海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「ゲルマニア」ハラルト・ギルバース

評判が良く期待して読んだが、序盤からかなりもたつく。まず、文章が淡白なことが最大の欠点だろう。読み進んでも、登場人物らの顔が浮かんでこず、全体的に造形が浅いと感じた。
物語の舞台となるのは、ノルマンディー上陸作戦の直前、敗色濃い第二次大戦末期のベルリン。主人公はユダヤ人の元警察官で、ナチス親衛隊から猟奇的な連続殺人事件への捜査協力を求められるというもの。この異常な設定にも関わらず、緊迫感がさっぱり伝わってこない。
著者は戦後生まれのドイツ人だが、資料を頼りにしたと思しき説明口調が多く、濃密な空気感を創り上げることに成功していない。連合軍の反撃が勢いを増し、街に爆弾が降り注ぐ。しかし、報道規制が敷かれたドイツの都市部では、変わらぬ日常が続いている。この辺りは事実に基づく内容であろうが、描写が凡庸なこともあって意外性が低い。定石通り、相反する立場であるはずの主人公とナチス親衛隊の捜査官の間には、「友情」の萌芽があり、読者期待するところの結末となるのだが、敢えてこの時代を選んだ必然性が感じられなかった。本筋となる連続殺人自体は、使い古されたサイコパスで、実直ではあるが特に冴えてもいない元警察官を引っ張り出したSSの動機も不充分だ。「ゲルマニア」というモチーフも生かされているとはいえない。
何一つ良い評価が出来ていないのは、先駆者であるフィリップ・カーの傑作「偽りの街」が念頭にあるからだろう。凄まじい極限的状況下に見事なハードボイルド小説を成立させたカーの剛腕にあらためて感心し直す。別の作家を褒めるのも妙な話だが。

評価 ★☆

ゲルマニア (集英社文庫)

ゲルマニア (集英社文庫)

 

 

「スマイリーと仲間たち」ジョン・ル・カレ

スマイリー三部作完結編で、旧ソ連の宿敵〝カーラ〟との最終的決着までを描く。重厚な筆致は更に磨きが掛けられており、ル・カレ独自の世界がゆっくりと始動する。前作の漠然とした分かりにくさは消え、より引き締まった構成ではあるが、集中力を欠くと挫折しかねない。タイトル通り、物語はスマイリーに主軸を置いている。かつての仲間が犠牲となっていく非情な諜報戦のただ中で、老体に鞭打ちながら真相を求めて歩む孤独な後ろ姿は、影の存在でありつつも、自国他国問わず真っ先に国家の使い捨ての駒となるスパイの悲哀を物語っている。
冷たい怒りを抑えつつも、或る瞬間には滲み出てしまう吐露に、終わりなき闘いの不毛ぶりが表れている。実体がほとんど明らかにされていなかった〝カーラ〟が、ようやく姿を現す終盤のシーンは、本作のみならず三部作全体を通してのクライマックスであろう。「勝つ」ためには、自らも薄汚い手段を取らざるを得なかったスマイリーに去来する思いは、苦く空しい。

評価 ★★★

 

 

「警鐘」リー・チャイルド

第1作があまりに完璧過ぎるため、後に続く作品が物足りなく感じるシリーズは、さほど珍しくない。読者に好評であれば、当然出版社は同じ主人公による継続を求め、著者は期待に沿うべく書き続けるのだが、エンターテイメント性を高めようとして、逆に失敗することもままある。要は活劇を主体とするシリーズが駄目になってしまう理由とは、どれだけ窮地に立たせようとも、「不死の主人公」がいる限りは適度な冒険の中に収まってしまうことにある。あれこれと余分な要素を加えることで弛緩を生じさせ、ヒーローらは須く「ジェイムズ・ボンド」或いは「ランボー」化しいていく。本作はその見本といえる。

