海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「ラスト・コヨーテ」マイクル・コナリー

ターニングポイントとなるハリー・ボッシュシリーズ第4弾。主人公はハリウッド署殺人課に所属する一刑事に過ぎないが、コナリーは群れること嫌う「一匹狼」的な存在として描いてきた。
本作は、第1作から伏線としてあったボッシュの母親の死の真相を追い求める物語で、これまで以上の私闘を繰り広げている。上司への暴力行為で休職処分となったことを機に、30年以上前の未解決事件を再捜査するのだが、埋もれた過去から浮かび上がってくる事実は、当然のこと痛みを伴う。娼婦であるがために引き離された息子と再び暮らすことを夢見ていた母親の思いを知るほどに、ボッシュは殺人者への憎しみを深める。
事件の性質上、全編がボッシュの単独捜査となり、より一層孤立感は深まっている。途上でボッシュの闇とも共鳴する女との情愛も挿入しているが、ロマンスの色合いは随分とくすんでいる。終盤において、愛する者の死さえも無常なる社会では泡沫にしか過ぎないことを、悔恨とともにあらためて悟るボッシュの姿が哀しい。

本筋とは直接関係ないが、ボッシュが野性のコヨーテと出会い、荒廃した自らの心象をダブらせるシーンは、静謐ながらも熱い心根を持つ孤独な男の心情を見事に表現している。恐らく生息地域による設定であろうが、強靱で孤高の力強さを想起させる狼ではなく、共通する部分はありながらも、より小型で寂寥感のあるコヨーテをモチーフにしたところに、コナリーのこだわりを感じる。
生存環境を奪われていくコヨーテ。闇に逃れつつも、蝕まれた世界を凝視する眼光。生き続けるための原動力となる餓えと渇き。そのイメージは、卑しい街で不条理な「死」と向き合い続けるしかない一人の男へと繋がっていくのである。

現代ハードボイルドの新たな地平を開くパイオニアとしてのマイクル・コナリーの存在意義は大きい。

評価 ★★★★

 

ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)

ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

ラスト・コヨーテ〈下〉 (扶桑社ミステリー)

ラスト・コヨーテ〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

「混戦」ディック・フランシス

1970年発表の競馬シリーズ第9弾。フランシスの作品は骨格がほぼ共通しているため、肉付けするプロットの出来如何で面白さが大きく異なる。本作を一言で述べれば「薄い」。雇われパイロットを主人公に保険金詐欺の絡む事件をメインにしているのだが、終盤へと引っ張るエピソードが乏しいことに加え、姑息な悪事を働く悪玉が小粒なため、さっぱり盛り上がらない。シリーズの〝売り〟といってもいい主人公を痛めつけるサディスティックな展開も、己の甘さ/弱点を克服し窮地を乗り越えていく最大の見せ場も、お粗末なものだ。同じく〝B級〟とはいえ、筋立てが楽しい「重賞」(1975年)のような作品もあるため、この時フランシスは迷走していたのだろう。危機に陥った飛行機と管制塔とのやりとりで、いかにも「英国紳士」然とした冒険シーンもあるのだが、敵役のショボさのみが目立ち、全体的に味気ない作品になっている。生業は異なるとはいえ、イメージ的には画一的なシリーズの主人公たちを引き立てるのは、魅力的な悪役あってこそだと、あらためて感じた。

評価 ★

混戦

混戦

 

 

「デッド・ゾーン」スティーヴン・キング

キング1979年発表の初期作品。ホラーのテイストは薄く、特殊能力を持つが故に苦悩する孤独な男の半生をヒューマンタッチで描く。主要な登場人物の日常を細かく積み上げていく手法は相変わらずだが、本作ではややテンポを損ねているきらいもある。主人公が〝異能者〟となり人生が変わりゆくさまを丹念に追っていく長い長い第1部は、終盤の劇的な展開へと導くためには必要な分量だったのかもしれないが、構成の密度は弱まっていると感じた。

