海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「甦える旋律」フレデリック・ダール 【名作探訪】

「世界じゅうでいちばん悲しいものは? それは壊れたバイオリンではないかと思う」
ナイーヴで感傷的なモノローグで始まるこの物語を初めて読んだのは、私自身がまだまだ未熟で多感な時だった。読む物すべてが新鮮で知的な〝冒険〟に満ちていた頃。そんな中で本作と出会い、心を揺さぶられた。読了後しばらくは深い余韻に浸り、何も手につかなった。ミステリの読み方を変えた一冊であり、悲劇的な終幕のカタルシスによって、心の奥深くに刻み付けられた作品である。

舞台はスペイン北東部の港湾都市カシティールデフェルス。真夜中の車道に潰れたバイオリン・ケース。溝の縁に横たわっている女。運転席の青年は、それを呆然と見つめる。
「この死人のようなバイオリンはぼくの心を痛ませた。この瞬間に、ぼくをここに導いたのは運命的な、一種の感情の昂ぶりだった」
女は青年が運転する車の前に突然飛び出してきた。幸いにも軽傷で済んだようだった。美しい女だった。青年は仮の宿へと彼女を運び、医者を呼ぶ。翌朝、目覚めた彼女はフランス語を話した。だが、それまでの記憶を完全に失っていた。医者は言った。昨夜の事故で受けた頭への衝撃は軽く、記憶喪失は外傷のせいではない。恐らく、すでに神経障害に苦しんでいたか、事故による動揺で精神上のショックを惹き起こしたのだろう、と。

青年は、フランス人の新進画家ダニエル・メルメ。創作のため、スペインに滞在中だった。女は身元を証明する物を持っていない。領事館も役に立たなかった。彼女は何者なのか。唯一の手掛かりは女が身に付けていた服の購入先で、フランスの或る地方にあった。
「マリナンヌ……」。幾つか試した中で、彼女が反応した名だった。ダニエルは、彼女の記憶を取り戻そうとする一方で、急速に惹かれていく自分に気付く。〝マリアンヌ〟もまた、青年のみを頼りにし、傍を離れようとしなかった。必然、二人は激しい恋に落ち、希望に満ちた明日を夢見るが、それは所詮夢にしか過ぎなかった。

1956年発表作。いかにもフランス作家らしいロマンチックなサスペンス小説で、プロットはシンプルながらも構成は練られている。翻訳文庫本で200ページほどの短い作品だが、ロマンの魅力が凝縮されている。主人公の情操は、一人称の語りによって繊細に伝わり、読み手が若者であれば、青年が体験する物悲しい悲恋に自ずと引き込まれていくだろう。
狂おしい日々。もはや青年にとって、愛する女の正体などはどうでもよかった。この先は、生まれ変わった二人で共に生きていきたい。しかし、彼女を呼び戻そうと暗い〝過去〟が手を伸ばす。それを逃れるためには、どうしても新たなパスポートが必要だった。ダニエルは彼女を残して一旦フランスへと戻り、違法な手段で準備を進める。その間、青年は彼女が服を購入した店のある地へと赴いた。探偵もどきの真似ごとをして、ようやくマリアンヌが住んでいた場所を突き止める。そして、事実を知る。

あらためて本作を読み返し、登場人物の情感の揺れを的確に表現するダールの筆致に唸った。特に画家である主人公が、愛する女の肖像画を見直した際、彼女の瞳に澱む暗い陰を無意識に描いていた自らの筆に驚愕する心理描写。さらに、青年が贈った安物のバイオリンを弾く彼女が、旋律と共に甦った過去を口にする瞬間の恐怖。
フランスの気怠さ、スペインの陽気さ。様々な情景が主人公の心象と重なり合い、次第に追い詰められていく二人の行方を暗示する。愛する者を守るために、どれだけ辛い試練を乗り越えていかねばならないのか。物語は加速し、クライマックスへ向けて悲劇性を高めていく。その果ての残酷で哀しい結末。悲痛な叫び声を上げて泣き崩れる男。これほどに胸を抉られるラストシーンを他に知らない。

評価 ★★★★★

f:id:kikyo19:20210607153909j:plain