海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「死よ光よ」デイヴィッド・グターソン

人生の光芒を鮮やかに切り取るグターソン1998年発表作。自らの死と直面した老境の男が、その最後となる「旅」の途上で、様々な境遇の人々と出会い、別れていくさまを情感豊かな筆致で描いている。重い主題を扱いながらも、真っすぐなヒューマニズムを謳い上げ、読後感も爽やかだ。

結腸癌に侵され、余命半年の宣告を受けた男、ギヴンズ。元心臓外科医の73歳。これまで数多くの死と向き合ってきた老境の男は、掛け替えの無い妻にも先立たれ、もう思い残すことは何も無かった。身辺整理をし、連れ添った愛犬2匹を車に乗せて、死に場所と決めた山へと向かう。幸福な家庭を築く娘や孫たちに、後で嫌な思いをさせないため、自らの死は狩猟中の事故に見せ掛けるつもりだった。
米国北西部の茫洋たる山脈。老いた男は二度と帰らないと誓った死への旅路で、或る時は子どもの命を救い、或る時は若者たちの助けを借りる。たった数日の間に積み上げる短くも濃密な解逅は、ギヴンズの心を激しく揺さぶる。逃れられない死を眼前にしながらも、人生の意義について「新たな経験」を通して学び直し、病んだ心身は癒やされていく。

天空の星を眺め、夢まどろみながら、男は足跡を振り返る。
甘美なる少年時代の追想。今は人手に渡ったリンゴ園。切り盛りしていた父親の気骨と優しさ。常に夫を支えてきながらも不治の病によって壮絶な最期を迎えた母親の温もりと美しさ。大義無き戦争で無惨にも殺された兄の英気と無念。
そして、後に妻となるシルヴィアとの甘酸っぱい恋。貧しくも気高い少女との瑞々しい逢瀬のシーンは、短い挿話ながらも、本作の劇的なエピソードの中でも白眉となっている。
やがて看護師となったシルヴィアはヨーロッパ各地の戦場へ、ギヴンズは一兵士としてイタリアへと渡った。敗退し撤退するナチス軍を追い詰める過程で、次々と銃弾に倒れていく仲間たち。
或る日、致命傷を負った友人を担ぎ、後方の野戦病院へと運んだギヴンズは、その後の人生を変える出来事を体験する。既に心肺停止となった戦友を診て軍医は「その男は死んでいる」と告げた。だが、やおら胸部を開き、止まったままの心臓を握り、刺激を与えた。遂には鼓動を取り戻した友人は、再びの生を得る。名も無き外科医が果たした奇跡の蘇生術。軍医は事も無げに言う。「勉強すればできる。聖書物語の何かじゃない」
精神的後遺症を抱えたギヴンズは、シルヴィアと再会し結婚。そして、心臓外科医となった。

末期癌の傷みに耐えつつ辿り着いた先は、男が少年期を過ごしたリンゴ園だった。旅の連れとなった不法就労者の青年と共に臨時雇いとして滞在したギヴンズは、危険な状態で産気付いた妊婦を助ける。死にゆく運命にあった老人は、弱々しくも力強い生命力に溢れた赤ん坊の鼓動を全身で受け止める。生と死、それを照らす光。束の間のふれあいが、老人の過去と現在を繋ぐ糸となり、残り僅かな未来への路を眩いばかりに照射していた。
ギヴンズは、帰るべき場を目指して、もう一度歩み始める。

いずれは誰もが降り立つ「終着駅」で、生きることの喜びと哀しみに思いを馳せる時、いったい何を為し得るか。そのひとつの道標をグターソンは小説という形式を通して示している。
言わずもがなだが、実存的な冒険を通して生き方を根源的に問い直すジョン・バカンの名作「傷心の川」に比肩する純度の高い傑作である。

評価 ★★★★★☆☆

 

死よ光よ (講談社文庫)

死よ光よ (講談社文庫)

 

 

 

「狐たちの夜」ジャック・ヒギンズ

ヒギンズは過去の作家として忘れ去られつつあるが、「鷲は舞い降りた」や「死にゆく者への祈り」が、今後も色褪せていくことはないだろうし、代表作を読めば事足りるという薄い存在でもない。本作のようにいささか強引な筋書きであろうとも、独自に構築してきた〝美学〟は一貫しており、その根幹には揺るぎない冒険小説への愛がある。

1944年「D-デイ」前夜。イギリス海峡で演習中だった連合軍の艦船が沈み、極秘扱いとなっていたノルマンディへの上陸作戦を知る将校が行方不明となった。やがて、その漂着先はフランス北西沖の旧英領ジャージー島と判明。連合軍首脳部は救出計画に着手するが、島はナチス占領下にあり、捕らわれた英国人の口封じも視野に入れる。潜入工作員として選ばれた英国陸軍のマーティノゥはナチス将校を偽装した上で、補助役となるジャージー島出身の女とともにフランスへと向かう。

