海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「鋼の虎」ジャック・ヒギンズ

「山脈の向こうの空は群青色と青に染まり、太陽がゆっくり昇ってくるにつれ、万年雪の上に黄金色の輝きが拡がった。眼下の谷は暗く静まりかえっていて、聞こえるものといえば、チベットへの迷路をたどるビーヴァー機の、低く、絶え間ない唸りだけだった」
静謐なシーンから始まるヒギンズ1966年発表作(本名ハリー・パタースン名義)。
この臨場感豊かな幕開けから、一気に冒険小説の世界へといざなう。常々感じることだが、冒頭数ページで作家の力量は試される。情景から、台詞から、或るいは背景説明から。作家は、読み手を引き込むための技術を駆使する。経験上、プロローグが駄目な場合は凡作が多い。無論、エピローグで手を抜いた作品も同様。余韻は、何時間も掛けて読み進んできた本編の評価にも繋がる。

主人公ジャック・ドラモンドは、元英国海軍航空隊中佐で、除隊後はフリーのパイロットとしてインドを拠点に活動していた。危険地帯へも飛ぶ〝運び屋〟となり、カネを貯めて早々に引退することを夢見ている。
舞台は中国とインドの国境、雪に覆われた山岳地帯。ここには反中国のチベット人ゲリラのアジトがあり、衝突が絶えなかった。水陸両用機ビーバーを操縦し、台湾工作員の依頼で武器類を運んだドラモンドはインドへと戻り、旧友の軍人らと休養を楽しんでいた。そこへ看護師の若い女ジャネットが訪れ、太守の息子を治療のため米国へ運んでほしいと依頼する。だが、間もなく中共軍の部隊が進撃を開始。ドラモンドが物資を運んだゲリラ部隊は現地人の目を欺く敵の偽装だった。間もなく太守の息子が滞在する村が強襲された。迎えに赴いていたドラモンドだったが、飛行機は破壊されたため、陸路を辿り安全地帯まで逃げ延びることを強いられた。かくして豪雪の山中での決死の逃走と戦闘が始まる。

大仕掛けはないが、戦争冒険小説の骨格はしっかり持っている。無名時代の作品で、恐らく熱心なファン以外は手に取ることもないだろうが、冒険小説を愛する者にとっては読み逃せない。ヒギンズ後期はマンネリ感が否めない部分もあった(逆に安心感を覚える場合もある)が、初期は意欲的に設定に工夫を凝らし、構成も引き締まっている。本作は文庫本で200頁ほどのボリュームだが、密度は濃く、展開が早い。誇り高いアウトサイダーのヒーロー像などは一貫しているが、ストーリー優先のため、主人公の造形はやや弱い。その分余韻は物足りない面はあるのだが、極寒の山岳地帯の情景や、緊迫感に満ちた戦闘シーン、甘いロマンスの要素など、ヒギンズお馴染みの世界が拡がり、ファンであれば楽しめるだろう。
評価 ★★★