手を触れることで、相手が秘匿することを知り、未来を予知する。決して売名/野心を目的とせず、殺人事件を解決し、他人の生命に関わる事故を未然に防いだとしても、常人を超えた力に人々は畏怖し、敬遠していく。空想的なヒーローは漫画や映画の世界でこそ親しまれる。現実社会で隣に居座る〝超人〟はどこまでも不気味な化け物でしかない。そのペシミズムが全編に横溢し、報われることのない主人公を追い詰めていく。ラストに於いて、誰のためでもなく自分の信念で事を成し遂げた男の最期が哀しいカタルシスに満ちているのは、死こそが呪縛から解放されるための鍵であったことを無情にも示すからだ。

主人公のジョン・スミス(ミドルネームなし)という名には、「誰もがスミスに成り得る」という含みを持たせているのだろう。中盤までの暗鬱なエピソードの数々は、読者一人一人が己自身に置き換えて、自分であればどう乗り越えるかを迫る。もし、眼前の男に世界を滅ぼしかねない狂気を「視た」時に、人々を救うための行動を起こすか否か。スミスは自らの余命を知り得たが故に、己が「正義」と信じる結論を導き出すが、果たして「キミならどうする」とキングは問い掛ける。
結末において、損傷した脳が異常な力を発揮した要因を強引ながらも〝科学的〟に解明してみせるのだが、キングは本作で〝非科学的〟〝神的〟なものを極力排除しようとした跡がある。その象徴/対照となるのは、本作唯一のホラーパートともいえる邪教に溺れ精神が崩壊していくスミスの母親にまつわる挿話である。
人間を「超えてしまう」ことの怖さ、その能力を持つ者への偏見などのテーマを、キングは次作の「ファイアスターター」でさらに掘り下げる。

ちなみに、クリストファー・ウォーケン主演の映画化作品は、枝葉を刈り取ったストレートな構成と、主人公の凍てついた心象の映像表現が鮮やかで、記憶に残る秀作だった。

評価 ★★★

 

デッド・ゾーン〈上〉 (新潮文庫)

デッド・ゾーン〈上〉 (新潮文庫)

 

 

デッド・ゾーン〈下〉 (新潮文庫)

デッド・ゾーン〈下〉 (新潮文庫)

 

 

 

 

「デス・コレクターズ」ジャック・カーリイ

モビール市警カーソン・ライダー刑事シリーズ第2弾。デビュー作「百番目の男」での〝変態的〟な真相が大いに受けて話題となったが、カーリイの真価が問われた本作も、ミステリファンには概ね好評だったようだ。だが、筋の面白さで読者をぐいぐいと引っ張っていった前作に比べ、全体としてそつなくまとまっており、やや物足りなさも感じた。殺人者に関わる凶器や所有物を収集するキワモノたち、所謂デス・コレクターを題材として扱っているのだが、彼らの異質ぶりや狂気を、アイロニカルにオブラートに包んで描写しているため、単なる俗物としての印象しか残らない。カーリイは単に素材として使っただけだろうが、偏執狂的な収集家らの異常な世界をより掘り下げれば、さらに厚みは増していただろう。また、プロットの核となるサイコキラーが遺した「病的な絵画」を巡るやりとりにおいて、肝心の絵の〝凄まじさ〟が文章を通して伝わってこないのも、本作に対する吸引力を弱めた。

本シリーズの最大の〝キモ〟は、要所要所で登場する主人公の実兄にして連続殺人者ジェレミーの存在なのだが、サイコキラーの〝定型〟から外れることがないとはいえ、やはり情景を引き締める効果を持っている。トマス・ハリスが「羊たちの沈黙」で創造したハンニバル・レクターの役割を近親者に移し替えたカーリイのアイデアが光っており、同系ミステリの換骨奪胎で成功した稀なケースだろう。

余談だが、翻訳では第1作目から一人称に「僕」を当てているのだが、未成年ならともかく、大人の刑事に相応しいとはいえない。本シリーズに限らず、〝未熟〟〝弱さ〟のイメージを植え付ける「僕」を使った翻訳物は、個人的には敬遠している。

評価 ★★★

 

デス・コレクターズ (文春文庫)

デス・コレクターズ (文春文庫)

 

 

「大洞窟」クリストファー・ハイド

淀みなくストレート。冒険小説の神髄をみせる一気読みの傑作。派手な活劇を排し、培われた経験と研ぎ澄まされた直感、結実する智恵の連鎖によって、数多の窮地を脱し、ひたすらに生還を目指す者たちの冒険行を活写する。ハイド1986年発表。今だに冒険小説ファンに読み継がれている名作でもある。