物語は「敵側」に捻りを加えている。
同時期、アフリカ戦線での活躍により〝砂漠の狐〟と呼ばれていた智将ロンメルは、自国の未来を憂う同志らとヒトラー暗殺のプランを練っていた。或る時、己と瓜二つの男に遭遇したロンメルは、隠密行動時に於けるアリバイ工作のための替え玉として利用することを思い付く。だが、人真似に長けたその男の実体は、出生を偽ったユダヤ人だった。もし素性が曝かれた場合は死が待ち受けていたが、敢えて男は身代りを引き受ける。ロンメルは偽装を施した男を、視察の名目でジャージー島に送り、その間に自らは総統暗殺に向けた謀議の場へと赴く。
かくして、洋上の孤島に偽者らが集い、敵味方入り乱れての生命を懸けた騙し合いと任務遂行への戦いが展開されていく。

多様な過去を背負いつつ、未踏の冒険へと向かう者どもの昂揚と躍動。闘いのさなかで培う友情と刹那的な恋愛。本作に於いても、信義を重んじるヒギンズならではの世界が拡がり、後戻り出来ない路を歩む者らが出会うことで、互いの運命が変わっていくさまが劇的に描かれている。やや甘さが残るとはいえ、熟練の腕を振るった人間ドラマは味わい深く、余韻も心地よい。

評価 ★★★☆

 

狐たちの夜 (ハヤカワ文庫NV)

狐たちの夜 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

「悪魔のような女」ボアロー、ナルスジャック

1952年発表作。数度の映画化もあり、ボアローナルスジャック合作の中で最も読まれている作品と言っていい。サスペンス小説の模範ともなる構成で、次第に追い詰められていく人間の心理描写は流石の筆致だ。登場人物を必要最低限まで絞り込み、緊張感が途切れることを防いでいる。フランスならではのノワール的な雰囲気も濃厚で、配役として欠かせない悪女、翻弄される脆弱な男、一切役に立たない第三者の不甲斐なさなど、基本をきっちりと押さえている。

平凡なサラリーマン、ラヴィネルは愛人の医師リュシエーヌと共謀して保険金殺人を計画する。営業出張先の宿泊所へと妻ミレイユを誘い込んだ二人は、睡眠薬で眠らせたミレイユを風呂桶に沈めて殺害。その2日後、死体を運んで自宅前の洗濯場から川に落とす。翌日早朝に仕事から帰ったラヴィネルが、妻の遺体を発見するという段取りだった。男はアリバイ工作を為した上で予定通り帰宅する。だが、水路の途中で引っ掛かっていたはずのミレイユの死体は跡形もなく消えていた。やがて、見間違いようのない妻の筆跡でメッセージが届き始める。ミレイユの兄夫婦を訪ねたラヴィネルは、先刻まで妹が顔を見せていたと告げられた。やはり、妻は生きているのか。幾度も打ちのめされた男は、次第に現実と妄想との境目を行き来するようになる。

物語は、勧善懲悪で終わらない痛烈なツイストを利かせたラスト一行で、「悪魔のような女」が誰なのかを指し示す。自壊していく殺人者の意識の流れを綴ることは相当の技倆がいるのだが、多少荒削りではありながらもリアリティを持たせたまま仕上げている。

 評価 ★★★

 

悪魔のような女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

悪魔のような女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

「白の海へ」ジェイムズ・ディッキー

ミステリではないが、根幹には冒険小説のテイストがあり、予測不能の展開もあって強烈な印象を残す。

日米戦争末期、焼け野原と化していく東京でB29型爆撃機が墜落する。投げ出された機銃兵マルドロウは奇跡的に命拾いするが、敵国にただ一人取り残される。不可解にも男は、味方の救出を待つことなく、独自の観念に基き行動に移る。その手に漠とした日本地図を持ち、異国の直中を逃亡。頭の中にある目的はひとつ。北へと向かうこと。限りなく「白い世界」北海道へ。それは、理性ではなく、本能が命じていた。
男の「視野」は極めて狭く、思考範囲も限られている。生存本能に関わる感覚は異様なまでに鋭く、別の側面では非常に鈍い。自然に対する感性も野性児と同等。白鳥を殺し、餓えと寒さを凌ぐ。北海道へと渡ることは、男が生まれ育ったアラスカの大地へ還ることと同義だった。

男は日本人を侮蔑し、動物と同格として視る。身を守り、生き抜くために平然と殺す。異質であることがシンパシーへと変わる日本への畏敬は全く無い。読者によっては不快に感じるだろうが、海外作家が陥りがちな誤解と偽善に依る美辞麗句が無い分、潔いと感じた。
終盤、北海道に渡った男は或る部落に辿り着く。恐らくアイヌ民族であろう。歓迎されたにも関わらず、一匹の子熊を救う為に、村の男を殺す。そして、最期となる地では鷹匠の老人と出会う。男は、序盤とは全く別の人間に変貌している。社会性とは無縁の剥き出しの「生」。その躍動/昂揚が頂点に達した時、「白い世界」は真っ赤に染め上げられていく。

主人公の内面を推し量ることはできない。狂気と紙一重でありながらも、男を終始貫いているのは野性的な帰巣本能だ。人も動物も区別無く実存し、朽ち果てる「虚無」の世界。荒涼とした大地の上で、去来したものとは何か。静寂の中で迎えるカタルシスは白銀の彼方へと消え、男を駆り立てた思いも無へと化す。

