海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「コリーニ事件」フェルディナント・フォン・シーラッハ

短編集「犯罪」によって一躍名を馳せたシーラッハ初の長編で2011年発表作。戦後ドイツが抱える国家的/人道的諸問題を鋭く抉り出した本作は、現代ミステリとしてよりも戦争文学/社会小説としての読解を求める。シーラッハ自身の祖父が紛れもない戦争犯罪者であったという重い事実が、本作構想の基軸となっているようだ。その忌まわしい血縁/トラウマの克服、さらに弁護士/小説家として「どう使命を果たすか」という実存的な動因も、同時に感じ取れる。

物語の中心となるのは、ドイツ人の元実業家を惨殺したイタリア人コリーニの動機を巡る法廷劇だが、主眼は戦争と人間、その罪と罰の根源的な問い直しにある。主人公の若い弁護士は著者の投影であり、随所で挿入する回想シーンもシーラッハの追懐をもとにしたものなのだろう。敢えて激情を押し殺し、簡潔に情景を描いていく筆致は、悔恨を背負いつつ生き続ける人々の心象を逆に生々しく浮かび上がらせ、より一層悲劇性を高める効果を生んでいる。

登場する人物らは、須く過去の戦争に呪縛されている。時とともに血の記憶が薄れていく中、大半は口を閉ざし忘却を試みる。だが、愛する人を無惨にも奪われた者にとって、戦争は過去のものではない。人を殺めることは、戦争という異常な状況下であれば許されることなのか。さらに、その復讐を為した者の罪を咎めることはできるのか。
戦争犯罪/責任の問題は「終わった」こととして処理されていいのか。
物語は、幾つもの劇的な展開を経て、ひとつひとつ「盲点」を洗い出し、積み上げていく。衝撃的な告発とともに訪れる唐突な幕引きは、決して問題の解決を投げ出しているのではなく、「今ここから」再び歩み始めなければならない、というシーラッハの意志の表れなのだと感じた。


以下は余談である。

「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」
降伏から40周年となる1985年5月8日、ドイツ連邦共和国の第6代連邦大統領ヴァイツゼッカーによる有名な演説の一節だ。この日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と定め、これからの国家と人々のあるべき姿を格調高い言葉で述べている。
例え戦後生まれであっても、過去の罪過との関係性を否定することはできない。むしろ、より真摯に向き合い、事実を知り、過ちを共有し、姿勢を正さなければならない。その上でこそ、世界の人々との平和/共存について共に考え、未来へと歩む「資格」を持てる。この崇高な志/構えは万国共通であり、戦争の惨禍を後世へと伝える義務さえ有しているといえる。

ナチス・ドイツは、近現代史に於いて最も邪悪な個人崇拝/独裁国家のシステムを構築したが、虚栄は崩れ、無辜の屍の雪崩に呑み込まれて自壊した。暴力による支配そのものである「非人間的システム」の破綻は、同時に人類の叡智と呼ばれるものが如何に脆弱で無力であったかをも白日の下に曝した。
排他的ナショナリズムを歓迎/熱狂し陶酔したのは、嘘偽りなく大多数の国民であり、己らの為したことに慄然としたのは、銃弾飛び交う街の中でハーケンクロイツが灰と化すのを眼前にした時である。目を閉ざしても、地獄が消えることはない。ならば、しっかりと目を開いて現実を直視し、記憶に刻みつけ、その罪を問い続けること。それ以外に未来は無いと悟るのである。

戦後のドイツが歩んだ道には、一部の狂信的右翼は別として、国家も国民も戦争責任/戦争犯罪の問題と向き合い、再びの過ちを繰り返さないという信念/決意が深く刻み込まれている。
これは、己らの戦争遂行の巨悪/罪を隠蔽し、国民に「一億総懺悔」という曲解の極みとなる卑しい虚妄を押し付けてきた日本とは大きく異なる。
敗戦から70年、ドイツと日本を比較した場合、政治/司法/教育/思想などに於ける「過去の清算」の隔たりが近年益々拡がっていることは言うまでもない。

評価 ★★★★

 

コリーニ事件

コリーニ事件

 

 

「殺しの挽歌」ジャン=パトリック・マンシェット

マンシェット1976年発表作。情感を排し客観描写に徹した筆致は乾いているが、殺伐とした寂寞感の中でさえ叙情が滲み出ている。文体でいえば、ハメットを継承しているのは、本家アメリカではなくフランスの作家たちだろう。新しい文学の潮流として捉えたハードボイルドの世界を再構築し、よりスタイリッシュなロマン・ノワールへと再生し、熟成させている。

