海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「ユダの窓」カーター・ディクスン

1938年発表作で、古典的名作として世評が高い。法廷を舞台に殺人事件の被告が有罪か無罪かを問う論証をメインとし、〝本格物〟の醍醐味を味わうには最良の設定。その分、場景は固定されたままで動的でないのだが、読み手は陪審員の一人として、じっくりと裁判の流れを追うことが可能だ。お家芸である怪奇趣味も一切盛り込んでいない。恐らくカーは、本作にかなりの気合いを入れたのだろう。
だが、個人的な結論から述べれば、物足りなかった。良くも悪くも本格物の域を出ない。以下に若干の理由を述べる。


愛憎が絡んだプロットは比較的地味なもので、密室殺人の真相を関係者の証言と証拠物件をもとに解き明かす過程に集中する構成をとっている。フェアプレイに徹するカーは、持てる技巧を存分に発揮してはいるのだが、大逆転劇へと展開する伏線は大人しいもので、ケレン味に欠ける。要は物理的/機械的なトリックに偏重しがちな本格物の粗が際立っていると感じた。真犯人の動機の凡庸さも、そのままパズラーの弱さへと繋がっている。時代背景を考えれば致し方ないことだが、探偵役のみに有益な鍵が見つかるというご都合主義が目立つ。偶然性に頼り過ぎる面もあり、極めて限られた時間内での犯行が、単なる〝素人〟である殺人者に可能であったのか、という疑問も残る。そもそも、こんな七面倒臭い殺害方法を短期間で思い付くだろうか。事件関係者が多数出入りしているはずの部屋(殺人現場)から被害者と容疑者の指紋しか検出されないという不可解な事象も、あっさりと流されていく。本作の〝売り〟となる法廷での駆け引きは、探偵役となる弁護士の一方的展開。終盤に至っては、検察側は審理を投げ出しているほどだ。これでは、スリルなど生まれるはずがない。しかも、常に無罪を主張していた被告が、途中で「私が殺した」という発言をするが、その真意は最後まで曖昧なままとなる。恐らく私の読解力が足りないためか、読み進める中で幾つかの矛盾点があり、緻密さが要求される本格物としては、完成度が低いと感じた。

〝探偵小説の黄金時代〟を継ぐ本作は、敢えてリアリティを捨てているようだが、不自然な違和感だけが増幅されていった。不可能犯罪の状況を創り出すためだけに〝後付け〟で配置/構成したかのようなストーリーに加え、感情移入できる魅力的な登場人物が探偵も含めてひとりもいないことも痛い。無論、これは個人的な好みだが。また、キーワードとして序盤から登場する「ユダの窓」についても、その意味自体が種明かしとなるため、探偵は中盤過ぎまで引っ張るのだが、勿体ぶる必然性がない。被告人の人生に直結する裁判に対し、弁護士の姿勢は、あまりにも緊張感がなくマイペース過ぎるのである。

と、ここまで〝カー・マニア〟の反感を買うようなレビューを書いてきたが、これも期待の裏返しである。ミステリ初心者の時に読んだ「三つの棺」(1935)には大いに感動した記憶が残っているため「カーの凄さはこの程度のものではないはずだ」という気持ちがある。
結局、本作でロジックの快感が得られなかった私は、本格物を楽しめる〝純粋さ〟を失ったということだろう。哀しいが、仕方が無い。

評価 ★★☆☆