評価 ★★★★

 

白の海へ TO THE WHITE SEA (小学館文庫)

白の海へ TO THE WHITE SEA (小学館文庫)

 

 

「ゴールド・コースト」ネルソン・デミル

有閑階級の衰退を独特のスタイルで描いた才人デミル1990年発表の異色作。
急速に台頭したアメリカ型資本主義社会の恩恵を受け、永らく栄耀栄華をほしいままにした大資産家ら。主人公ジョン・サッターは、その代表的階層となる「ワスプ」の体現者であることを、常日頃から自嘲気味に吐露する弁護士だった。妻スーザンも生まれながらの超富裕層に属し、〝超弩級の高級別荘地〟ゴールド・コーストの邸宅を受け継いでいた。広大な敷地内には厩舎を構え、別邸へは馬に乗り移動。だが、実態は、本邸の莫大な修繕費を賄うだけのカネが無く、ステータスシンボルは錆び付き腐食するままにまかせていた。夫婦は刺激に飢え、倦怠と枯渇感に陥っている。
そんな中、サッター家の隣りに、イタリア・マフィアの首領フランク・ベラローサが越してくる。当然、界隈の住人らは戦々恐々となるが、持ち前のシニカルさで渡り合えると踏んだサッターは、「良き隣人」としてギャングのボスと交流を深めていく。ベラローサがもたらすドス黒くも甘美な酔いに身を委ね、サッターは次第に感化される。だが、正気に戻り、酒に沈殿していた「毒」に気付いた時には、何もかもが既に手遅れとなっていた。術中にはまり闇組織へと組み込まれたサッターの人生は、発覚したスーザンの不貞によってひとつの破綻を迎える。

エリートとは名ばかりの俗物らを揶揄するデミルの筆は容赦無い。
裏を返せば、暴力の蔓延る世界でのみ生彩を放つベラローサの虚妄。僅かなひびが入れば、一瞬でカネも名誉も〝愛〟も失う薄氷上のワスプ、サッターの虚飾。一見対称的でありながら、根底にあるマチズモは共通しており、脆くも自壊していく矮小さは、したたかな女の存在によってより際立っていく。

 

世評の高い作品だが、私はそれほど感銘を受けなかった。筋立ては至ってシンプルで、個々のエピソードは印象深い。人物造形も流石の仕上がりである。けれども、やはり長大すぎる。主人公のシニカルな語りは、社会批判よりも自己憐憫に費やされているため、世界観も終始閉じられているという印象しかない。停滞した物語は終盤で一気に動き、退廃的ムードも高まるが、そこにカタルシスは無く、憐れな者どもの凋落ぶりのみが浮遊する。

アメリカ独自の歴史、風土、気質などを踏まえ、読解/実感へ結び付くだけの素養が、私には不足しているのだろう。

評価 ★★★

 

ゴールド・コースト〈上〉

ゴールド・コースト〈上〉

 

 

 

ゴールド・コースト〈下〉

ゴールド・コースト〈下〉

 

 

「スカイトラップ」ジョン・スミス

1983年発表、ジョン・スミスの処女作。翻訳本表紙カバーは、冒険小説ファンの心をくすぐる安田忠幸の装画。だが、素晴らしいのはそこまで。結論から述べれば、滅多にないほどの駄作なのである。その分インパクトがあり、逆の意味での面白さはある。版元の宣伝文句ではギャビン・ライアル張りのスリラーと褒めちぎっているらしいから、著者はパロディーではなく、大真面目に「スリラー」を書いたのだろう。実際、数箇所で失笑したが、笑い転げるようなシーンは無かった。
では、いったい何が駄目なのか。

まず、航空冒険小説で必要不可欠な「大空を駆け抜けるロマン」が微塵も味わえない。主人公は、自らの操縦ミスにより同乗していた副操縦士ら二人を死なせ、重度の飛行恐怖症となったパイロット、スティーヴ・リッチー。数年後、未だに「飛べない」操縦士であることをわきまえず、アフリカのマラウイからイスラエルまで、双発機ドルニエを運ぶ仕事を請け負う。単に客として搭乗した飛行機の中でも極端に脅え、常に酒が手放せない何とも頼りない男でありながら、眼前のカネに目が眩み、安々と引き受けるのである。
やがて、依頼主の目的は南アフリカの企業から強奪したダイヤモンドの密輸だったことが分かる。その秘密を知るタイピストが殺されるのだが、驚くべきことに、その女はリッチーの元恋人だった。英国で別れた女が、遠く離れたマラウイの飛行機販売会社に雇われていたというご都合主義。リッチーは、悠々自適に暮らす飛行士仲間の男と結託し、密輸の途上でダイヤモンドを掠め取る姑息なプランを練る。過去、一度は愛した女の復讐を遂げようという感情など端から湧かず、以降はカネに執着し、さっさと飛行士の免許を返して、ヨーロッパの避暑地で余生を暮らすことを夢見るのである。
だが、いざドルニエに乗り、怖々と操縦桿を握り締めたまではいいが、つきものの悪天候でひたすらにパニックに陥る。自信喪失から立ち直るどころか、早く飛行機を降りたくて身悶えるという醜態を曝すのである。しかも、中途で間抜けにも密輸品を載せた飛行機を「悪漢」どもに奪われてしまうという始末。以後、虚脱するエピソードが続く。