主人公は大企業に勤める中年サラリーマン、ジョルジュ・ジェルフォー。ウエストコースト・ジャズを好む元左翼活動家で、今は安寧とした生活を送っている。或る商談からの帰り、真夜中の高速道路で大破した自動車から瀕死の男を助ける。その身体は数発の銃弾を浴びていた。ジェルフォーはトラブルを避け、搬送した病院で名乗らぬまま帰宅する。だが、闇に潜んで二人が会話する様子を見ていた殺し屋は、ジェルフォーの車のナンバーを書き留め、黒幕に報告していた。口封じの標的となった男の日常は、一夜にして様相を変えた。
旅先で二人組に襲われたジェルフォー。寸前で難を逃れ、家族には知らせずに姿を隠すが、殺し屋らは執拗に痕跡を追ってきた。やむなく反撃へと転じ、一人を殺害。ジェルフォーは逃走の途上、乗り込んだ列車で浮浪者に身ぐるみ剥がされ、見知らぬ場所で放り出される。

このあと物語は意外な方向へと流れる。迷い込んだ山中で奇しくも出会った退役軍人の家に身を寄せるのだが、その期間は実に半年以上に及ぶこととなるのである。家族には一切連絡をとらず、老人と共に狩猟生活を送り、世捨て人同然となっていく。つまり、前半のマンハントを強引に停滞させ、物語は一気に変転するのである。しばらくして、病んでいた老人は死に、遺産相続人となる孫娘が訪ねてくる。ジェルフォーの滞在は続き、やがて娘と逢瀬を重ねていく。その間も相棒の復讐を狙う殺し屋が近づきつつあった。凄まじい襲撃を受けたジェルフォーは、再び殺戮の闇へと引き戻される。

全てを終え、家族のもとへと帰ったジェルフォー。それまでの出来事を黙して語らず、何事もなかったかのように日常へと戻る。そして冒頭と同じように車に乗り込み、高速道を疾走する。飢えたような眼に宿るのは、新たな冒険への渇望に他ならなかった。

中盤での意図的な破綻は、苛烈な暴力を経て非日常の中にカタルシスを覚えた男の変貌を描く上で不可欠な展開だったのだろう。例え、理不尽な私闘であっても、その日々は「生きる」実感へと直結した。男にとって、この危険極まりないアヴァンチュールは、解放感と魅惑に満ちていたのである。ジェルフォーの言動はドラスティックで虚無的だが、過去に正義を標榜し挫折した「闘士」としてのセンチメンタリズムも表出する。それは、マンシェット自身にも通じるものであり、現在の有り様に飽きたらず、日常の「破壊」を創作の中で試みたのだという解釈も出来る。深読みをすれば、ジェルフォーは著者の分身なのであろう。

評価 ★★★★

 

殺しの挽歌

殺しの挽歌

 

 

 

「トランク・ミュージック」マイクル・コナリー

1997年発表ハリー・ボッシュシリーズ第5弾。デビュー作以降は、己の過去と対峙し、そのトラウマを清算/払拭するための私闘を主軸としていた。母親の死を扱った前作「ラスト・コヨーテ」でそれも一段落つき、本作からは、殺人課刑事として犯罪者を追い詰めることに主眼を置いた警察小説の色を濃くしている。いわば、シリーズは第二期へと入ったのだろう。

ハードボイルドのテイストが失われているわけではない。だが、一匹狼ではなく、捜査チームを取りまとめる長としての責任を優先するボッシュの姿に、正直物足りなさも感じた。時に暴走する危うさを秘めた孤高の男といったイメージは薄れ、サブストーリーとなる元恋人への執着など、ボッシュから孤独の影を消そうという意図が見える。恐らく、そこにはプロットの面白さで勝負したいというコナリーの意欲が表れているのだろう。二重三重に練り込んだ筋立てなど、ミステリとしての完成度がさらに高まっていることは間違いないのだが、マット・スカダーのように急速に精彩を欠いていかないかという危惧はある。

ハリウッド映画界の最下層にいる女優、悪質プロデューサー、蔓延する犯罪組織など、ハードボイルド創生期では馴染みの舞台設定を、現代風にアレンジしているのだが、謎を解く主体が科学的捜査になってしまっているのは、何とも寂しい。本作は中盤まではかなりもたつき、細かく章分けされた後半に至って、ようやくスピード感が増す。相変わらず構成は巧みで、序盤からの伏線も見事なものだが、全体で見れば、シリーズの過渡期的な位置を本作は占めそうだ。

