海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「大きな枝が折れる時」ジョナサン・ケラーマン

小児専門精神医アレックス・デラウェアシリーズ第1弾。「ロス・マクドナルドの伝統を受け継ぐ」という売り文句もあるが、清廉な主人公の立ち位置はともかく、ハードボイルド小説に不可欠な冷徹さや、罪を犯す人間の掘り下げ方などが浅く、処女作の段階ではまだ方向性が定まっていない印象。
1985年発表で、翻訳された当時は随分話題となった。一人称の語り口は明るいタッチで、ややシニカル。若くして引退同然の身でありつつも生活は安定し、恋人や友人との仲も良い。これは、題材とする幼児虐待の重さを少しでも軽減する狙いもあるのだろう。自身が臨床心理医であるケラーマンの体験が随所に生かされ、主人公を通した子どもたちに対する眼差しも優しさに満ちている。

プロットは、小児性愛者である金満家らが共謀して児童虐待を繰り返す犯罪の捜査をメインとするが、構成や人物造型に強引な部分も目立つ。非道の実態をリアルに描写することは避けており、異常者らの謀みを暴くミステリとしての体裁を崩すことはない。アレックスとコンビを組む刑事は性的マイノリティの設定だが、奇をてらっているようで、余分だと感じた。主人公を骨のある男として描いていることには好感が持てる。第2作以降の成長に期待といったところだ。

評価 ★★★

 

大きな枝が折れる時 (扶桑社ミステリー)

大きな枝が折れる時 (扶桑社ミステリー)

 

 

「その男キリイ」ドナルド・E・ウェストレイク

「やとわれた男」で鮮烈なデビューを飾ったウェストレイクは、「殺しあい」「361」と、シリアスなクライムノベルを上梓していたが、第4作以降はジャンルにこだわらず書いたようだ。1963年発表の本作は、人生経験に乏しい若い男が数多の体験を経て処世術を身に付け、「大人」へと成長するさまを描いた異色作で、劇的な変貌を告げるラストは強烈な余韻を残す。

経済学を専攻する大学生ポール・スタンディッシュは、半年に及ぶ実習期間を全国的な労働組合本部で働く。指南役は組合幹部のキリイ38歳で、精悍なやり手と評判だった。一方の軟弱さを絵に描いたようなスタンディッシュは24歳。早速二人は、地方支部立ち上げの打診があった地方の町ウィットバーグに派遣される。製靴会社社員ハミルトンに接触し、調査と下準備をするためだ。だが、顔合わせを果たす前に、ハミルトンが何者かに殺された。地元の警察に拘束された二人は謂れのない尋問を受ける。町の住人の大半は製靴会社に関わる仕事に就き、経営陣は行政や警察機構に対して絶対的な権力を振るっていた。スタンディッシュは、ハミルトンの友人であった老人ジェファーズから、社内で不正があり、その証拠を経理担当で老人の孫娘アリスが握っていることを知る。労組本部から助っ人らも駆け付け、会社との取引材料として背任行為の事実を利用することにするが、直後にジェファーズも不審死を遂げる。事態は急速に様相を変えていた。

本作の読みどころは、純真な主人公が生々しいエゴの衝突を重ねて次第に〝したたかさ〟を修得していく過程にこそある。敢えてスタンディッシュの一人称に「ぼく」を選んでいるように、序盤では弱音を吐き、人前で泣き叫ぶ醜態もさらすのだが、自らも心身を傷付けられた殺人事件を解決したいという欲求が、タフな男へと鍛え上げる足掛かりとなっていく。
敵対するのは、理不尽な暴力を振るう警察官や尊大な製靴会社支配人のみではない。スタンディッシュの功績を横取りし、出し抜き、成り上がろうとするキリイこそが最大の「敵」であることが、終盤までに明らかとなる。

切れ味鋭い幕切れで、圧倒的な重みで迫るタイトル「Killy」の意味。柔な男の甘美なる幻想を打ち砕き、リアルな裏社会に触れさせることで伝授するハードな生き方。本作は、いわばウェストレイク流人生訓の表出ともいえる。

評価 ★★★★

 

その男キリイ (1979年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

その男キリイ (1979年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

「サハラの翼」デズモンド・バグリイ

名作「高い砦」(1965)によって冒険小説ファンを熱狂させたバグリイは、1983年に59歳の若さで死去するまで、常に高水準の作品を発表し続けた。概ねプロットはシンプルで、冒険行もストレート。簡潔な文体によるシャープな活劇小説の書き手として、日本の読者にも愛された。
1979年発表「サハラの翼」は、バグリイ後期にあたる第12作目。余分な贅肉を削ぎ落とした硬質なロマンを前面に押し出している。本作は、捻りの無い筋立てや、ややステレオタイプな登場人物の描き方、意外性の薄い黒幕の正体など、欠点は多い。ただ、全体としては冒険小説の本道を行くものなので、バグリイの世界は変わらずに楽しめるだろう。

