海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「ドイツの小さな町」ジョン・ル・カレ

ドイツ統一を掲げた大衆運動が、西ドイツを揺り動かしていた。煽動する指導者は、博士号を持つ実業家カーフェルト。謎の多い人物だった。最終目的地となる首都ボンに向かって国内を縦断する「行進」が続く中、英国大使館では別の問題が立ち上がっていた。現地採用の臨時職員リオ・ハーティングが、前触れ無く機密文書とともに姿を消したのだった。紛失したファイルは40数冊に及び、英独間の協定に関わる極秘記録が含まれていた。露呈すれば反英感情を煽るカーフェルトの追い風となり、英国の立ち位置はさらに後退する。即刻、外務省は公安部員アラン・ターナーを派遣し、真相を追わせる。徐々に明らかとなるリオの実体と真の狙い。事態は思わぬ様相を見せ始める。

1968年発表作。スパイ小説の金字塔「寒い国から帰ってきたスパイ」(1963)の後、渋い秀作「鏡の国の戦争」(1965)を上梓、本作と未訳の自伝的小説を挟んで、中期の代表作「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」(1974)へと続く。ル・カレが作家としての成熟を深めた時期でもある。

「ボンは死人の出た暗い家だ。カトリックの黒衣をまとい、警官に守られた家。警官たちの革の制服が、街燈の光にきらめき、その頭上に、小鳥のような黒い旗が垂れ下がっている」
プロローグでの暗鬱だが抒情的なレトリック。本作執筆時、ル・カレはまだ30代半ばだが、濃密な筆致には老大家のような貫禄さえある。どこまでも深い霧の中を歩むようなスタイルは、次のスマイリー三部作で頂点に達し、かつてない晦渋な〝スパイ文学〟を確立した。
「ドイツの小さな町」は、微に入り細に入り描く手法を本格的に取り入れた作品だが、文体はともかく、プロットはスリリングで読み応えがある。序盤こそ遅々としたテンポで焦点が定まらないが、物語の骨格が明確となるにつれ緊張感が増し、終盤まで一気に読ませる。

主人公はジョージ・スマイリーの分身とも言うべき公安部の敏腕アラン・ターナー。だが、主軸となり全体を動かすのは、終始姿を見せることのないリオ・ハーティングである。ドイツ敗戦の混乱期から英国大使館内で地味な仕事に従事していた臨時職員。実務に長け同僚からの評価は高いが、素性に不明瞭な部分があり、高官からは今もアウトサイダーとして扱われていた。特に大使館官房長ブラッドフィールドには私的な件でも含む所があるようだ。ターナーは、極めて閉鎖的な高級官僚、凡庸な官房部員や守衛、俗物の西ドイツ公安局長官らに苛立ちながらも、情報収集で得た点と線を繋ぎ、大使館内の相関図を作り上げていく。確かに、ここ数ヶ月のリオの動きには不審な点が多い。機密文書に近づく機会も増えている。普段は陽気で女好きのリオは、まるで別人のように沈思黙考する時もあったようだ。この男を何が変えたのか。

中盤では、鋭い洞察力を発揮する〝探偵役〟ターナーが、リオ・ハーティングの肖像を塗り固めていくシーンが続く。闇から朧気に浮かび上がってきたのは、東側スパイとしての姿だが、さまざまな断片がそれを否定した。
ドイツ再統一運動の行進が勢いを増して迫る。状況の全てが過去へと導いた。戦争がもたらした惨禍。歴史の闇に葬られた罪過が暴かれ、眠れる死者を呼び覚まし、腐乱した肉体から偽りの現在を指し示す血痕が滲み出る。

物語は、ありふれた二重スパイ物から分岐して流れを変える。
遂に、失踪した男の目的を掴んだターナーは、いまだ会うことのないリオに対する共感の度合いを深めていた。同時に、旧態依然の英国官僚主義を象徴する大使館高官への批判を強めた。終盤でターナーは怒りを爆発させ「彼一人だけが真実の人間だ」と大使館官房長ブラッドフィールドに言う。高級外務官僚の全てが、同じ職場で働いている臨時職員を無価値と見ていたが「信念を持ち、現実に行動した唯一の男」こそリオなのだと。その言葉の真意を読み手は必ず汲み取るだろう。

保守的な英国官僚機構を痛烈に批判しつつ、東西に分裂されたドイツのあがき、罪深き敗戦国を取り巻く大国間のイデオロギー闘争、その駆け引きの中で埋もれていくナチス戦争犯罪など、多様な要素を絡めつつ、大きなうねりを伴ってストーリーは劇的なエピローグへと向かう。
〝小さな町〟ボンの街を埋め尽くす群衆。その中にようやく姿を現したリオ。彼は何を思い、何を為すのか。万感胸に迫るターナー。終幕の余韻は余りにも重い。

実際にMI6職員であったル・カレは、外交官を隠れ蓑としてボンに駐在していた。その経験が情景のリアリティと情勢を捉える視点に生かされ、多面的な読み方が出来る重層的な構造を持つ仕上がりとなっている。二つの世界戦争と冷戦によって疲弊したドイツ。過去からは逃れられないというペシミズム的思想。冷徹で俯瞰的な視野に立ちながらも、内側から湧き上がるような「書かねばならなかった」というル・カレの熱い気迫を本作から感じた。

評価 ★★★★