ワシントン州の西にある孤島サン・ピエドロ。島民は約5千人、1920年代には多くの日本人が移住し農業などに従事していた。今では、その二世らも大人になり米国籍を取得できる日を待っていた。だが、大東亜共栄圏という虚妄の大義を掲げ、覇権主義をひた走る〝祖国〟によって望みは打ち砕かれた。1941年12月8日、真珠湾攻撃を発端に米国との無謀な戦いを始めた日本。敵国の人間として在米日本人は強制収容所へと送られた。二世男子の少なからずは米兵として従軍、主にヨーロッパ戦線で対ナチスの地獄を味わう。その命懸けの〝愛国心〟の発露も虚しく、帰還した足に絡みついたのは依然として根深いレイシズムという鎖だった。

日本敗戦から10年が経った1954年9月16日。沖一帯が濃い霧に覆われた早朝、漂っていた漁船から刺し網漁師カール・ハインの死体が発見された。当初は事故死と見られていた。自らの船で転落し、漁網に絡まり身動きが取れなくなったことによる水死。だが、船内の状況と漁師らへの聞き取りにより、他殺の線が浮上。保安官は、間もなく容疑者を特定する。日系二世カズオ・ミヤモト。カールの幼馴染みだったが、二人の間には父親の代から続く土地を巡る因縁があった。

本作が優れている点を挙げれば切りがない。現在と過去をドラマチックに繋ぐ構成力。数多い登場人物を描き分け、しっかりと印象付ける造形の分厚さ。戦争と差別に翻弄された人々の苦悩を軸に、人間の尊厳を問い直すアクチュアルなテーマ性。
多民族国家としてのアメリカが抱える闇。作者は、人間の尊厳を踏み躙る社会を物語の根底において批判しているのだが、特筆すべきは、その公平な視点が最後まで揺らぐことがない、ということだ。日本人移民を取り上げているが、例えどこの国の者であっても、スタンス不変の気高い倫理観を感じさせる。
黒人や先住民族らへの差別が潜在意識に染み込んだ米国社会に於いて、日系人だけが例外となるはずはない。しかも、わずか10年前は憎むべき敵国だった。陪審員は提示された事実を吟味することなく、歪んだ先入観/偏見のままで結論を出そうとする。この辺りの流れは非常に怖い。現実社会に於いても、偏見に基づいた数多の冤罪が生み出されてきたであろうし、米国の陪審制が抱える大きな問題点をも本作は抉っている。

物語は法廷シーンから始まる。裁判の進行と共にカール・ハイン事件に関わる者の背景が過去へと遡り、徐々に明かされていく。

状況は全てカズオには不利だった。検事が提示した物的証拠は、カールの船にカズオが乗り込んでいたことを裏付けた。また、カールの妻は、事件前日も二人が激しく言い争っていたと証言した。カズオは殺人容疑を否定するが、結果的にカールとのやりとりを隠していたことが災いし、追い詰められた。
その様子を一人の男が傍聴席から見詰めていた。島で唯一となる新聞の発行者兼記者のイシュマエル・チェンバーズ。太平洋の戦地から帰還後、死んだ父親が一代で築いた稼業を継いでいた。戦場で片腕を失ったイシュマエルは日本人に対する怒りがくすぶっていたが、そこにはより複雑な感情が絡んでいた。被告人カズオの妻、ハツエ。少年期、イシュマエルは彼女を愛していた。それを阻んだのは人種という厚い壁だった。その隔たりを理解しつつも、一方的に彼女に裏切られたという屈折した恨みが薄れることはなかった。そしてこの時、粛々と進行する審理を傍観していた隻腕の男は、カールの死の真相に繋がる事実を掴んでいた。ハツエが愛する男、カズオ。ハツエを愛した男、イシュマエル。言い知れぬ愛と憎しみの中で新聞記者は身悶える。

