海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「ゴールド・コースト」ネルソン・デミル

有閑階級の衰退を独特のスタイルで描いた才人デミル1990年発表の異色作。
急速に台頭したアメリカ型資本主義社会の恩恵を受け、永らく栄耀栄華をほしいままにした大資産家ら。主人公ジョン・サッターは、その代表的階層となる「ワスプ」の体現者であることを、常日頃から自嘲気味に吐露する弁護士だった。妻スーザンも生まれながらの超富裕層に属し、〝超弩級の高級別荘地〟ゴールド・コーストの邸宅を受け継いでいた。広大な敷地内には厩舎を構え、別邸へは馬に乗り移動。だが、実態は、本邸の莫大な修繕費を賄うだけのカネが無く、ステータスシンボルは錆び付き腐食するままにまかせていた。夫婦は刺激に飢え、倦怠と枯渇感に陥っている。
そんな中、サッター家の隣りに、イタリア・マフィアの首領フランク・ベラローサが越してくる。当然、界隈の住人らは戦々恐々となるが、持ち前のシニカルさで渡り合えると踏んだサッターは、「良き隣人」としてギャングのボスと交流を深めていく。ベラローサがもたらすドス黒くも甘美な酔いに身を委ね、サッターは次第に感化される。だが、正気に戻り、酒に沈殿していた「毒」に気付いた時には、何もかもが既に手遅れとなっていた。術中にはまり闇組織へと組み込まれたサッターの人生は、発覚したスーザンの不貞によってひとつの破綻を迎える。

エリートとは名ばかりの俗物らを揶揄するデミルの筆は容赦無い。
裏を返せば、暴力の蔓延る世界でのみ生彩を放つベラローサの虚妄。僅かなひびが入れば、一瞬でカネも名誉も〝愛〟も失う薄氷上のワスプ、サッターの虚飾。一見対称的でありながら、根底にあるマチズモは共通しており、脆くも自壊していく矮小さは、したたかな女の存在によってより際立っていく。

 

世評の高い作品だが、私はそれほど感銘を受けなかった。筋立ては至ってシンプルで、個々のエピソードは印象深い。人物造形も流石の仕上がりである。けれども、やはり長大すぎる。主人公のシニカルな語りは、社会批判よりも自己憐憫に費やされているため、世界観も終始閉じられているという印象しかない。停滞した物語は終盤で一気に動き、退廃的ムードも高まるが、そこにカタルシスは無く、憐れな者どもの凋落ぶりのみが浮遊する。

アメリカ独自の歴史、風土、気質などを踏まえ、読解/実感へ結び付くだけの素養が、私には不足しているのだろう。

評価 ★★★

 

ゴールド・コースト〈上〉

ゴールド・コースト〈上〉

 

 

 

ゴールド・コースト〈下〉

ゴールド・コースト〈下〉

 

 

「スカイトラップ」ジョン・スミス

1983年発表、ジョン・スミスの処女作。翻訳本表紙カバーは、冒険小説ファンの心をくすぐる安田忠幸の装画。だが、素晴らしいのはそこまで。結論から述べれば、滅多にないほどの駄作なのである。その分インパクトがあり、逆の意味での面白さはある。版元の宣伝文句ではギャビン・ライアル張りのスリラーと褒めちぎっているらしいから、著者はパロディーではなく、大真面目に「スリラー」を書いたのだろう。実際、数箇所で失笑したが、笑い転げるようなシーンは無かった。
では、いったい何が駄目なのか。