主人公は、英国で保安コンサルタント会社を経営するマックス・スタフォード。保安を担当する軍需品製造会社社員ポール・ビルソンが前触れも無く失踪し、調査に乗り出す。その男は、取り柄のない平凡な経理課員でありながら、高給の優遇を受けていた。行方を探り始めて間もなく、スタフォードは不可解な妨害行為を受け負傷する。保安上は契約先に実害が生じていなかったため、事件から手を引くことはできた。だが、スタフォードは、さらに追跡調査を進め、唯一の近親者である姉に接触。ビルソンが姿を消した理由とは、飛行家であった父親の死を扱った新聞記事が要因らしい。1936年、アフリカ横断飛行レース中にサハラ砂漠で消息を絶ったピーター・ビルソンは死んでおらず、多額の保険料を騙し取ったと揶揄する内容だった。幼い頃に父親を失い、強い憧憬を抱いていたポールは怒り狂い、父親が死んだ証拠を手にするためにアフリカへと飛んだのだった。しかし、40年以上も前に墜落したその場所は容易には辿り着けない砂漠地帯と推察できた。
経営者として自らを縛り付け、安定しながらも変わらない日常に飽き足りなさを感じていたスタフォードは、休養という名目で会社を離れ、ビルソンの跡を追う。だが、同時に墜落機発見を阻止する命を受けた殺し屋が動き始めていた。

ビジネスマンとして成功した男が安穏たる日々を捨て、未知の冒険に没入していく。安全圏を外れ、敢えて危険地帯へと乗り込む。関係性の薄い第三者的な立場は、自らの行動が当事者らの未来を変えていくこととなる。それだけに己を律しなければならない。切り拓く路の先にあるのは、再生か死か。何れにしても、男にとっては生命を懸けるだけの値打ちを、そこに見出しているのである。これぞ、冒険の根幹となる動因だろう。

物語は活劇よりも、アフリカ北部の厳しい自然環境や遊牧民の生態に触れつつ、それまでの生き方を述懐する主人公の心の揺れに力を注いでいると感じた。人間の力など到底及ばない自然の摂理。果てなき地平。星の美しさ。大地に横たわり、空を見上げるスタフォードの感動。このシーンを描くために、バグリイは「Flyaway」を著したのではないだろうか。

評価 ★★★

 

サハラの翼 (ハヤカワ文庫NV)

サハラの翼 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

「8(エイト)」キャサリン・ネヴィル

ネヴィル1988年発表作。女流作家ならではのロマンス色の濃い〝冒険ファンタジー〟で、伝説のチェス・セット「モングラン・サーヴィス」を巡る争奪戦を、史実を織り交ぜながら描く。とにかく長大な物語で、相当な労力を費やしたことが伝わる力作ではあるのだが、あれもこれもと詰め込み過ぎて、結果的には大風呂敷からほとんどこぼれ落ちてしまっている。全編が劇画調のドラマ仕立てのため、ゴシック小説好きなら楽しめるのだろうが、私にはどうにも食指が動かない代物だった。

物語は、18世紀末のフランス革命後の混乱期と70年代の現代を交互に舞台とする。時代を超えて真相を追い求めることとなる〝ポーン〟役の女性二人を主人公とし、実在した歴史的人物を大量に登場させて絡めていく。権力掌握を目論む者には悪魔的な力を発揮するという「モングラン・サーヴィス」を手にするため、革命家や皇帝らが暗躍。さらには、ヨーロッパ中の著名な芸術家や哲学者、科学者らは、須く死の直前まで、その謎の解明に取り組んだ探求者であったという説を強引に押し付ける。しかし、核となるチェス・セットがどのような「奇跡」をもたらすのかを知ることができるのは、結末ぎりぎりになってから。それまでは、次から次へと登壇する歴史的人物にまつわる実像/虚像ごたまぜの挿話と神秘にまつわる蘊蓄を延々と読まされる羽目になる。ある程度のケレン味は必要だが、終始はったりを利かせていては、肝心の山場が極めて薄くなってしまうことは当然である。謎の解明は、ようやく終局で果たされるのだが、誰でも思いつくオカルト的な〝落ち〟では尻すぼみも甚だしい。

数多の偉人が生涯を賭けて追い求めた真相に、「コンピュータ専門家」である選ばれし女性のみが辿り着けるというご都合主義。世界にまたがる錚々たる面子が、最終的には血縁者として繋がり、小さなファミリーへと収縮して「見事な大団円」を迎えるという竜頭蛇尾。いったい、ここまでの道程は何だったのかと、溜め息しきりだった。

