海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「警鐘」リー・チャイルド

第1作があまりに完璧過ぎるため、後に続く作品が物足りなく感じるシリーズは、さほど珍しくない。読者に好評であれば、当然出版社は同じ主人公による継続を求め、著者は期待に沿うべく書き続けるのだが、エンターテイメント性を高めようとして、逆に失敗することもままある。要は活劇を主体とするシリーズが駄目になってしまう理由とは、どれだけ窮地に立たせようとも、「不死の主人公」がいる限りは適度な冒険の中に収まってしまうことにある。あれこれと余分な要素を加えることで弛緩を生じさせ、ヒーローらは須く「ジェイムズ・ボンド」或いは「ランボー」化しいていく。本作はその見本といえる。

「キリング・フロアー」が活劇小説として傑作なのは、鍛え上げられた強靱な肉体と戦闘能力、さらに冷徹な智力で瞬時に情況判断が出来る主人公が、持ち得る能力の全てを出し切って闘う姿を、五感を通して見事に活写しているからであり、予測不能の結末へと向かって疾走するスピード感/緊張感が分厚いカタルシスへと導いていたからだ。
第2作目から、三人称へと変えたこともマイナス要因で、転々と変わる視点のためにスリルが持続しない。かつての恩師の娘によって骨抜きにされるリーチャーの姿は、第1作でみせたストイシズムの片鱗も無く、個の闘いも精彩を欠く。活劇小説にロマンスが不要とは思わないが、本筋とは関係の無い色恋でボリュームを稼いでいるとしか受け取れない。さらに言えば、軍人にありがちな仲間意識、帰属意識が強調され、孤立無援の男というクールなスタイルも失われている。

評価 ★☆

 

警鐘(上) (講談社文庫)

警鐘(上) (講談社文庫)

 

 

 

警鐘(下) (講談社文庫)

警鐘(下) (講談社文庫)

 

 

「フォックス家の殺人」エラリイ・クイーン

「僕は満足していません」
12年以上前に妻殺しの罪で終身刑となった男。その無罪立証のために再調査の依頼を受けたエラリイ・クイーンが、事件当日の状況を再現した後に吐く台詞だ。あらゆる事実が状況証拠の裏付けをし、男の犯行であることを、あらためて示していた。だが、論理的な疑いがひとつでも残る以上、納得することはできない。初期の冷徹ぶりから様変わりしたクイーンの熱い男気を示すシーンといえる。

中期以降、ライツヴィルを舞台とする物語を展開したクイーンは、自らの探偵に単なる思考機械で終わらない人間性を肉付けし、社会的情況も加味しつつ、作品そのものに深みをもたせた。
発表は1945年。日本を敵国とする中国戦線を経験し精神的後遺症を負った青年を登場させ、不貞に起因する家庭の崩壊も重要な要素としてプロットに含めている。絢爛たるトリックなど過去の遺物であるかの如くクイーンは割り切り、謎解き自体は捻りのないささやかなものに抑えている。だが、解明された真相に対する結末の付け方は、明らかに成熟している。「本格派の巨匠」としてミステリ史に多くの傑作を残したクイーンは、衰えたというよりも良い意味で「枯れて」いったのだろう。ミステリとしての醍醐味が薄れたとはいえ、固い信念の下、無実と確信する者のために行動するクイーンの姿が初期よりも魅力を増したことは間違いない。

評価 ★★☆

 

フォックス家の殺人

フォックス家の殺人

 

 

「隣の家の少女」ジャック・ケッチャム

これまで少なからずの小説を読んできたが、この作品以上に嫌悪感を覚えたフィクションはなかった。とはいえ、著者の筆力は大したもので、非道の行為を延々と単純に描いただけのストーリーを最後まで読ませる力量は認めざるを得ない。が、同時に相当の忍耐を強いる。主人公を敢えて「非力」な少年に設定し、眼前で繰り広げられる狂気のさまを、傍観者という極めて卑しい立場に置いたまま延々と見せ続けるのだが、それは読者自身を卑劣な側に「同化」させ、共犯関係へと陥らせることとなる。導入部で苦痛の度合いについての意味有り気な語りがあるのだが、それが読者に対する問い掛けであったことに中途で気付く。つまりは、拷問にも匹敵する精神的な苦痛にどれだけ耐えられるか、妙な表現だがマゾヒズムのキャパシティを「本作を読む」ことによって試しているのである。どんなホラー小説でも、救いの兆しや、束の間の休息を含めるものだが、ケッチャムは甘え無用とばかりに読者の期待を裏切り続ける。