ユーゴスラヴィア・カルスト台地の大洞窟。遥か4万年前に描かれたネアンデルタール人の壁画発見により、国際調査団が派遣される。だが調査中に発生した地震のために洞窟が倒壊し、著名な考古学者や助手らが閉じ込められる。漆黒の闇の中、微かな灯火を頼りに地底から抜け出す穴を探り、肉体を極限まで酷使するケイビングで活路を開く。揺らぐ理性と野性の狭間、眼前を力強く照らす根源的生存本能の命ずるまま、歩み続け、光を求め続ける。
物語には、隠された陰謀も邪悪な裏切りも強大な敵も存在しない。地獄巡りの先に待ち受けるものとは、土砂流、水没洞、大瀑布、毒虫など、未曽有の恐怖と行く手を阻む障壁のみ。閉所と闇、欠乏と餓えに挫かれていく希望。極限的状況下で脱落する者、狂気へと墜ちゆく者。次々と人命が奪われていく中で、いつ果てるともしれない死闘を繰り広げる。

未知の世界が拡がる大洞窟で展開する究極のサバイバルが本作最大の魅力だが、予測不能の困難に協力して立ち向かう人間ドラマとしても充分読み応えがある。中でも、ストーリーが進むにつれて中心人物として一行を率いることとなる日本人の地質学者・原田以蔵の造形が素晴らしく、ハンス=オットー・マイスナーの傑作「アラスカ戦線」に登場した軍人・日高を彷彿とさせる。日本人に対するエスプリ的な理想化がやや過剰な面もあるが、時に太古の人間と呼応し死地を脱するエピソードは本作に深みと安らぎをもたらし、中盤からの主軸として動いていく。

終盤に向かうほど息苦しさは増す。そして、全てを越えた先で僅かな生存者と共に味わう光の美しさ。恐らくハイドはこのクライマックス・シーンを描きたいがために本作を著したのではないだろうか。

評価 ★★★★★

 

大洞窟 (文春文庫)

大洞窟 (文春文庫)

 

 

「皇帝のかぎ煙草入れ」ジョン・ディクスン・カー

「アリバイ崩し」の傑作として名高い本作だが、精緻なトリックよりも、男女の愛憎や金銭でのいがみ合いなど、人間の泥臭く生々しい修羅場を盛り込んだ〝ドラマ〟仕立てのストーリー自体が面白い。部外者であるはずの探偵自らも邪心を起こし、事件関係者らのもつれた痴情に加わってしまうという「厳格な本格」を〝脱線〟したラストには、謎解きのスリルのみならず、娯楽性の高い筋書きを重要視したカーのユーモア感覚/異才ぶりが表れている。
勘の良い読者なら、序盤の流れで犯人の目星は凡そつくだろうが、幾重にも捻りを加えたプロットは、読者の甘っちょろい推理を引っ掻き回す。綿密に練り上げたはずの殺人計画は、実行犯さえも意図せぬ事態によって、さらに捩れ、迷宮へと嵌まり込んでいく。雑多な下働きの登場人物であろうとも、しっかりと本筋に絡める仕掛けの見事さは、やはり巨匠だけのことはある。
1942年発表でありながら、科学的捜査は別として些かも古びていないのは、機械的な推理物では飽き足りなかったカーの小説家としてのプロ意識が成せた技だろう。

評価 ★★★★

 

皇帝のかぎ煙草入れ【新訳版】 (創元推理文庫)

皇帝のかぎ煙草入れ【新訳版】 (創元推理文庫)

 

 

「モルグの女」ジョナサン・ラティマー

酔いどれ探偵ビル・クレインをはじめ、一癖も二癖もある登場人物たちの破天荒ぶりが楽しい1936年発表作。ハードボイルドの要素は薄く、スラップスティックすれすれの展開だが、不可解な謎の提示などミステリの仕立てはしっかりとしている。テンポの良い会話、情景ごとの印象的なエピソード、大団円に向けての盛り上げ方など、映画脚本家としても活躍しただけあってラティマー流石の筆致である。