評価 ★★★

 

トランク・ミュージック〈上〉 (扶桑社ミステリー)

トランク・ミュージック〈上〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

 

トランク・ミュージック〈下〉 (扶桑社ミステリー)

トランク・ミュージック〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

「パラダイス・マンと女たち」ジェローム・チャーリン

〝嫉妬する〟殺し屋を主人公にした風変わりな犯罪小説。幕開けのムードは良いものの、プロットはぎこちなく、中途で破綻している。謎解きの要素は皆無、ノワール色も薄い。

舞台はニューヨーク。物語は、その裏社会で繰り広げられる抗争を軸とする。キューバの地を追われた者どもが集う犯罪組織ラ・ファミリア、同じくカストロが追い出したバンディードと呼ばれる密教を母体とする新興ギャング、さらにマフィアと結託し権力を振るう地方検事ら。激化する縄張り争いは、血と暴力と死を必然のものとした。裏組織の隠れ蓑でもある毛皮会社、その副社長の肩書きを持つホールデンの主業は、借金取りと殺しだった。
一撃で天国送りとすることから、パラダイス・マンと呼ばれた男は、殺しの仕事の現場に居合わせた〝豹の目を持つ少女〟を保護する。同時期に有力者の娘が誘拐され、ホールデンは奪還の依頼を受ける。即日一味を抹殺するが、誘拐犯の一人は殺し屋の幼なじみだった。誘拐された女は、眼前の殺戮にショックを受ける様子もなく、やがてホールデンに身を委ねていく。

パラダイス・マンが出会う、さまざまな境遇の女たち。だが、〝ファム・ファタール〟というよりも、俗物的で魅力には乏しい。殺し屋は非情ではあるが、己の情欲には忠実で、見境無く嫉妬する。さらには、展開上不可欠な裏切りに対する復讐を完遂しない。愛する女を再び手にするために、保身に走る冴えの無さ。どうにも、歯痒くキレが無いのである。
殺し屋の一貫性の無さは、犯罪小説に対する著者のアイロニカルな考え方を反映しているのか、それとも〝新感覚〟という体の良いスタイルを押し出しているのか。何れにしろ、スタイリッシュさよりも無骨さが際立つ。

評価 ★

 

パラダイス・マンと女たち (ミステリアス・プレス文庫)

パラダイス・マンと女たち (ミステリアス・プレス文庫)

 

 

「夏を殺す少女」アンドレアス・グルーバー

オーストリアの作家が主にドイツを舞台にして描いたミステリで、児童虐待という重い主題を扱いながらもスピーディーな展開で読ませる秀作。謎解きの要素は薄く、サスペンスを主軸とした捜査小説で、飾らない文章は実直な著者の人格を表しているようだ。
主人公は、やさぐれてはいるが経験豊かな中年男と、才気煥発だがまだまだ未熟な女性という二人。定石の設定ではあるが、中盤辺りまで別々に物語が進行するため、余分なやりとりが発生せず、くどさがないのが良い。真相が明らかとなる要所で二人の追跡行が交差するさまも自然だ。

オーストリア在住で経験の浅い弁護士ヴェリーンは、元小児科医や市会議員らが連続して不可解な状況下で事故死した案件を調査していた。一方、ドイツ/ライプツィヒ警察の刑事ヴァルターは、精神病院入院中の少女らが相次いで不審死を遂げている事件を捜査していた。二人は、丹念な観察力と鋭い直感力によって、隠された事実への足掛かりをつかんでいく。だが、いまだに双方での殺人は続いていた。やがて、過去に小児性愛好の金満家らに拉致され、集団で虐待/性的暴行を受けた孤児らの存在が浮かび上がる。或る一点で結びついた謎解明の手掛かり。宿命的に二人は出会い、志を共有し、行動を共にする。

立ち位置が入れ替わる加害者と被害者。卑劣な犯罪者と哀しい復讐者の実像。果たして、狂っているのはどちらか。ヴェリーンとヴァルター、それぞれの視点で見つめる深層は、悲劇的で残酷性に満ちたものだ。

評価 ★★★☆

 

夏を殺す少女 (創元推理文庫)

夏を殺す少女 (創元推理文庫)