中盤から過激さを増す醜悪なサディズムは、一切の救済を退ける。終盤に至ってようやく訪れる主人公の柔な改悛でさえ、もはや手遅れという罪悪感を助長するものでしかなく、無垢な少女を狂人がひたすらに蹂躙するという最悪なプロットは、肥大した不快感を残して暴力的に閉じられる。
例によって、スティーヴン・キングが絶賛しているのだが、恐怖の中でこそ輝きを放つ人間の尊厳や情愛を描いた物語(逆に言えば、それこそ大半の読者が望む)しか書けないキングにとって、ある意味別次元の書き手であるケッチャムの存在は驚異なのだろう。だが、人間の生理的な厭忌のみを刺激する本作品は「問題作」ではあっても、「娯楽作」ではない。また、常人には推薦しない方が無難だろう。後で恨まれることは間違いないであろうから。

評価 ★☆

 

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

 

 

「ランターン組織綱」テッド・オールビュリー

1978年発表作。派手さはないが、戦争によって引き裂かれた一家族の悲劇を描いた佳作。愛する者のために自ら犠牲となる、その覚悟は凄まじくも悲哀に満ちている。

英国警視庁公安部のベイリーはスパイ容疑のかかった男、ウォルターズの自宅を訪問する。確証もなく漠然とした質問をした直後、男は退席して自殺。衝撃を受けたベイリーは、平凡な人生を送ってきたかのようにみえた男の過去を探るために、唯一の手掛かりとなるパリの画廊へと向かう。
導入部は短く、謎に満ちた男の素性は明らかにされなまま、物語は第二次大戦中のドイツ占領下のフランスへと時を遡る。間近に迫った連合軍のノルマンディー上陸。英国工作員シャルルが現地のレジスタンスを統率、指揮するために潜入していた。レジスタンス活動は一枚岩ではなく、ソ連を標榜するフランス共産党員も多く含まれていた。終戦後の政権奪取を狙う一部の者は、ゲシュタポへの密告で仲間を売り渡し、解放の為に戦った勇士らは次々と捕らわれていった。勝利の日を目前にしていたシャルルは戦場で束の間の恋におちて結婚する。だが、裏切りによって拘束/拷問された後、強制収容所へと送られ、既に身籠もっていた妻にはシャルルの死が伝えられた。
物語は再び現代へ。自ら死を選んだ男の人生を追い続けいたベイリーは、レジスタンスの亡き英雄シャルルとの接点に気付く。シャルルが死んだのは事実か。ウォルターズの真意とは何だったのか。

非情な運命に翻弄されつつも、己の生きた証を最期まで守り通そうとした男の背中が哀しい。

評価 ★★★

 

 

ランターン組織網 (創元推理文庫 (218‐2))

ランターン組織網 (創元推理文庫 (218‐2))

 

 

「ドライ・ボーンズ」トム・ボウマン

私立探偵をヒーローに据えたハードボイルド小説が減ってきている。或いは「売れない」ためなのか翻訳されない。本作の解説で、評論家・霜月蒼が言及している通り、生業ばかりでなく、その舞台も都市部から地方都市へ、さらには厳しい環境の辺境の地へと移っている。主題も、家庭の悲劇からマイノリティなど米国の抱える闇を捉え直して、ミステリに組み込み始めている。私立探偵という職業がもはやリアリティを持ち得ないのではなく、〝現代のハードボイルド小説〟を構想する上で、都会に住む〝孤高〟のヒーローよりも、ドロップアウトして地方生活を送る者、または土地に根差しながらも〝アウトサイダー〟である者の方が、社会的なテーマをより深く掘り下げ、明確にしやすいということなのかもしれない。
ハードボイルド小説のヒーロー像も変遷していく。その流れの中で、トム・ボウマンのデビュー作「ドライ・ボーンズ」は、〝これからのハードボイルド小説〟の本流となる力強さを秘めていると感じた。導入部一行目から引き込まれたのだ。

死体が見つかった日の前夜、わたしは眠れなかった。三月半ばの雪解けの時期だった。

主人公の独白は内省的でありつつ己の現状を達観しており、動的でありながらも情感に満ちた文体(無論、翻訳者の腕如何だが)で、眼前の情景を時に読者自身にも語り掛けながら綴っていく。ガス採掘の利権で揺れる町。ネイティヴの絡む不可解な死体の発見。色と欲と麻薬、暴力の連鎖。本筋とは関係なく時折挿入される亡き妻とのエピソードが決して邪魔にならず、〝余所者〟として事件に執着する主人公の動機が、喪失と疎外感の中で形成されていることが分かる。森林の中に投棄される鉄屑の山。そこに吸い寄せられていく敗残者。過去に生きる者の幻視。濃密な退廃感。関係者の過去へと遡り、徐々に「わたし」は真相へと近付いていく。

プロットや登場人物が整理されておらず混乱することもある。だが、それでもなお読ませるのは、この物語の持つ空気感、世界観が、今後のハードボイルドを切り拓く可能性までも感じさせるからに他ならない。

評価 ★★★★

 

ドライ・ボーンズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ドライ・ボーンズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)