肝心の飛行シーンは全体の3分の2辺りを過ぎてから。とにかく滑稽なほどびびりまくる情けない男に、感情移入など出来るはずもなく、斬新な「ヒーロー像」のみが植え付けられていく。
冒険小説としての評価以前に小説としての完成度が低い。執筆当時は現役パイロットだったらしいが、飛行機に対する愛情も、刺激的な操縦シーンも、空への憧れ/冒険心が一切伝わらないのは致命的だ。翻訳にして350ページだが、本来ならば見せ場となる飛行シーンは僅かで、しかも魅力に欠けている。殆どがダイヤモンド密輸に関わる悪党らとのやりとりに費やしているのだが、物語は全く進展しない。ミステリ仕立てにしているのは良しとして、謎解きは途中で放り出しており、ぶつ切りの構成のために、スミスが何を骨子として描こうとしたのかが皆目不明となっている。
要は作家として素人であり、修練無きままに書き殴った印象しか残らない。致命的なのが主人公の設定で、撤退した俗人ぶりを発揮し、倫理観に欠け、含蓄のある台詞や空の男としての矜持が無い。下手な冒険小説でも本作に比べれば良作として評価を上げることだろう。

冒険を通して恐怖心を克服する、それこそ描くべきテーマではないか。

「幸運」にもスミスの別の作品が翻訳されているようなのだが、それこそ怖くて手が出せない。

評価 ☆

 

スカイトラップ (ハヤカワ文庫 NV (386))

スカイトラップ (ハヤカワ文庫 NV (386))

 

 

 

「警部、ナチ・キャンプへ行く」クリフォード・アーヴィング

米国の大富豪ハワード・ヒューズの自伝捏造によって世間を騒がせた異端の作家アーヴィング1984年発表作。その経歴とは裏腹に、本作はナチス強制収容所を舞台に、戦時下での「正義のあり方」を問い直す、実直で揺るぎない信念を感じさせる力作である。

原題は「ジンの天使」。ジンとは、ドイツ占領下のポーランド内にある架空の町を指し、ナチスは1日に2千人近くをガス室送りにする強制収容所を置いていた。極めて「機能化」された地獄のシステムに組み込まれ、同胞抹殺の「補助役」となり、目前の死を辛うじて回避していたユダヤ人たち。その集団の中で不審死が相次ぐ。傍には不可解なメモが残され、正体不明の殺人者は「死の天使」と呼ばれた。無秩序が加速し捕虜のコントロールが利かなくなることを恐れた所長は、事態収拾のため、犯人の炙り出しに着手。ベルリン刑事警察から派遣されたのは、道理無き戦争を忌避し、未だナチスの非人道的犯罪の実態を知らぬパウル・バッハ警部だった。

ホロコーストによって屍の山が築かれるすぐ隣りで、連続殺人を捜査するという暗鬱なるアイロニーと堕落した人倫を補完するニヒリズム。囚われの身でありながらもユダヤ教の特殊な戒律を守ろうとする人々。自国の蛮行に対して反発しながらも反逆者の烙印を恐れて命令に従うバッハだったが、真摯に捕虜らと向き合い、捜査を続けていく中で、ナチスの異様で異常な精神崩壊/国家の末路を直視する。
やがてドイツ国内のゲットーで反乱が起こり、人員整理のため、ジン強制収容所の閉鎖が決定される。だが同時期にジンの捕虜らは、武器と金を調達した上で武装隆起の計画を進めていた。バッハは地道な捜査によって「死の天使」の名を突き止めるが、事態はすでに後戻りできないまでに狂い始めていた。

終局での凄まじい高揚と破滅。ドイツ人としてではなく、一人の人間として「正義」を全うしようとしたパウルの非業。戦争下に於ける非人道/残虐性の末期を重苦しい虚無感とともに描き切ったクライマックスは、本作が優れた戦争小説でもあることに気付かせる。
ユダヤ強制収容所での反乱は、実際に300人が脱走に成功した(直後にその殆どが命を落としている)というソビボルをはじめ、幾つか例がある。アーヴィングは事実と虚構を巧みに織り交ぜながら、余韻の残る劇的な物語に仕上げている。

評価 ★★★★

 

警部ナチ・キャンプに行く (文春文庫)

警部ナチ・キャンプに行く (文春文庫)

 

 

「地獄の家」リチャード・マシスン

「幽霊屋敷」を舞台とするモダンホラーの先駆であり、ジャンルの開拓者でもあったマシスンの存在を知らしめた一作。
残虐非道の限りを尽くした狂人の霊が取り憑いた家。物理学者夫婦と霊媒師の男女という相反するチームが、その実態を解明すべく乗り込む。想像を絶する怪奇が相次ぐ中、超常現象を電磁パルスによって「解釈」しようと試みる学者は当然のこと挫折。その妻は「憑依」されて死との境界を彷徨う。霊媒師らは「交信」には長けているものの、対抗手段を持たず非力。跋扈する悪霊は、もてあそぶように4人をいたぶっていく。

