海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「イプクレス・ファイル」レン・デイトン

1962年発表のデビュー作。デイトンは言わずと知れたスパイ小説界の大御所だが、現在では殆どの飜訳作品が絶版となり、著名な割には読まれていない。玄人好みの作家として定着しているのは良しとして、ル・カレなどに比べて些か不遇な扱いを受けているのは歯痒い。特に初期作品は、一人称一視点によるハードボイルドの手法を生かした切れの良い文体のリズムが、腹を探り合うチェスゲームの如き心理戦に巧くマッチしており、新感覚のエスピオナージュとして読み応えがある。そのモダンで独創的なスタイルは刺激的で、新鮮さが失われておらず、スパイ小説が沈滞している今だからこそ再評価してほしい一人だ。

軍情報部から内閣直属の諜報機関WOOC(P)へ引き抜かれた〝わたし〟。フランスの煙草ゴロワーズを咥え、手当の未払いに文句を吐き、上司や秘書に対して軽口を叩き、ノンキャリアであることを気にも留めず、飄々と仕事をこなしていた。そんな中、局長ダルビーから下った指令は、英国内で相次ぐ要人拉致を影で操る男〝ジェイ〟との接触を図り、先日失踪した生化学者レイヴンを、カネと引き換えに取り戻せというもの。だが、早々〝ジェイ〟との交渉に失敗、ロンドンでの奪回は成らず、次の目的地レバノンに向かう。東側へと連れ去られる直前、山中での銃撃戦を経てようやくレイヴンを救出するが、密かに拉致事件を探っていた米国工作員らまで誤って殺してしまう。依然として〝ジェイ〟の正体と目論みは判然としないまま時は過ぎた。舞台は、米国が開発中の核爆弾実験場となる南太平洋の孤島へと移る。同地視察に〝わたし〟を随行させたダルビーの思惑とは何か。間もなく、水面下で或る擬装工作が進行中だと旧知のアメリカ人から警告される。その真相を探り始めるも、時すでに遅し。〝わたし〟は二重スパイとして拘束された。

読み終えて改めて分かったのは、本筋自体は素っ気ないほどシンプルであることだった。謀略の狙いは明瞭で、真の裏切り者/二重スパイも中盤辺りでしっかりと伏線を張ってある。難解という印象を残すのは、主要な登場人物とエピソードの関連性が曖昧で、煙に巻くような台詞がそれに拍車を掛けているからだ。主人公の会話と行動を主体にテンポを重視、状況を整理することなく流していく。結末で凡その種明かしはするものの、細部は読者自身に読み解くことを求めるのである。
〈イプクレス〉とは「ストレスの特定情況下における反射作用による精神神経症の誘起」という医学用語の頭文字をとった造語であることを終盤で明かしている。この晦渋な言葉は、プロットの核となる策謀を示しているのだが、あとに主人公が「ややこしい話だった」と振り返っている通り、主人公が辿る迷宮を入り組んだ構成ばかりでなくタイトルにも射影している。

実は、本作で最も印象に残ったのは、巻末にまとめている「補遺」の一部だった。〝わたし〟の窮地を救うこととなる協力者/老人の死んだ息子、その戦時中のエピソードについて補足説明がなされている。戦場で知り合った無口だが、軍人として極めて優秀だった若者レグ。その出会いから死までの僅かな挿話が、戦争の不条理を鋭く描き出しており、本編よりも心に残ったのだった。デイトンの本質は、こんな陽の当たらない部分にこそあると、不遜にも独りごちたのである。
この作品には、スパイ小説に新機軸を築こうしたデイトンの意気込みが溢れている。完成度よりも、各章での情景のアイロニカルなトーンを楽しむ小説であり、それはまさしくチャンドラーの作風に通じるものなのだろう。

評価 ★★★☆

イプクレス・ファイル (ハヤカワ文庫NV)

イプクレス・ファイル (ハヤカワ文庫NV)