評価 ★★

 

8(エイト)〈上〉 (文春文庫)

8(エイト)〈上〉 (文春文庫)

 

 

 

8(エイト)〈下〉 (文春文庫)

8(エイト)〈下〉 (文春文庫)

 

 

「兄の殺人者」D・M・ディヴァイン

珍しくクリスティーが褒めたというディヴァインのデビュー作品で1961年発表作。本格推理作家として、現在も高い評価を受けているらしいが、終始退屈な代物だった。英国のミステリ作家は大概が地味な作風で、ケレン味に欠けるきらいがある。本筋はアリバイ崩しだが、登場人物の俗物ぶりが疎ましく、中盤からはフーダニットとしての興味も薄れていた。トリックも今ではテレビドラマさえ使わないお粗末なもの。形骸化した「本格物」の薄い物語性しか印象にない。

評価 ★

 

兄の殺人者 (創元推理文庫)

兄の殺人者 (創元推理文庫)

 

 

「イノセント」イアン・マキューアン

スパイ小説というよりも恋愛を主軸にしたサスペンスで、筆致はいかにも文学的。冷戦下ベルリンで東側基地の盗聴を目論み、西側からトンネルを掘り進めるという英米情報部の無謀な作戦を背景とする。物語に大きな起伏は無いのだが、若い技術者が一定期間体験する濃密な情景を、独特なレトリックを用いて描き、一種異様な緊張感に満ちている。本作で「話題」となった死体解体シーンよりも、その直後に主人公が陥る悪夢の如き時間の流れを追った重苦しい心理描写が記憶に残る。

評価 ★★★

 

イノセント (Hayakawa Novels)

イノセント (Hayakawa Novels)

 

「大統領暗殺特急」ジェイムズ・セイヤー

要人暗殺を主題としたスリラーは数多く、〝ターゲット〟も千差万別だが、中でも米国歴代大統領は世界に及ぼす影響もあり、標的リストの「筆頭」といっていい。特に、第二次大戦において戦況を左右する重要人物の一人であったルーズベルトは、ヒトラーチャーチルと同じくいまだにフィクションの中で狙われ続けている或る意味〝気の毒〟な存在でもある。
1986年発表の本作は、ナチス/ドイツの命運を懸けたルーズベルト暗殺をテーマとする。計画段階から実行までをストレートに描き、スピード感溢れる展開で読ませる佳作。やや情感には欠けるが、主人公を含めた登場人物の造型にはそつがない。本作の肝は、ドイツ本土から暗殺者を送り込むのではなく、米国内捕虜収容所に捕らわれていた工作員を利用するということ。協力者を得ての脱出から逃走、計画立案と武器調達、最終的に大統領専用列車を狙った実行段階まで、随所でエピソードを盛り込み、飽きさせない。


余談だが、翻訳を作家の赤羽尭が担当しているのだが、文体は硬く、中途で力尽きて交代している。途端に読みやすくなるのは、やはり「本業」の差か。

評価 ★★★

 

大統領暗殺特急〈上〉 (扶桑社ミステリー)

大統領暗殺特急〈上〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

 

大統領暗殺特急〈下〉 (扶桑社ミステリー)

大統領暗殺特急〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

「死者との誓い」ローレンス・ブロック

1993年発表のマット・スカダー・シリーズ第11作。これまでの重苦しい焦燥/無常感は薄まり、全体のムードはさらに明るくなっている。だが、読後に違和感しか残らなかったのは、初期作品では顕著だった詩情が失われていたためだろう。老成したとはいえ筆致は枯れており、物語自体にも精彩が無い。
前作「獣たちの墓」(1992)でも朧気に感じていたことだが、ブロックが本シリーズを書き続ける意義に疑問さえ抱いた。危なげない禁酒生活を送る中、伴侶を得ようと望む探偵。数多の苦境を乗り越え、ようやくスカダーが幸せを掴もうとしている情況は感慨深いが、人生の迷いや社会悪への憤りも同時に消え去っていると感じた。無論、探偵が須く孤独でなければならないという訳ではないが、社会の底辺で生きる人々への共鳴、理不尽な悪との対決へと至る流れは、孤影が色濃いからこそストレートに心に響いた。多くを語らずとも、暗鬱な事件を通してスカダーの過去と現在の有り様は鮮やかに浮かび上がった。
無力であることを自覚した男の為し得る最悪且つ最善の決着。その激情の中で迎える結末は、孤独な男/スカダーであればこそ得られたカタルシスだった。