真夜中のモルグから身元不明の女の死体が盗まれる。抵抗したらしいモルグの番人も殺された。依頼を受けた私立探偵のクレインが、失踪した娘の身元確認のために訪れた直後のことだった。クレインは自身の嫌疑を晴らすが、対立する大物ギャングのボスらが「俺の女をどこに隠した」とクレインを追い掛け始める。消えた女の死体を探すために探偵社からクレインの仲間が駆け付けるが、酔っ払う機会は更に増え、女の正体は二転三転し、事態は益々混乱を極めていく。

雑多な風俗が入り乱れるアメリカ1930年代のムードが書き込まれ、舞台となるシカゴの街も明るい色調で描かれている。様々に様相を変えた正体不明のモルグの女を巡る謎は、クレインがラストできっちりと解き明かす。オフビートでありながらも、ミステリの定石を踏まえた職人技が冴える。

評価 ★★★★

 

モルグの女 (1962年) (世界ミステリシリーズ)

モルグの女 (1962年) (世界ミステリシリーズ)

 

 

「魚が腐る時」マシュー・ヒールド・クーパー

所謂「ケンブリッジ・ファイブ」を題材にした1983年発表作。

舞台は1951年、ソ連の二重スパイから英国内要職に12人の工作員が潜入していることを掴んだ外務省次官ストラングとSIS長官メンジーズは、公けに暴露されて失墜することを恐れ、或る秘策を練る。同時期に反政府ポーランド人グループから「カティン虐殺」がソ連軍によるものという証拠がもたられていた。第二次大戦中、カティンの森で1万5千人にものぼるポーランド人将兵らの死体が埋められているのが発見されたが、ソ連は関与を否定し、ナチス・ドイツに責任転嫁していた。折しもポーランド情勢は不安定で、この事実が明らかとなれば、これを機に衛星国から脱する可能性があった。ストラングらは自国政府には隠密でソ連と直接裏取引を試みる。虐殺の公表を控える代わりに、ソ連スパイの存在もなかったことにしろという脅しである。独裁者スターリンは怒り狂い、強引な後処理を秘密警察長官べリアらに命ずるが、敵対する陸軍情報部のオルロフが交渉の窓口として選任された。一方、ストラングの私設秘書で正義感の強いペラムは、カティン虐殺の事実を知り単独行動に出る。ペラムの動きは取引の破綻を招くため、メンジーズはソ連側に「処理」を依頼。だが、その時オルロフは意外な動機でペラムに接触していた。

長々と前半までの大筋を綴ったが、アメリカで不遇の扱いを受けていたCIAの思惑も絡み、事態は不穏な空気の只中で動いていく。終盤にはペラムとオルロフによる逃避行が描かれているのだが、堕落した権力者の腐り切った保身の足元で崩壊していく人間らの脆さと虚しさを無常な世界観の中で描いている。特筆すべきは、スターリンの狂気を描いたシーンで、凄まじいまでのリアリティで迫ってくる。

評価 ★★★

 

 

魚が腐る時 (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)

魚が腐る時 (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)

 

 

「サンドラー迷路」ノエル・ハインド

1977年発表のスパイスリラーの秀作。二重三重に仕掛けられた謎、緻密な伏線、終盤で畳み掛ける種明かし、苦い結末など、捻りの利いた構成で唸らせる。ハインド32歳での執筆と知って驚くが、多くの登場人物や複雑なプロットの展開がやや整理しきれていない点はあるものの力技で読ませる。

題材となるのは紙幣偽造によって敵国の経済混乱を目論んだナチスの「ベルンハルト作戦」だが、本作では偽札造りの「名人」が連合国と枢軸国両方で暗躍していたという設定。大富豪でもあったその男サンドラ―の娘として遺産継承者を名乗り出たレスリーが、同家の弁護士だった父親を持つ主人公ダニエルズを訪ねるところから物語は始まる。二重スパイでもあったサンドラ―は戦後に米国内で殺害されていた。だが女は、父親は今も生きていると告げ、その正体を隠すために妻と娘を殺そうとしたのだという。ダニエルズは調査を開始したが、やがてレスリーという人物も既に死んでいることを知る。背後に見え隠れするのは、サンドラ―を巡る大国間の陰謀であり、ダニエルズ自身にも関わる闇の歴史だった。そして屈折した過去へと遡る巨大な迷宮の入り口が開く。

