海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「ミステリガール」デイヴィッド・ゴードン

地元米国よりも日本で評判になったという「二流小説家」でデビューを果たしたゴードン、第2作目となる2013年発表作。タイトルから洒脱なハードボイルドを想像していたが、過剰なデフォルメを施した〝くせ者〟らが繰り広げる物語は、どこまでもオフビートな展開で、読み手を煙に巻く。

小説家を目指す若者サム・コーンバーグは、店番を勤めていた古書店が潰れて失職、悶々とした日々を送っていた。メキシコ出身の美しい妻ララは、夢を追い続ける甲斐性なしの男を支えてきたが、突然別れを切り出す。家を出たララとの関係を修復すべく、サムは職探しに奔走。運良く助手として採用された私立探偵の自宅兼事務所に赴く。探偵ロンスキーは、歩行がままならないほどの巨漢だったが、前途多難なサムの境遇をホームズ張りの観察力で言い当てた。頭脳明晰であることは間違いないものの、明らかに変人だった。早速、ラモーナという若い女の監視を任されたサムは意気込むが、所詮は素人に過ぎず失敗を繰り返す。ついには海岸に面したホテルで、意図せず接触したラモーナと〝成り行き〟で体の関係を持ってしまう。翌朝、部屋のベランダから女が飛び降り自殺した。ラモーナは精神を病んでいた。ロンスキーは「女は殺された」と主張。続けて「わたしの愛する女を殺した犯人を探せ」と激昂し、サムを唖然とさせる。この探偵も狂気に取り憑かれていたのだった。

この奇抜な序盤を経て、死んだ女の正体がロンスキーの独白(調査記録)によって明かされる。本作は基本的に主人公サムの一人称語り(ぼく)だが、物語の進行に応じて主要な事件関係者自身が語る章を挿入し、それまでの流れを断片的に補完、整理していく構成をとる。
ラモーナの本名は、モナ・ノート。ヨーロッパを拠点にカルト映画の監督として名を馳せたゼッド・ノートの妻だった。米国に移り住んだゼッドはスランプに陥り、B級ホラーを数本撮ったのちに、自らの頭を撃ち抜き死んだ。その場面は、最後の作品に収録されていたが、フィルムの所在は不明となっていた。女優として出演したモナはゼッドの自殺を目撃、精神的打撃により入院した。そこで出会ったのが〝患者〟のロンスキーだった。
サムは、またしても入院したロンスキーに代わり、モナに関わる謎を探り始めた。貸しビデオ屋に勤める悪友の手を借りつつ、ゼッドの映画に関わった俳優やスタッフを訪ねて回る。新たな事実を掘り起こすたびに、〝ミステリガール〟モナは変幻し、実像に迫るサムを翻弄し遠ざけた。

プロットには捻りを加えているものの、やや空回りしている部分も目立つ。処女作「二流小説家」でも顕著だったが、実験的手法を大胆に組み込み、破綻する直前ぎりぎりで抑えている。第一作目に比べて評価は今ひとつのようだが、創作に懸ける作者の熱意が分厚い文章から溢れ出ており、新鋭ならではのバイタリティを感じた。〝メジャーではない〟小説や映画作品に関する大量の蘊蓄、強烈な個性を持つ登場人物らのやりとり、退廃的で乾いたユーモア、終盤ではメキシコを舞台に「マカロニ・ウエスタン」へのオマージュと思しき躍動感溢れる場景で楽しませてくれる。実際、本筋よりも生彩に富んでいると言っていい。
主人公は「実験小説」を標榜する作家志望の青年だが、これにはゴードン自身の経験を反映させているのだろう。ジェイムズ・ジョイスユリシーズ」などの難解な書物を読みこなし、淀みなく一家言を披露するが、いざ実作となると才能の限界に打ち当たる。小説家としても探偵としても〝二流以前〟の男が、曲がりなりにも事件を解決するというコンセプトは、いわば「二流小説家」の焼き直しともいえるのだが、読者に楽しんでもらおうという気概が伝わってくる。残念ながら、インパクトと完成度では前作には及ばないものの、本作でもミステリへの愛は横溢している。ゴードンには、まだまだ注目していきたい。

 評価 ★★★