「キリング・フロアー」が活劇小説として傑作なのは、鍛え上げられた強靱な肉体と戦闘能力、さらに冷徹な智力で瞬時に情況判断が出来る主人公が、持ち得る能力の全てを出し切って闘う姿を、五感を通して見事に活写しているからであり、予測不能の結末へと向かって疾走するスピード感/緊張感が分厚いカタルシスへと導いていたからだ。
第2作目から、三人称へと変えたこともマイナス要因で、転々と変わる視点のためにスリルが持続しない。かつての恩師の娘によって骨抜きにされるリーチャーの姿は、第1作でみせたストイシズムの片鱗も無く、個の闘いも精彩を欠く。活劇小説にロマンスが不要とは思わないが、本筋とは関係の無い色恋でボリュームを稼いでいるとしか受け取れない。さらに言えば、軍人にありがちな仲間意識、帰属意識が強調され、孤立無援の男というクールなスタイルも失われている。

評価 ★☆

 

警鐘(上) (講談社文庫)

警鐘(上) (講談社文庫)

 

 

 

警鐘(下) (講談社文庫)

警鐘(下) (講談社文庫)

 

 

「フォックス家の殺人」エラリイ・クイーン

「僕は満足していません」
12年以上前に妻殺しの罪で終身刑となった男。その無罪立証のために再調査の依頼を受けたエラリイ・クイーンが、事件当日の状況を再現した後に吐く台詞だ。あらゆる事実が状況証拠の裏付けをし、男の犯行であることを、あらためて示していた。だが、論理的な疑いがひとつでも残る以上、納得することはできない。初期の冷徹ぶりから様変わりしたクイーンの熱い男気を示すシーンといえる。

中期以降、ライツヴィルを舞台とする物語を展開したクイーンは、自らの探偵に単なる思考機械で終わらない人間性を肉付けし、社会的情況も加味しつつ、作品そのものに深みをもたせた。
発表は1945年。日本を敵国とする中国戦線を経験し精神的後遺症を負った青年を登場させ、不貞に起因する家庭の崩壊も重要な要素としてプロットに含めている。絢爛たるトリックなど過去の遺物であるかの如くクイーンは割り切り、謎解き自体は捻りのないささやかなものに抑えている。だが、解明された真相に対する結末の付け方は、明らかに成熟している。「本格派の巨匠」としてミステリ史に多くの傑作を残したクイーンは、衰えたというよりも良い意味で「枯れて」いったのだろう。ミステリとしての醍醐味が薄れたとはいえ、固い信念の下、無実と確信する者のために行動するクイーンの姿が初期よりも魅力を増したことは間違いない。

評価 ★★☆

 

フォックス家の殺人

フォックス家の殺人

 

 

「隣の家の少女」ジャック・ケッチャム

これまで少なからずの小説を読んできたが、この作品以上に嫌悪感を覚えたフィクションはなかった。とはいえ、著者の筆力は大したもので、非道の行為を延々と単純に描いただけのストーリーを最後まで読ませる力量は認めざるを得ない。が、同時に相当の忍耐を強いる。主人公を敢えて「非力」な少年に設定し、眼前で繰り広げられる狂気のさまを、傍観者という極めて卑しい立場に置いたまま延々と見せ続けるのだが、それは読者自身を卑劣な側に「同化」させ、共犯関係へと陥らせることとなる。導入部で苦痛の度合いについての意味有り気な語りがあるのだが、それが読者に対する問い掛けであったことに中途で気付く。つまりは、拷問にも匹敵する精神的な苦痛にどれだけ耐えられるか、妙な表現だがマゾヒズムのキャパシティを「本作を読む」ことによって試しているのである。どんなホラー小説でも、救いの兆しや、束の間の休息を含めるものだが、ケッチャムは甘え無用とばかりに読者の期待を裏切り続ける。

中盤から過激さを増す醜悪なサディズムは、一切の救済を退ける。終盤に至ってようやく訪れる主人公の柔な改悛でさえ、もはや手遅れという罪悪感を助長するものでしかなく、無垢な少女を狂人がひたすらに蹂躙するという最悪なプロットは、肥大した不快感を残して暴力的に閉じられる。
例によって、スティーヴン・キングが絶賛しているのだが、恐怖の中でこそ輝きを放つ人間の尊厳や情愛を描いた物語(逆に言えば、それこそ大半の読者が望む)しか書けないキングにとって、ある意味別次元の書き手であるケッチャムの存在は驚異なのだろう。だが、人間の生理的な厭忌のみを刺激する本作品は「問題作」ではあっても、「娯楽作」ではない。また、常人には推薦しない方が無難だろう。後で恨まれることは間違いないであろうから。

評価 ★☆

 

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)