登場する人物のほぼ全てが、狙いを明かさず正体を隠したまま行動するため、読み手は混乱するのだが、ミステリならではの謎解きの醍醐味は存分に味わえる。

評価 ★★★★

 

サンドラー迷路 (文春文庫 (275‐16))

サンドラー迷路 (文春文庫 (275‐16))

 

 

「クリムゾン・リバー」ジャン=クリストフ・グランジェ

グランジェ1998年発表作。自身も脚本で参加した映画でも話題となった作品だが、派手さはなく、終盤までは地道な捜査活動に終始する。フランス司法警察警視正ニエマンスと地方警察の警部アブドゥフの二人が別の発端/ルートを経て、一つの事件へと結びつく構成だが、敢えて枝分かれさせた手法がそれほど効果を生んでいるとは思えない。両者の性格、捜査法に極端な違いがある訳ではなく、さらにいえば、猟奇的な連続殺人事件に関わるニエマンスに比べ、単なる墓荒らしに執着するアブドゥフの動機がいささか弱いこともある。プロットの核にあるのは優生学であり、レイシズムなのだが、暗躍するグループが最終的にどのような目標を持っていたのかという重要な説明も抜け落ちている。といっても、謎に満ちた「少年」の真相に迫るアブドゥフのパートが中盤以降サスペンスを高めていく展開で読ませるので、ミステリとしては充分な出来だろう。結末における刑事らの悲劇的なシーンもドラマティックで、余韻を残す。

 評価 ★★★

 

クリムゾン・リバー (創元推理文庫)

クリムゾン・リバー (創元推理文庫)

 

 

「蜃気楼を見たスパイ」チャールズ・マッキャリー

肉を削ぎ落した骨格のみで作り上げた構成だが、読了後に滲み出る哀感が忘れ難いスパイ小説の傑作だ。自身もCIA局員であったチャールズ・マッキャリー1973年発表作。

物語は、或る委員会に提出された工作員の報告、通信文、盗聴された会話の記録、監視報告などの資料、注記によって成り立つ異色の構造だが、通常の小説の形をとらないとはいえ、違和感なく読み進むことが出来、逆にこれこそスパイ小説の根幹に相応しいスタイルだと感じた。

幕開けの舞台は冷戦期1959年のスイス。国際連合の専門機関WROには加盟国から派遣された400名の職員がいたが、多くは擬装を施した情報工作員だった。その中の一人ポーランド人ミェルニクに帰国命令が下るが、或る理由により政治犯として投獄される恐れがあり、亡命することを望んでいた。ミェルニクと親しいアメリカ人のクリストファー、イギリス人のコリンズ、フランス人のブロシャール、そしてスーダンの皇太子でもあるカタールらは、ミェルニクの真意を量りつつ接近する。同じ頃、スーダンでは反政府テロ組織の活動が活発化しており、ソ連から組織の指揮をとるための工作員が派遣されるとの情報があった。クリストファーらは、ミェルニクがその工作員ではないかと疑う。やがて、カタール父親の指示によって購入したキャデラックに乗り国へ帰ることとなる。図らずも同行することとなったクリストファー、コリンズ、ミェルニクらは、スイスからスーダンへの旅を疑心渦巻く中でスタートする。

スパイ小説の真髄である謀略と人間不信、そして裏切り。本作は、その諜報戦の非情さを冷酷なまでに浮き彫りにし、敵味方の区別さえ困難な情況下で、人知れず犠牲となっていく者どもの悲劇を描き切る。原題「ミェルニク調書」が示す通り、物語の中心となるのは風采の上がらないお人好しで頑強な性格のミェルニクであり、この孤独な男を冷徹に見据える他国のスパイとのやりとりが凄まじい緊迫感を作り上げている。影の主人公であるクリストファーの眼を通して語られるミェルニクの焦燥と哀しみが、無情なる結末で倍化し、砂漠の蜃気楼のように現れる覇権争いの不毛を指し示す。

評価 ★★★★★

 

蜃気楼を見たスパイ (文春文庫 (275‐18))

蜃気楼を見たスパイ (文春文庫 (275‐18))

 

 

