海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

海へ

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その冬、初めての雪だった。
夕刻から降り出した風花は、街を抜けて湾岸道路を走る頃には勢いを増していた。ヘッドライトの光芒に乱反射し舞い落ちてくる雪片は、幻影のように私を淡い記憶の彼方へと導いた。揺れ惑う結晶のプリズム。その残像に軽い目眩すら覚えた。
心が乾いていた。
カーオーディオでジャズギタリストのパット・メセニーを聴いた。限りなく甘美な演奏に身を委ねたまま、白い世界を疾走する。
そういえば、あの冬の日も、同じようにメセニーが流れていた……。

 


出逢ってから、二度目の冬を迎えていた。
その日、二十二歳になったばかりの彼女と、馴染みのレストランでささやかなお祝いをした。クリスマスが近づき、街は華やいでいた。食事のあと、夜のドライヴへと誘った。彼女は少しためらってから、こう云った。
海へ、帰りたい。

〝帰りたい〟という言葉には、どんな感情が含まれていたのだろう。その時は、単なる彼女の気まぐれな言葉のひとつとして受け止めていた。
海へ向かう車の中、彼女はいつもより静かだった。私は、愛聴していたパット・メセニーグループのアルバム「offramp」をセットした。やがて、「Are You Going With Me?」 という夢のうつろいにも似た美しい曲に合わせて、彼女が小さくメロディを口ずさんだ。当時、時の流れが優しく感じられていたのは、愛する人の存在が私自身を大きく変えたからだろう。生きることの意味に、ようやく気付いたのだった。


やがて、海へ。
彼女は途中で眠ってしまっていた。停めた車の中から、星の光を照り返して燦めく波を見ていた。ここは、彼女が生まれ育った町にほど近い寂れた海岸だった。数年前、ある事情により移住して来た私は、彼女と巡り会えたことで、人生の転機を感じていた。彼女は、急速に過疎化が進んでいるとはいえ、豊かな自然が残るふるさとを愛し、穏やかな気風の人々を愛していた。時折、ジャズや本について熱く語る私を嫌がりもせず、いつまでも付き合ってくれた。私は、この町を愛し、何よりも彼女を愛した。

水平線は遥か彼方。空には、満天の星。
波のリフレイン。遠く灯台の灯。
時折過ぎゆく風の迷い。

彼女の寝顔を見ているうちに、
いつしか私も浅い眠りへと落ちていった……。

いきなり顔に水をかけられ飛び起きた。しょっぱい潮の味がした。彼女は間抜けな私の顔を見て、しきりに笑った。私は怒ったふりをして、逃げる彼女を追いかけた。しばらく二人してはしゃぎながら波打ち際を歩いた。風が彼女の髪を優しく撫でた。
ありがとう。
彼女はポツリそう云った。
私は戸惑いながらも「来年もまた来よう」と云った。彼女は、ほんの僅かに頷いた。

砂浜に二人並んで座り、夜が明けるまで海を見ていた。
揺れる心。掴みかけていた大切な何か。
確かなことは、私を見つめる彼女の瞳の無垢なる美しさだった。だが、穏やかなその微笑みが秘めていたのは、儚く脆い硝子のような心だったのかもしれない。

 

半年後、彼女は私に別れも告げず、突然逝ってしまった。
病んでいた心臓の悪化が原因だった。あとで知ったことだが、あの海へ行った日、彼女はすでに自分に残された時間が僅かしかないことを悟っていたという。
彼女は海へと帰っていったのか……。愚かな心のままに、私はあの場所へと向かった。今日、彼女は二十三歳となるはずだった。


雪はいつまでも降り続いていた。

あの日、あの場所に車を停め、降りしきる雪を見つめた。私は車内灯をつけた。生前に彼女が書きかけていたという私宛ての短い手紙を取り出した。彼女の部屋を整理中に母親が見つけたものだった。繊細で大人びた文字。彼女は、これまでの思い出を振り返っていた。短くも、掛け替えの無い日々。私に対しては、決して病気のことを語ることは無かった。手紙の中でさえ、それは同じだった。〝ありがとう〟。そのあとに〝それから……〟。それが最後に記されていた言葉だった。

CDをビル・エヴァンスへと変えた。……「 My Foolish Heart」。白と黒の鍵盤から紡ぎ出されるロマンティシズム。深く、耽美な音色に揺さぶられるままに、私は打ち寄せる波涛を見つめた。乾き切った心でさえ、涙は決して涸れないらしい。

私はいつでも優しくいれただろうか。
今夜は眠らずに帰ろう。
目覚めても、彼女の笑顔はもう、この海にはないはずだから……。