文章は簡潔でテンポは良い。ただ、今読めば古めかしく感じ、物足りさが残るのは仕方がないことか。オカルトにはもう少し妖しさが欲しい。ミステリの片隅を占めるホラーは、日本でも一時期量産されたように比較的創作しやすい分野といえるが、相当な実力を備えていなければ、完成度を高めることは難しい。化け物や超常現象を適当に散りばめれば良しではなく、実感として得られる恐怖を読者に与えるためには、かなりの技量がいる。モダンホラーは「怖くない」という定評は、一部の例外を除いて誤りではなく、すでに古典的な本作においても然りなのである。

評価 ★★

 

 

「声」アーナルデュル・インドリダソン

孤独な生活を送っていたドアマンがホテルの地下室で惨殺される。
かつて男は、美しい歌声で人々を魅了したことがあった。だが、避けて通ることのできない変声のため、スポットライトを浴びた初舞台で、一瞬にして「ただの少年」へと変わったのだった。厳しく指導し息子に期待を懸けていた父親。失望と嘲笑、果ての転落。以降の人生はもはや「余生」に過ぎなかった。人々との関係を絶ち、人畜無害となっていた男を殺害した動機とは何か。レイキャヴィク警察の捜査官エーレンデュルは、私生活でのトラブルを抱えつつも、濁りきった事件の底に沈殿する鍵を求めて、再び水中深くへと潜り込んでいく。

インドリダソン翻訳第三弾。「家族」を主題とする著者の主張がより明確となり、前面に出てきている。本作では、親と子の関係性を問い直す三つのケースを扱い、マイノリティに関わる現代的な問題も絡めている。その中心となるのは、世捨て人同然となった男の半生なのだが、挫折の容量は重いとはいえ、人間の業に思いを馳せるような悲劇性は高くない。捜査を主導する主人公エーレンデュルの家族関係とのリンクを一層深めているため、軸となる事件自体の強度が弱められた感じだ。テーマを深めるためのメッセージ性が過多となり、肝心の物語が薄くなってしまっている。前2作「湿地」「緑衣の女」に比べてプロットの構成力も弛緩しているは残念だ。

評価 ★★★

 

声 (創元推理文庫)

声 (創元推理文庫)

 

 

「過去からの狙撃者」マイケル・バー=ゾウハー

スパイ/スリラー小説の醍醐味を堪能できるバー=ゾウハー1973年発表の処女作。二重三重に仕掛けを施したプロットは、後の「エニグマ」、「パンドラ」で更に深化するのだが、無駄なく引き締まった本作も決して引けを取るものではなく、綿密に練り込まれた構成の巧さには舌を巻くしかない。入り組んだ謎がクライマックスで一気に氷解するロジックの快感は、柔な〝本格推理モノ〟を軽く凌駕する。さらにスピード感溢れる展開の中で、眩暈さえ覚える濃密なサスペンスは、終局に近付くほど強烈になっていく。

物語は、ダッハウナチス強制収容所で起きた陰惨な事件を発端とし、70年代米国を皮切りに連続して起こる不可解な殺人が謎をはらんで進行する。ソ連外相が暗殺された翌日、その運転手が同一の銃で殺害された。それだけに留まらず、ヨーロッパでも関連すると思しき犯行か続く。米ソ諜報機関は外相が「人違い」で殺されたと結論を下し、動機を含めて殺害者の炙り出しに着手する。
入り組んだ迷宮の如きパズルを解き明かすのは、一線から退いていたCIA局員ソーンダーズ。やがて、一連の被害者は、第二次大戦中に或る強制収容所に収容されており、その地獄を生き延びたという共通点があることを掴む。ソーンダーズは過去の闇へと潜り、悲劇的な事実のみならず、今も燻り続ける復讐の火種を目にする。だが、瞠目の真相は、まだ氷山の一角にしか過ぎなかった。

先の見えない冷戦時にデタントへと向かう一方で、勢力均衡が崩れることを恐れ、前例のない緊張関係にあった米ソ首脳の謀略。「平和」へと傾き始めた動きに反発する一部政府/軍上層部排除の目論み。個の報復と国家の陰謀が複雑に絡み、事件が予想外の様相を見せる中、ソーンダーズは卓越した分析/解析力を駆使し、終幕に於いて大胆且つ卑劣極まりない策略の全貌を明らかにする。

空虚で苦いラストも余韻を残す。バー=ゾウハーの超絶技巧が冴え渡る傑作だ。

評価 ★★★★★

 

過去からの狙撃者 (ハヤカワ文庫 NV 160)

過去からの狙撃者 (ハヤカワ文庫 NV 160)

 

 