「27」ウィリアム・ディール

確かな世界観、魅力的な人物設定、分厚い物語の構造、巧妙な語り口など、全てが一級のエンターテインメント作品である。ヒトラー/ナチズム台頭期の不穏な世界情勢を背景とした上質のスパイスリラーであり、終盤での山岳地帯/孤島を舞台とする冒険小説としての要素も秀逸だ。暗鬱な戦争へと突入していく緊迫した情況を描いた中盤までの展開が特に素晴らしく、歴史の断面を鮮やかに切り取り、その只中で翻弄されていく人々の悲劇を密度の濃い筆致で抉り出している。

密造酒の取引で財を成し大富豪として安穏な生活を送っていた米国人キーガンは、混乱の極みにあった滞在先のドイツで、やがて恋人となるユダヤの血を引く女ジェニーと出逢い、その人生が大きく動いていくこととなる。やがて反ナチスユダヤ組織構成員の弟を持つジェニーは、裏切り者によって成す術もなく強制収容所で惨殺され、怒り狂ったキーガンは復讐を誓う。一方、米国が戦争に介入することを恐れていたヒトラーナチス極秘情報組織に命じて、或るスパイをアメリカに潜り込ませていたが、敗戦色濃い戦況を打破すべく密命を実行させることを決意。コードネーム「27」のスパイは満を持して行動に移る。同じ頃、帰国していたキーガンは難を逃れたユダヤ人から「27」の存在と殺されたジェニーへの関わりを知り、潜伏するドイツスパイの狩り出しに着手する。

大筋だけ追えばシンプルなものだが、往時の世相について、歴史的人物を織り交ぜて華やか且つ緊張感に満ちた空気感まで再現しており、書き込まれたディティールは半端なものではない。いわば、主人公キーガンの眼を通して、否応もなく戦争に巻き込まれていく国家/社会/人間の有り様を、或る意味俯瞰的にまとめた作品ともいえる。

 この一冊で作家ディールの類稀なる実力を思い知る傑作である。

評価 ★★★★★

 

27 (上) (角川文庫)

27 (上) (角川文庫)

 

 

 

27 (下) (角川文庫)

27 (下) (角川文庫)

 

 

「殺戮者」ケネス・ゴダード

ゴダード1983年発表で、唯一翻訳されている作品。間近にオリンピックを控えたロサンゼルス近郊の地方都市を舞台に、不可解な警官殺しを発端とする陰謀の幕が上がる。特に主人公を設定せず、一夜にして街全体がパニックに陥っていく情景をドキュメントタッチで描いており、なかなかの力作だ。

 米国内部に根を張るアラブ系のテロ組織の依頼により、冒頭で〝プロ〟のテロリストが海を渡り上陸するのだが、途中で鮫に手こずるシーンを挿入しており、これが皮肉なラストへと繋がっている。警察対テロリストという図式でラストまで突っ走り、とにかく警官らがバタバタと殺されていく。ゴダード自身に科学捜査員としての経歴があるため、捜査活動の細かい描写は的確で、警官らのやりとりもリアリティに富んでいる。不条理な殺戮に激高し、テロリストを追い詰めていく刑事らの執念が横溢する。

 評価 ★★★

 

殺戮者 (扶桑社ミステリー)

殺戮者 (扶桑社ミステリー)

 

 

「ランニング・フォックス秘密指令」ボブ・ラングレー

冒険小説の魅力を凝縮した1978年発表の秀作。大作ではないが、危険な任務に赴くことを厭わない男たちをスピード感溢れる筆致で活写し、やはりラングレーは希少な作家の一人であることを再認識した。

1976年、アフリカの独立闘争に揺れる英国植民地ローデシア(現ジンバブエ)で、現勢力の延命を懸けた秘密指令が発令される。軍情報部長官の独断で北イングランドにあるウインズケール核再修理工場からプルトニウムを盗み出し、原子爆弾入手で母国の情勢を変えようとする目論見だった。英国管理下でプルトニウムは厳重に守られており、近づくことは至難の業だったが、計画を起案したローデシア将校には秘策があり、無謀ともいえる極秘作戦を遂に実行に移した。