まず、航空冒険小説で必要不可欠な「大空を駆け抜けるロマン」が微塵も味わえない。主人公は、自らの操縦ミスにより同乗していた副操縦士ら二人を死なせ、重度の飛行恐怖症となったパイロット、スティーヴ・リッチー。数年後、未だに「飛べない」操縦士であることをわきまえず、アフリカのマラウイからイスラエルまで、双発機ドルニエを運ぶ仕事を請け負う。単に客として搭乗した飛行機の中でも極端に脅え、常に酒が手放せない何とも頼りない男でありながら、眼前のカネに目が眩み、安々と引き受けるのである。
やがて、依頼主の目的は南アフリカの企業から強奪したダイヤモンドの密輸だったことが分かる。その秘密を知るタイピストが殺されるのだが、驚くべきことに、その女はリッチーの元恋人だった。英国で別れた女が、遠く離れたマラウイの飛行機販売会社に雇われていたというご都合主義。リッチーは、悠々自適に暮らす飛行士仲間の男と結託し、密輸の途上でダイヤモンドを掠め取る姑息なプランを練る。過去、一度は愛した女の復讐を遂げようという感情など端から湧かず、以降はカネに執着し、さっさと飛行士の免許を返して、ヨーロッパの避暑地で余生を暮らすことを夢見るのである。
だが、いざドルニエに乗り、怖々と操縦桿を握り締めたまではいいが、つきものの悪天候でひたすらにパニックに陥る。自信喪失から立ち直るどころか、早く飛行機を降りたくて身悶えるという醜態を曝すのである。しかも、中途で間抜けにも密輸品を載せた飛行機を「悪漢」どもに奪われてしまうという始末。以後、虚脱するエピソードが続く。

肝心の飛行シーンは全体の3分の2辺りを過ぎてから。とにかく滑稽なほどびびりまくる情けない男に、感情移入など出来るはずもなく、斬新な「ヒーロー像」のみが植え付けられていく。
冒険小説としての評価以前に小説としての完成度が低い。執筆当時は現役パイロットだったらしいが、飛行機に対する愛情も、刺激的な操縦シーンも、空への憧れ/冒険心が一切伝わらないのは致命的だ。翻訳にして350ページだが、本来ならば見せ場となる飛行シーンは僅かで、しかも魅力に欠けている。殆どがダイヤモンド密輸に関わる悪党らとのやりとりに費やしているのだが、物語は全く進展しない。ミステリ仕立てにしているのは良しとして、謎解きは途中で放り出しており、ぶつ切りの構成のために、スミスが何を骨子として描こうとしたのかが皆目不明となっている。
要は作家として素人であり、修練無きままに書き殴った印象しか残らない。致命的なのが主人公の設定で、撤退した俗人ぶりを発揮し、倫理観に欠け、含蓄のある台詞や空の男としての矜持が無い。下手な冒険小説でも本作に比べれば良作として評価を上げることだろう。

冒険を通して恐怖心を克服する、それこそ描くべきテーマではないか。

「幸運」にもスミスの別の作品が翻訳されているようなのだが、それこそ怖くて手が出せない。

評価 ☆

 

スカイトラップ (ハヤカワ文庫 NV (386))

スカイトラップ (ハヤカワ文庫 NV (386))

 

 

 

「警部、ナチ・キャンプへ行く」クリフォード・アーヴィング

米国の大富豪ハワード・ヒューズの自伝捏造によって世間を騒がせた異端の作家アーヴィング1984年発表作。その経歴とは裏腹に、本作はナチス強制収容所を舞台に、戦時下での「正義のあり方」を問い直す、実直で揺るぎない信念を感じさせる力作である。

原題は「ジンの天使」。ジンとは、ドイツ占領下のポーランド内にある架空の町を指し、ナチスは1日に2千人近くをガス室送りにする強制収容所を置いていた。極めて「機能化」された地獄のシステムに組み込まれ、同胞抹殺の「補助役」となり、目前の死を辛うじて回避していたユダヤ人たち。その集団の中で不審死が相次ぐ。傍には不可解なメモが残され、正体不明の殺人者は「死の天使」と呼ばれた。無秩序が加速し捕虜のコントロールが利かなくなることを恐れた所長は、事態収拾のため、犯人の炙り出しに着手。ベルリン刑事警察から派遣されたのは、道理無き戦争を忌避し、未だナチスの非人道的犯罪の実態を知らぬパウル・バッハ警部だった。