「さよなら、シリアルキラー」バリー・ライガ

カテゴリは〝ヤングアダルト小説〟という私自身は食指が動かない分野に属しているが、散々使い古された題材「サイコキラーもの」に挑んだ本作は、停滞したミステリ界に幾ばくかの新風を吹き込んで話題となったようだ。

主人公ジャズ・デントは17歳の高校生で、実の父親ビリーは123人を殺害した「21世紀最悪の連続殺人犯」という設定。少年は己に流れる汚れた血を憎みつつ恐れている。いつか狂気に陥り、大量殺人者である父親と同じ轍を踏むのではないか。行方不明となった母親は父親が殺したと信じ、包丁を見る度に自分自身もそれに加担していたのではないかという悪夢に襲われる。実質124人を殺し終身刑となった男と、その息子の関係性は屈折しており、ジャズが時に応じて父親の教えに従う部分もある。本作は良くも悪くも、この枠組みの中で展開する。

死体に様々なポーズをとらせたことから、ビリーは初期に〝アーティスト〟と称されていた。その殺人現場を模した自称「ものまね師」の殺戮が、ジャズの生まれ育った田舎町で再現されていく。父親を逮捕した後に懇意となった保安官を通じて捜査状況を掴んだジャズは、友人と恋人の助けを借りつつ、「ものまね師」の正体を探るために奔走する。本作の肝は、父親の陰惨な凶行を辿らなければ、殺人者に近づけないということであり、主人公の葛藤と抑制、その克服の描き方に力を入れている。

読者層を踏まえて文章や構成は平明でストレート。
ジャズを支える友人と恋人、保安官の存在は、軸となる凄惨な事件を浄化する役目を担っている。ただ、光と闇の狭間で揺れ動く少年の孤独と焦燥を、敢えて重くせずに、ティーンエイジの苦悩と同様のレベルで描いているのは、〝青春小説〟でもある本作の限界点を示し、やや物足りない。さらにいえば、百人以上を殺したビリーの凄まじい闇に触れる心理的な掘り下げがないという欠落も大きい。また、殺人者の息子を捜査に介入させることなど現実にはあり得ないし、第2部へと向けた終盤での警察の無能ぶりなどに、物語としての甘さが際立つのだが、著者はあくまでもジャズの成長を描くことに主眼を置いているため、大方の読者には許容範囲であろう。

本作は三部作の第1弾。終盤で次作に繋がる展開があり、完結していない。

評価 ★★★

 

さよなら、シリアルキラー (創元推理文庫)

さよなら、シリアルキラー (創元推理文庫)

 

 

「優雅な死に場所」レン・デイトン

登場する人物全てが正体を隠し、偽りの言葉で煙に巻く。それは主人公の英国秘密情報部員も然り。名無しの「わたし」は、急場を凌ぎ、僅かな情報の欠片を集めることに留意する。時と場を変えて繰り返される曖昧模糊とした駆け引き。真意が見えず、その言動がどのような目的で、どういう結果をもたらすのか、読み手に対しても明確に判断できる材料を与えない。関係者と接触を図り、相手の足元を照射し、手掛かりを探し求める。濃い靄の中から立ち現れるのは、国家存亡の危機に繋がる敵国の陰謀か、或いは卑しく利己的な策士らの悪業か。

1967年発表となる本作の舞台は、冷戦下のパリ。英国秘密情報部「わたし」の差し当たっての任務は、著名な精神分析学者だという男ダットに「核実験の降下灰の記録」を渡すことだった。だが、指令の目的は定かではなく、対応措置も不明だった。「わたし」は、既に築いていた人脈を利用して、怪しげな診療所を経営し、得体の知れない男女との交流を深めるダットに近付く。やがて、背後に浮かび上がるソ連、中国工作員らの陰。打つべき、次の一手は何か。「わたし」は、更なる迷宮への入り口に向かう。

かつて来日したデイトンは
「わたしの著書は断片のよせあつめとして書かれ、最後にきて、読者は、知識や問題をあたえられるのではなく、一つのムードないしは雰囲気とともにのこされるように配慮されています」
と、メッセージを残している。
つまり、自覚的に難解な代物を創作している訳だ。盤上の駒/歩兵の動きのみに焦点を当て、対局者の姿を一切見せずにゲームの流れを追わせる手法とでもいえばいいだろうか。全体像は明らかとはならないが、読者なりに幾通りにも解釈できる余地を残す、実に厄介なスパイ小説を成立させているのである。

比較対象となる代表格ジョン・ル・カレが「蔭」、デイトンを「陽」とする評が定着しているが、文体や構成のスタイルは当たっていても、諜報戦を「ゲーム」として捉え、得てして不明瞭な終局を迎えるデイトンの方が退廃的/虚無的な読後感が強い。
終盤では、登場人物らに共産主義と資本主義のイデオロギーについて論議させているが、カオス的情況の中から現れてくるものとは、またしても未解決のままとなったアイロニカルな「情報の断片」のみなのである。

評価 ★★★

 

 

 