過去に秘密を抱えたローデシア将校ホイッティカー、IRA暫定派副参謀長クーガン、実弟をクーガンに殺されたSAS中佐パーカー、英国保安部長官ストレイカーという主要な男四人の行動を中心に、適度なロマンスも加えつつ、粗削りながらもラングレーならではの世界で登場人物が縦横無尽に動き回る。冒険小説ファンの心をくすぐる要素には事欠かず、軽妙なオチも爽やかな読後感を残す。 特に主人公を設定している訳ではないが、ラングレー自身の投影ともいうべき、〝冒険野郎〟ホイッティカーの生気溢れる活躍が本作の読みどころだろう。

 評価 ★★★★

 

ランニング・フォックス秘密指令 (創元推理文庫)

ランニング・フォックス秘密指令 (創元推理文庫)

 

 

「ゴーストマン 時限紙幣」ロジャー・ホッブズ

「21世紀最高の犯罪小説」という売り文句に加え、同業者や批評家の大絶賛が並んでいるが、どうにも精密さと盛り上がりに欠ける作品で、〝天才作家〟などという称賛は逆に嫌味ではないのかと勘ぐるほどだった。この程度のクライムノベルなら、創作時期や時代背景が異なるもののハドリー・チェイスが何作も書いているし、より上質な仕上がりで楽しめる。期待していた分、失望も大きい。私個人と波長が合わなかったと結論付ければそれまでなのだが、全てに於いて中途半端な印象しか残っていない。

まず、登場人物の造形が浅い。主人公は隠語で「ゴーストマン」と呼ばれる役割を担う男で、関わった犯罪の痕跡全てを消しさることが使命となるのだが、その専門稼業の特異性が今ひとつ伝わらない。名うてのゴーストマンだったらしい元女優に師事し訓練の末に第一人者となったという設定だが、その核となるのは、かつらや化粧、声色で別人に成り済ます「変装の達人」でしかないのである。他に何か特殊な才能があるかといえば、指紋が無いということぐらいか。犯罪組織には重宝がられていたが、マレーシアの銀行を狙った大仕事で失策を犯し、男は姿を隠す。その5年後、当時の犯罪計画立案者から「借りを返せ」と呼び出されるというのが発端となる。

男が強要されたこととは、犯罪プランナーが関わった強奪事件の後処理。現金輸送車を狙った計画が漏れていたことに加え、その紙幣には時限式の特殊な爆弾が仕掛けられていた。実行犯2人の内、1人は死亡、1人は重傷を負いつつも金を持って行方をくらます。背後にはギャング同士の抗争があり、これを好機と捉え潰し合いへと転回する様相を見せていた。ゴーストマンが借りを清算するためには、24時間以内に120万ドルの「時限紙幣」を奪回しなければならない。

本作には、さまざまな犯罪の〝天才的〟プロが登場するのだが、彼らの思考/行動から玄人ぶりが伝わることは無い。交互に語られていくマレーシアでの銀行強盗の顛末も、計画自体が穴だらけで予測された危機に対処もできずに破綻しており、ゴーストマンも大した活躍もせず地下に潜る。主人公はタフで頭の切れる男であり、他の登場人物らにも一目置かれる犯罪者としてホッブズは描いているのだが、物語中にそれを納得できるエピソードは無く、違和感がある。読み進めても、主人公の自尊心の拠り所が不明なため、闇組織と真正面から渡り合う姿が滑稽に感じた。

終盤に主人公は麻薬密売組織の小ボスと対峙し啖呵を切るのだが、その手法としてロシアン・ルーレットを選ぶ。これがまた都合良く事が運び、本来なら緊張感を煽るシーンだが、リアリティに欠けている。タネがある訳でもなく、ハナから強運の持ち主であることを結果によって示すだけだ。要はご都合主義が目立ち、ムードのみが先行している。唯一面白いと感じたのは、小道具である携帯電話の大量廃棄。通信手段としてゴーストマンがあらゆる場面で活用しては放り投げていくのだが、これこそ存在を示す痕跡とならないのかと苦笑した。

評価 ★★

 

【追記】著者はこの後、急逝した。若干28歳、まだまだこれからだったに違いない。クライムノベル、久々の新星として期待されていただけに残念だ。

 

 

ゴーストマン 時限紙幣

ゴーストマン 時限紙幣