海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「Yの悲劇」エラリイ・クイーン 【名作探訪】

まずは私的な述懐から。以前「旅の記録」の拙文でも触れたのだが、私の海外ミステリ〝初体験〟は「Yの悲劇」(1932)だった。まだ十代の頃、気ままに選んでいた国内/海外文学の流れで出会った。各種ランキングで長らく不動の首位に輝いていた本格推理小説黄金期の名作。これは、後になってから知ったことで、学校の図書室で何気なく手にした本作に関して、予備知識は全く無かった。
一気に読み終えた。それまでの文学とは次元が異なる感動を覚え、しばらくは興奮状態にあった。同時にミステリへの興味/好奇心が大きく膨れ上がった。物語が進行するほどに深まる不可解な謎が、緻密な論理に基づく鋭敏な推理によって、鮮やかに解き明かされていく。それは、味わったことのない〝快感〟だった。必然、私は片っ端から海外ミステリを読み漁ったのだが、本作は常に原点としてあり続けた。

ニューヨークの悪名高い富豪ハッター家を襲う災厄。発端の事件以外は同家邸内のみで起こり、核となる老婦人エミリー・ハッター殺害の容疑者は幕開けから絞り込まれている。いわば密室劇に近い構造のため、読み手は集中してストーリーの流れを追うことができる。元シェイクスピア俳優が探偵役を務めることが象徴しているように、戯曲になぞらえた章立て/構成をとり、アクの強い人物を揃えた配役と時代掛かった舞台装置によって独特の雰囲気を創り出している。ケレン味たっぷりの演出を施した愛憎劇。この〝舞台〟にはミステリの醍醐味が凝縮されていた。

今回、数十年を経て再読したのだが、当然のこと大筋と真犯人は記憶していた。それでもなお面白さが色褪せることはなかった。あらためて感じたことは、状況を的確に伝える卓越した文章力、精緻且つ大胆なトリックを生かす高度な技巧、そして隅々までこだわり抜いた構成美だった。人物造型についてはデフォルメ過剰な部分もあるが、これは本格物としては許容範囲だろう。本作執筆時、エラリイ・クイーン(フレデリック・ダネイ/マンフレッド・リー)は、まだ20代後半の若さだが、やはり天才的な技倆を備えていたとしか言いようがない。

「Yの悲劇」の有名な謎のひとつに、老女撲殺の凶器となる〝マンドリン〟がある。邸内には幾らでも〝適当〟な鈍器があるにも関わらず、殺人者はなぜ殺傷能力が低い楽器を選んだのか。極めて計画的な犯罪に見えながらも、奇妙な凶器が表象する意想外の粗/矛盾が積み重なり、さらなる迷宮へと導く。だが、パズルが複雑に入り組むほどに、老探偵は解明の鍵を手にし、扉の向こう側で息を潜める犯人へと迫っていくのである。最も効果的な〝最後の一撃〟を生むように張り巡らされた伏線。それを丹念に回収していく過程は明瞭に示されており、クイーンのいわゆる〝論理のアクロバット〟がどのように為されるのか、その剛腕ぶりを実感できる。実は「第三幕」の早い段階で凡その種明かしをしているのだが、初読で気付く読者は相当なツワモノだろう。
物語では、三重苦のヘレン・ケラーを想起させる女が、触覚と嗅覚によって殺人者を示唆する重要な役目を担う。加えて探偵自身も聴力を失っている。障害があるが故に、限られた能力がより鋭敏になり、難事件を解決する突破口にも成り得る。この着想の妙が光る。

ただ、少年期に読んだ時には感じなかった〝引っ掛かり〟があった。鋭い識者も指摘していることだが、ハッター家は遺伝的な欠陥を持つ血統という前提の上に、物語が構築されていることだった。現在では大いに問題となる要素で、本作の土台を崩しかねない〝亀裂〟でもあると感じた。これは、真相に辿り着いた後、探偵が殺人者に下す最終的〝決断〟への重要な動因ともなっている。「Yの悲劇」発表時の時代背景を考えれば致し方ないことなのだが、精神疾患に関して遺伝学などの科学的根拠がないままに、優生学擬きの通念を取り込んでしまっている。
あくまでも私の推測だが、来日時のフレデリック・ダネイが、しきりに「Yの悲劇」をクイーンの最高傑作に挙げる日本人の偏った称賛を〝喜ばなかった〟訳は、作家として成熟しきれていない倫理的な甘さが露呈している同作に対して、少なからず自責の念があったからではないか。

苦い結末には、罪と罰のあり方、探偵自身が制裁を加えることが許されるのかという重い命題が内包され、初読時には大きな衝撃を受けた。だが、今回の再読では、呪われた血縁による悲劇を断ち切るために選択せざるを得ない、いわば歪んだ宿命論に基づく終幕だったのだと捉え直した。これは、本作が本国アメリカでの評価が決して高いものではなく、〝戦後〟の日本でのみ至宝の如く崇められていた理由のひとつかもしれない。公然たる差別の対象、狂気に呪縛された家/社会の闇。つまり、概ね暗く陰湿だった国内〝探偵小説〟が軸とした因果との親和性を、本作に認めたのではないだろうか。

 余談だが、本レビューにあたり、手元にあった早川文庫版(宇野利泰/訳)で再読したのだが、最初に読んだのは〝定番〟の新潮文庫版(大久保康雄/訳)だった。流石に宇野利泰の翻訳は淀みなく洗練されていたが、大久保康雄による硬い文学調の訳文の方が、本作の持つ異様な雰囲気に合っていたと感じた。無論、私の淡い懐旧がもたらすものだが。
いずれにしても、私にとって海外ミステリの旅に出る〝出発点〟となった「Yの悲劇」との出会いは限りなく大きい。

評価 ★★★★★

Yの悲劇 (新潮文庫)

Yの悲劇 (新潮文庫)

  • 作者:クイーン
  • 発売日: 1958/11/18
  • メディア: 文庫