「濃紺のさよなら」ジョン・D・マクドナルド

音楽界で「ミュージシャンズ・ミュージシャン」という言葉がある。同業者に少なからずの影響を与えて尊敬を集めているが、必ずしも一般の人気とは一致せず、どちらかというとマイナーな存在。要は大衆的ではないが、玄人受けするクリエイターのことだ。容易には真似の出来ない技量、独自の世界観を持つ孤高さ、業界への貢献度など。無論、なぜ評価されているのかを知るには、その作品に直に触れることが一番の近道となる。
米国ミステリ作家で思い付くところでは、クライムノベルのエルモア・レナード、スリラーのロス・トーマス、そしてハードボイルドに限らずジャンル不問のジョン・D・マクドナルドとなる。日本では、その作品よりもロス・マクドナルド(ケネス・ミラーが筆名としてジョン・マクドナルド、ジョン・ロス・マクドナルドを当初使用)と混同されて迷惑したという逸話の方が知られているかもしれない。
共通するのは、ずば抜けた傑作がない代わりに、安定した良作をコンスタントに発表し、通好みの味わい/洗練したスタイルで根強いファンを持つということ。複雑なプロットよりも人物造型に力を入れ、緻密な構成よりも印象に残る情景を重視、簡潔だがクセのある文体で読者を引き込む。つまり、狭義のミステリへのこだわりが無く、幾通りもの楽しみ方ができる「大人の小説」の書き手である。

本作は、トラヴィス・マッギーシリーズ第1弾で1964年発表作。薄倖の女の弱みにつけこみ、大金を奪い取った男との対決までを描く。常時ヨットに居住するマッギーの生業は、もめごと処理屋/取り返し屋という曖昧且つ特殊なもので、生活費を稼がねばならない時にだけ仕事を請け負うというスタンス。揉め事をさらに引っ掻き回して糸口を探るというやり方はいかにもハードボイルド的。筋立てだけ追えば、いかにもアメリカ的な自由を体現する主人公の楽観さが目立つようだが、一読すれば結構奥深い視点を備えていることが分かる。
叶わないと悟りつつも夢を追いかけざるを得ない市井の人間たちを見つめる主人公の視線は、乾いていながらも深い共感を滲ませている。共同体の中で生きるシニカルな人間観察者として、マッギーは時に応じて社会学的な考察を語る。或る意味、流浪の身でありながらも、現実社会との関わり、その中で生じる軋轢/トラブルから距離を置くことが出来ない不器用さ、裏を返せば誠実さを秘めているのである。さらに、マッギーは己の力を過信した結果、惚れた女を失うことになるが、主人公を完全無欠ではなく、弱さを曝け出す等身大の男としても描いている。物語自体は大きな起伏もなく、謎解きの要素も薄いが、新たなヒーロー小説のあり方を模索する他の作家らに刺激を与えたことは間違いない。

評価 ★★★

 

濃紺のさよなら (Hayakawa pocket mystery books)

濃紺のさよなら (Hayakawa pocket mystery books)

 

 

「コリーニ事件」フェルディナント・フォン・シーラッハ

短編集「犯罪」によって一躍名を馳せたシーラッハ初の長編で2011年発表作。戦後ドイツが抱える国家的/人道的諸問題を鋭く抉り出した本作は、現代ミステリとしてよりも戦争文学/社会小説としての読解を求める。シーラッハ自身の祖父が紛れもない戦争犯罪者であったという重い事実が、本作構想の基軸となっているようだ。その忌まわしい血縁/トラウマの克服、さらに弁護士/小説家として「どう使命を果たすか」という実存的な動因も、同時に感じ取れる。

物語の中心となるのは、ドイツ人の元実業家を惨殺したイタリア人コリーニの動機を巡る法廷劇だが、主眼は戦争と人間、その罪と罰の根源的な問い直しにある。主人公の若い弁護士は著者の投影であり、随所で挿入する回想シーンもシーラッハの追懐をもとにしたものなのだろう。敢えて激情を押し殺し、簡潔に情景を描いていく筆致は、悔恨を背負いつつ生き続ける人々の心象を逆に生々しく浮かび上がらせ、より一層悲劇性を高める効果を生んでいる。

登場する人物らは、須く過去の戦争に呪縛されている。時とともに血の記憶が薄れていく中、大半は口を閉ざし忘却を試みる。だが、愛する人を無惨にも奪われた者にとって、戦争は過去のものではない。人を殺めることは、戦争という異常な状況下であれば許されることなのか。さらに、その復讐を為した者の罪を咎めることはできるのか。
戦争犯罪/責任の問題は「終わった」こととして処理されていいのか。
物語は、幾つもの劇的な展開を経て、ひとつひとつ「盲点」を洗い出し、積み上げていく。衝撃的な告発とともに訪れる唐突な幕引きは、決して問題の解決を投げ出しているのではなく、「今ここから」再び歩み始めなければならない、というシーラッハの意志の表れなのだと感じた。


以下は余談である。

「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」
降伏から40周年となる1985年5月8日、ドイツ連邦共和国の第6代連邦大統領ヴァイツゼッカーによる有名な演説の一節だ。この日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と定め、これからの国家と人々のあるべき姿を格調高い言葉で述べている。
例え戦後生まれであっても、過去の罪過との関係性を否定することはできない。むしろ、より真摯に向き合い、事実を知り、過ちを共有し、姿勢を正さなければならない。その上でこそ、世界の人々との平和/共存について共に考え、未来へと歩む「資格」を持てる。この崇高な志/構えは万国共通であり、戦争の惨禍を後世へと伝える義務さえ有しているといえる。

