海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

ジョン・ル・カレの航跡

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既に報道されている通り、2020年12月12日にジョン・ル・カレ(本名デイヴィッド・コーンウェル)が死去した。享年89歳。
私は熱烈なファンという訳ではなかったが、訃報を知って或る喪失感に陥ったのは、偉大な作家をまた一人失ったという寂寥と、スパイ小説がさらに沈滞していくのではないか、という馬鹿げた危惧に起因する。ル・カレは、昨年(2019年)も新作「スパイはいまも謀略の地に」を発表して健在ぶりを示し、伝記や回顧録も相次いで出版されて話題には事欠かなかった。老境に達して以降も、創作意欲が衰えること無く、第一線で活躍し続けていたのだから、やはり凄い作家だったといえる。同系の小説家に与えた影響も計り知れず、今後もメルクマールとして、ル・カレの名は語り継がれていくだろう。その存在はあまりも大きく、孤高であり過ぎたのだが。
まだ海外ミステリを読み始めて間もない頃、「寒い国から帰ってきたスパイ」(1963)で受けた衝撃を、今でも鮮明に覚えている。不毛なイデオロギー対立を表象する凍てついたベルリンの壁。光の当たらない闇の中で無残に朽ち果てていくスパイの孤独。諜報戦の非情さと、使い捨ての駒として消えていく人間の姿を、凄まじい緊張感を強いつつ見事に浮き彫りにしていた。とにかく、ル・カレの力量に圧倒された。冷戦真っ只中、東西に引き裂かれたドイツを舞台とした同作は、スパイ小説を一夜にして熟成させたと言っていい。それまで主流だったフレミング・スタイルの荒唐無稽な〝スーパースパイ〟とは無縁の名も無きスパイの悲劇を鮮烈に描き切り、傑作という評価が物足りなく感じるほどの歴史的名作を誕生させた。同作については、いずれ再読した上で改めて綴りたいと考えているが、私が一瞬でスパイ小説の虜となったことは言うまでもない。他の作家も出来るだけ読むようにしたのだが、指標となったのは常にル・カレだった。晦渋な筆致で文学志向を前面に押し出したスマイリー三部作以降は、急速に興味が薄れたのだが、今一度ル・カレの航跡を辿ろうと考えている。死してなお輝きを増した灯光を目指して。