海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「鼠たちの戦争」デイヴィッド・L・ロビンズ

第二次世界大戦に於けるドイツ対ソ連で最も過酷な戦場となったスターリングラード。記録によれば、1942年8月から5ヶ月間にもわたった攻防での死者は200万人。当初60万人いた住民は、戦闘終結時には1万人を下回る数しか生き残れず、まさに死の街と化した。この惨禍をもたらした要因は、両陣営の勝敗を左右する軍事拠点としての重要性にあったとされている。本作は、地獄絵図の如き様相を呈したスターリングラードを舞台に、廃墟と瓦礫の闇に〝鼠〟のように潜り、熾烈な戦いを繰り広げた狙撃手に焦点を当てた戦争冒険小説の傑作である。

物語は、狙撃手として超一流の腕を持つことでは互角、人格的には相反する二人を軸に進行する。驚異的なスピードで戦果を上げていたソ連曹長ザイツェフ。そして、この男を狩るためだけに現地へ赴くナチス親衛隊大佐トルヴァルト。
シベリア人の猟師として鍛え上げられたザイツェフは、最前線にいる同志のために身を挺して戦い、厚い信頼を得ていた好漢。一方のトルヴァルトは裕福な貴族の出で、ベルリン郊外にある射撃学校校長。同胞を平然と捨て駒とすることを厭わない冷血漢で、己のプライドと栄誉を優先。徹底したニヒリストでもあった。
ザイツェフは実在した人物だが、トルヴァルトの存在については、諸説あり定かではない。当然、作者は史実をなぞらえつつも、フィクションとしての大幅な脚色を加えている。

勝つためには、鍛え上げてきた技倆のみならず、敵を上回る強靱な精神力を有さねばならない。常に死と隣り合わせの状況下で展開するドラマは凄まじい緊張感と焦燥を伴って読み手に迫ってくる。敵スナイパーの腕に瞠目し、或る種の共鳴さえ生じさせていく二人。原始的で直感勝負となる狙撃手同士の戦い。その最終的な対決が、どのような結末を迎えるのか。透徹だが熱いクライマックスは、いうまでもなく本作最大の読みどころとなる。

弾丸一発で訪れる死。その残酷で虚無的なエピソードの数々は、ひたすらに重く、虚しい。戦場に於ける葛藤と絶望。ザイツェフは祖国の英雄として讃えらながらも、愛する女兵士一人さえ守ることの出来ない己の非力と脆弱な精神に悶え苦しむ。この極限状態にいる者の心の揺らぎを端役に至るまで繊細に表現するロビンズの筆力に圧倒される。

物語は狙撃手二人の死闘がメインとなるが、重要な役割を担う者は他にもいる。特に、トルヴァルトの補佐を勤めるドイツ軍伍長モントは、終盤の語り部として、退廃感漂う情景へと読み手を導く。兵士らは生きて故郷へと帰り、愛する家族とともに平凡な日常へと戻ることを夢見る。だが、眼前の死以外に救いの道は無く、強烈な餓えの中で遂には人肉を貪るまで堕ち、人ならざるものへと化す。やがてはナチス崩壊へと至る決定的敗北。それをモントの眼を通して記録した第三部は、鮮烈なイメージを残すことだろう。

戦争の実体をどう伝えるか。戦場の死をどう描くか。読み終え、心に深く残るものがあれば、その作家は反/非戦を正しく捉えている。戦争の世紀といわれた二十世紀が終わろうとする1999年に本作を上梓したロビンズも、声高に叫ぶのではなく、不条理な死を冷徹に書き記すことで、より鮮明に戦争の無残なる実体を指し示す。かつてない規模の市街戦、その中で実際に起こったかもしれない狙撃手の戦い。ルポルタージュの手法を用いて描いたこの物語は、己らの暴力によって破局へと突き進む人類の暗い未来をも照射するのである。

以下は余談だ。
国家や大義のために殉ずる兵士と市民。クラウゼヴィッツのいう「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続である」ならば、2022年4月現在ウクライナの地で流されている血もまた「政治の延長」である訳だ。けれども、馬鹿な政治屋や自称評論家どもが与しやすい〝戦争論〟の定義通り戦場の血は必然であると、誰が納得し諦めることができるというのか。
言うまでもなく、旧態依然の独裁国家ロシアは、スターリングラードの悲劇に何ひとつ学んでいない。これまで狂乱のプーチンを散々助長させてきた各国政府も同様だ。覇権主義侵略戦争はロシアの専売特許ではなかったことを忘却したままに、あたかも共産主義の成れの果てをそこに見出し非難する。
終わることのないイデオロギー対立は、人類の「平和構築」の虚妄性を嘲笑い、屍の山を築いていく。特権階級は核シェルターという安全圏の中から、平和を騙り、顔を失った戦死者を記録し、戦場を染める血の痕跡のように死と戯れている。
この無意味な〝悲劇〟を引き起こし、延々と繰り返すこの諸悪の根源を絶ち切らない限り、スターリングラードの戦いやホロコーストヒロシマナガサキは、決して過去とはならない。事はロシアだけではなく、世界共通の極めてアクチュアルな問題をはらみ、我々の喉元には、常に鋭利なナイフが突き付けられている。

この国の或る世論調査によれば、憲法改正(正確には改悪/戦争で人を殺す権利を有する国家への回帰)賛成が反対を上回ったという。賛成と答えた人は、己の家族の生命を国に進呈する覚悟があるらしい。まずは、崇高な理想を持つらしい、ご自分からどうぞ。

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