ナチス・ドイツは、近現代史に於いて最も邪悪な個人崇拝/独裁国家のシステムを構築したが、虚栄は崩れ、無辜の屍の雪崩に呑み込まれて自壊した。暴力による支配そのものである「非人間的システム」の破綻は、同時に人類の叡智と呼ばれるものが如何に脆弱で無力であったかをも白日の下に曝した。
排他的ナショナリズムを歓迎/熱狂し陶酔したのは、嘘偽りなく大多数の国民であり、己らの為したことに慄然としたのは、銃弾飛び交う街の中でハーケンクロイツが灰と化すのを眼前にした時である。目を閉ざしても、地獄が消えることはない。ならば、しっかりと目を開いて現実を直視し、記憶に刻みつけ、その罪を問い続けること。それ以外に未来は無いと悟るのである。

戦後のドイツが歩んだ道には、一部の狂信的右翼は別として、国家も国民も戦争責任/戦争犯罪の問題と向き合い、再びの過ちを繰り返さないという信念/決意が深く刻み込まれている。
これは、己らの戦争遂行の巨悪/罪を隠蔽し、国民に「一億総懺悔」という曲解の極みとなる卑しい虚妄を押し付けてきた日本とは大きく異なる。
敗戦から70年、ドイツと日本を比較した場合、政治/司法/教育/思想などに於ける「過去の清算」の隔たりが近年益々拡がっていることは言うまでもない。

評価 ★★★★

 

コリーニ事件

コリーニ事件

 

 

「殺しの挽歌」ジャン=パトリック・マンシェット

マンシェット1976年発表作。情感を排し客観描写に徹した筆致は乾いているが、殺伐とした寂寞感の中でさえ叙情が滲み出ている。文体でいえば、ハメットを継承しているのは、本家アメリカではなくフランスの作家たちだろう。新しい文学の潮流として捉えたハードボイルドの世界を再構築し、よりスタイリッシュなロマン・ノワールへと再生し、熟成させている。

主人公は大企業に勤める中年サラリーマン、ジョルジュ・ジェルフォー。ウエストコースト・ジャズを好む元左翼活動家で、今は安寧とした生活を送っている。或る商談からの帰り、真夜中の高速道路で大破した自動車から瀕死の男を助ける。その身体は数発の銃弾を浴びていた。ジェルフォーはトラブルを避け、搬送した病院で名乗らぬまま帰宅する。だが、闇に潜んで二人が会話する様子を見ていた殺し屋は、ジェルフォーの車のナンバーを書き留め、黒幕に報告していた。口封じの標的となった男の日常は、一夜にして様相を変えた。
旅先で二人組に襲われたジェルフォー。寸前で難を逃れ、家族には知らせずに姿を隠すが、殺し屋らは執拗に痕跡を追ってきた。やむなく反撃へと転じ、一人を殺害。ジェルフォーは逃走の途上、乗り込んだ列車で浮浪者に身ぐるみ剥がされ、見知らぬ場所で放り出される。

このあと物語は意外な方向へと流れる。迷い込んだ山中で奇しくも出会った退役軍人の家に身を寄せるのだが、その期間は実に半年以上に及ぶこととなるのである。家族には一切連絡をとらず、老人と共に狩猟生活を送り、世捨て人同然となっていく。つまり、前半のマンハントを強引に停滞させ、物語は一気に変転するのである。しばらくして、病んでいた老人は死に、遺産相続人となる孫娘が訪ねてくる。ジェルフォーの滞在は続き、やがて娘と逢瀬を重ねていく。その間も相棒の復讐を狙う殺し屋が近づきつつあった。凄まじい襲撃を受けたジェルフォーは、再び殺戮の闇へと引き戻される。

全てを終え、家族のもとへと帰ったジェルフォー。それまでの出来事を黙して語らず、何事もなかったかのように日常へと戻る。そして冒頭と同じように車に乗り込み、高速道を疾走する。飢えたような眼に宿るのは、新たな冒険への渇望に他ならなかった。

中盤での意図的な破綻は、苛烈な暴力を経て非日常の中にカタルシスを覚えた男の変貌を描く上で不可欠な展開だったのだろう。例え、理不尽な私闘であっても、その日々は「生きる」実感へと直結した。男にとって、この危険極まりないアヴァンチュールは、解放感と魅惑に満ちていたのである。ジェルフォーの言動はドラスティックで虚無的だが、過去に正義を標榜し挫折した「闘士」としてのセンチメンタリズムも表出する。それは、マンシェット自身にも通じるものであり、現在の有り様に飽きたらず、日常の「破壊」を創作の中で試みたのだという解釈も出来る。深読みをすれば、ジェルフォーは著者の分身なのであろう。

評価 ★★★★

 

殺しの挽歌

殺しの挽歌