物語の大半を占めるのは、事件に関わる主要人物の回想となる。下手な作家であれば中弛みの要因ともなるが、グターソンの静謐で詩情溢れる筆致によって、どんどん引き込まれていく。鮮やかに読み手へと迫ってくる心象風景。過去と現在を繋ぐ挿話が、緻密な構成と力強いタッチで塗り重ねた油彩のように魅了する。
表情を変えてゆく美しい自然の中で描かれるイシュマエルとハツエの幼い愛。
雪の白銀、苺の朱色、森の深緑、海の群青。人や植物、動物が生々しく匂い立つ。
寂れた港町の情景。春から夏へ。風薫る苺畑の輝き。年輪を重ねた杉が自生する森林。雨季のスコール。秋から冬へ。降りしきる雪。いくつもの年月を経て土地は開拓され、島民は生きる知恵を学び、子を育て、閉鎖的ではあるが豊かなコミュニティを築き上げてきた。
季節は巡り、大きな戦争を挟んで、時は流れた。

カズオの裁判が始まったのは12月だった。島は18年ぶりという猛吹雪に見舞われ、町は混乱の極みにあった。突如起こった「殺人」事件は、隠されていた人々の業を剥き出しにした。凍てつく人心。掘り起こされた人種という種。それは〝共存〟という名の花を地上に咲かせることなく〝差別〟へと形を変え、足を絡め取られる泥濘の如く島民を苛つかせた。

当然のこと人種差別を忌み嫌い、傲慢なレイシストらの所業に敢然と抗う者もいた。その崇高なヒューマニズムを表出するエピソードの数々が心を打つ。
彼らもまた、かつては移民であった歴史を持ち、共感の度合いは強い。だが、それよりも深い人間性に根差したものであることを伝える。
事件解明の鍵を握るイシュマエルはユダヤ系。その父アーサーは、日本との戦争勃発以降も新聞での言論を通して、島民である日系人は同朋であると擁護し、いわれなき差別を止めるよう呼び掛け続けた男だった。当然、中傷を浴び、新聞の購読数は激減する。だが、気骨の男は些かも揺らぐことなく、信念に生きた。また、カールの血族もドイツからの移民で、父親は島で財を成しながらも、驕り高ぶることなく日系人と接し、敬愛された。殺人容疑の「動機」となる7エーカーの土地売買に関わるトラブルも、彼が生きてさえいれば解決できていた問題だった。

さらに裁判終盤では、カズオの弁護士ガドマンドソンと判事フィールディングの言葉が、読み手を大きく揺さぶることだろう。ガドマンドソンは陪審員に「これは偏見についての裁判だ」と明瞭に語り掛け、一人の人間としてのカズオに評決を下すよう求める。フィールディングは「あなた方の各人が、恐れたり、えこ贔屓をしたり、偏見を抱いたり、同情したりせず、正しい判断力を働かせ、疾しさを覚えずに、証拠にもとづいて」全員一致で結論を出すことを告げる。この彼らの誇り高く滋味深い言動は、読んでいて胸が熱くなるほどで、単純な謎解きミステリにはない深い感動へと誘う。

終幕では、事件当日の「事実」が綴られていくのだが、ここでもグターソンの筆力の凄さに圧倒された。まるで、読み手自身が波涛に呑み込まれていくような錯覚に陥る。そして「その後」を追う、どこまでも静かで耽美な情景に酔う。
「カズオは通り過ぎる貨物船の汽笛の低い音が海面に響くのを聞いていた。……それは、灯台の、もっと高い、もっと物侘びしい霧笛の音と交互に聞こえた。霧がその音を包み、くぐもったものにした。そして、貨物船の汽笛の音はひどく太かったので、この世のものではないように聞こえた。……ぶつかり合う、二つの耳障りな音。……カズオ・ミヤモトは家に帰って妻を抱擁し、自分たちの人生がどんなに変わったかということを妻に話した。」
暗い海の上で汽笛と霧笛の音がぶつかり合う。この描写に、不条理と対峙せざるを得ない人間の苦闘を視る私は深読みし過ぎなのだろうか。

そして、多くの時間を掛けた陪審員らは、評決を下した。


原題は「Snow Falling on Cedars」。1999年に「ヒマラヤ杉に降る雪」のタイトルで映画化もされており、原作の世界観を陰影のある映像で仕上げた秀作だった。
グターソンは、これも傑作となる「死よ光よ」(1998)が翻訳されているのみ。いったい、日本の出版社はどこに目をつけているのだろうか。作品とは関係ないが、翻訳本の邦題と装幀は、本作の主題と魅力を全く表現出来ていない。この名作が埋もれたままになっている最大の要因だろう。

閑話休題
本作は至高のミステリであり、紛れもない文学作品である。

評価 ★★★★★☆☆