ホロコーストによって屍の山が築かれるすぐ隣りで、連続殺人を捜査するという暗鬱なるアイロニーと堕落した人倫を補完するニヒリズム。囚われの身でありながらもユダヤ教の特殊な戒律を守ろうとする人々。自国の蛮行に対して反発しながらも反逆者の烙印を恐れて命令に従うバッハだったが、真摯に捕虜らと向き合い、捜査を続けていく中で、ナチスの異様で異常な精神崩壊/国家の末路を直視する。
やがてドイツ国内のゲットーで反乱が起こり、人員整理のため、ジン強制収容所の閉鎖が決定される。だが同時期にジンの捕虜らは、武器と金を調達した上で武装隆起の計画を進めていた。バッハは地道な捜査によって「死の天使」の名を突き止めるが、事態はすでに後戻りできないまでに狂い始めていた。

終局での凄まじい高揚と破滅。ドイツ人としてではなく、一人の人間として「正義」を全うしようとしたパウルの非業。戦争下に於ける非人道/残虐性の末期を重苦しい虚無感とともに描き切ったクライマックスは、本作が優れた戦争小説でもあることに気付かせる。
ユダヤ強制収容所での反乱は、実際に300人が脱走に成功した(直後にその殆どが命を落としている)というソビボルをはじめ、幾つか例がある。アーヴィングは事実と虚構を巧みに織り交ぜながら、余韻の残る劇的な物語に仕上げている。

評価 ★★★★

 

 

「地獄の家」リチャード・マシスン

「幽霊屋敷」を舞台とするモダンホラーの先駆であり、ジャンルの開拓者でもあったマシスンの存在を知らしめた一作。
残虐非道の限りを尽くした狂人の霊が取り憑いた家。物理学者夫婦と霊媒師の男女という相反するチームが、その実態を解明すべく乗り込む。想像を絶する怪奇が相次ぐ中、超常現象を電磁パルスによって「解釈」しようと試みる学者は当然のこと挫折。その妻は「憑依」されて死との境界を彷徨う。霊媒師らは「交信」には長けているものの、対抗手段を持たず非力。跋扈する悪霊は、もてあそぶように4人をいたぶっていく。

文章は簡潔でテンポは良い。ただ、今読めば古めかしく感じ、物足りさが残るのは仕方がないことか。オカルトにはもう少し妖しさが欲しい。ミステリの片隅を占めるホラーは、日本でも一時期量産されたように比較的創作しやすい分野といえるが、相当な実力を備えていなければ、完成度を高めることは難しい。化け物や超常現象を適当に散りばめれば良しではなく、実感として得られる恐怖を読者に与えるためには、かなりの技量がいる。モダンホラーは「怖くない」という定評は、一部の例外を除いて誤りではなく、すでに古典的な本作においても然りなのである。

評価 ★★

 

 

「声」アーナルデュル・インドリダソン

孤独な生活を送っていたドアマンがホテルの地下室で惨殺される。
かつて男は、美しい歌声で人々を魅了したことがあった。だが、避けて通ることのできない変声のため、スポットライトを浴びた初舞台で、一瞬にして「ただの少年」へと変わったのだった。厳しく指導し息子に期待を懸けていた父親。失望と嘲笑、果ての転落。以降の人生はもはや「余生」に過ぎなかった。人々との関係を絶ち、人畜無害となっていた男を殺害した動機とは何か。レイキャヴィク警察の捜査官エーレンデュルは、私生活でのトラブルを抱えつつも、濁りきった事件の底に沈殿する鍵を求めて、再び水中深くへと潜り込んでいく。

インドリダソン翻訳第三弾。「家族」を主題とする著者の主張がより明確となり、前面に出てきている。本作では、親と子の関係性を問い直す三つのケースを扱い、マイノリティに関わる現代的な問題も絡めている。その中心となるのは、世捨て人同然となった男の半生なのだが、挫折の容量は重いとはいえ、人間の業に思いを馳せるような悲劇性は高くない。捜査を主導する主人公エーレンデュルの家族関係とのリンクを一層深めているため、軸となる事件自体の強度が弱められた感じだ。テーマを深めるためのメッセージ性が過多となり、肝心の物語が薄くなってしまっている。前2作「湿地」「緑衣の女」に比べてプロットの構成力も弛緩しているのは残念だ。

評価 ★★★

 

声 (創元推理文庫)

声 (創元推理文庫)