かつてブロック自身が述懐しているように、主人公を破滅の一歩手前まで追い込んだ「八百万の死にざま」(1982)の壮絶な幕切れをもってシリーズは〝一応〟完結している。その余韻のままに回想へと繋ぐ秀作「聖なる酒場の挽歌」(1986)は別として、その後の作品についてはスカダーが主人公である必要性はない。ノワールへの傾斜を深めた、いわゆる「倒錯三部作」は、元アル中のヒーローという設定無しでも充分成立しただろう。
続編を重ねるほどに探偵の私生活を綴る量も増えているようだが、ロバート・B・パーカー/スペンサーの如き腑抜けた人生訓/ディスカッションを延々と読まされる苦痛と同じく、淀んだハードボイルドの残滓のみを私は読み取ってしまうのである。
罪と罰」とどう向き合うか。その主題は変わらずとも、事件に私的情動が絡む要素は減り、第三者/傍観者としての立ち位置が固まり、物語の強度は明らかに弱まっている。変貌したシリーズを熟成した「大人のミステリ」として楽しめる心の広い読者であれば問題はないだろうが、世慣れた警句を挟みつつ「本格的な謎解き」にいそしむスカダーに、私は魅力を感じない。
初登場時は「リュウ・アーチャーへのニューヨークからの返答」というキャッチフレーズが相応しく、現代ハードボイルドの「手本」ともなる作品を送り続けていた。だが、一端は頂点を迎えた後、徐々にボルテージは下がっていく。かつて自らが生きた吹き溜まりを硝子越しに観察する冷徹さ。賢く生き、立ち振る舞うすべを学んだ狡猾さを、近作のスカダーには感じてしまう。恐らく次作を読むことで、その思いはさらに強まるだろう。

評価 ★★

 

死者との誓い (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

死者との誓い (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

 

 

「暗号名レ・トゥーを追え」チャールズ・マッキャリー

ジョン・F・ケネディ暗殺事件は、20世紀における米国史上最大のミステリともいわれている。今も数多の陰謀論の種子となっている要因は、混迷した世界情勢下で国内外問わず「敵」と目されていた存在があまりにも多く、加えて各々が多種多様な動因を抱えているため、いわばどこの国/組織/人物であっても首謀者で有り得るという、極めて不明瞭つ複雑に絡み合った因子を持つからだろう。決め手に欠けるオズワルド単独犯説を疑問視し、まことしやかに流布する種々雑多な「真相」。この格好の〝素材〟は、ジャーナリズムの世界ばかりでなく、小説家らの創作意欲をも搔き立てきた訳だが、史実に如何にして斬新な脚色を施し、リアリティを保ちつつ魅力的な作品に仕上げるかは、当然のこと創作者の腕次第となる。1974年上梓の本作は、暗殺の真相に肉迫する迫真性をそなえていることはもちろん、元CIA局員マッキャリーならではの情報収集/分析力と、作家としての優れた技量が見事に結実したスパイ/スリラーの傑作である。

米軍介入後泥沼化の一途を辿ったベトナム戦争。物語は、その序章となるクーデター、1963年11月1日南ヴェトナムでのゴー・ディン・ディエム大統領殺害を発端とする。南北対立が深まるヴェトナムの地で、身分を偽装し諜報活動に従事していたCIA工作員ポール・クリストファーは、ケネディ暗殺の報を受け、ディエムの死との関連性を直観する。陰謀の臭気を嗅ぎ取り独自に調査を始めるが、重要な手掛かりはディエムの血縁者がもたらした「レ・トゥー」という不可解な暗号のみだった。全世界が不穏な空気に包まれた中、クリストファーは身辺に危険を感じつつも、謀略と暴力の渦中へと乗り込む。やがて、ヴェトナム古来の因習に起因する闇の力、凄まじい復讐の情念が眼前へと姿を現す。

マッキャリーは、冷戦期真っ只中の勢力図を俯瞰した上で、時代背景を的確に整理し、臨場感溢れる舞台を用意している。見過ごされてきた事実を抽出してパズルのピースを填め直し、1963年11月22日のダラスへと繋がるプロセスを再構築、冒頭で組み立てた物語の核となる大胆且つ緻密な推論から導き出された瞠目すべき結論/真相を立証する。
終幕に向かって加速度的に緊張感を増す展開。精緻な構成力と洗練された筆致も素晴らしく、深みのある人物造形、哀感に満ちた情景描写によってプロットの強度を高め、熟成したスパイ小説としてまとめ上げている。特に、詩人でもある主人公クリストファーの陰影に富む言動は味わい深く、出番は僅かながらも忘れ難い印象を残す誇り高き男、ディンペルとのエピソードは、非情な世界であるからこそ、より一層詩情が際立つことを物語っている。
論理と情理の結晶、読後の余韻も格別だ。

評価 ★★★★★

 

暗号名レ・トゥーを追え (扶桑社ミステリー)

暗号名レ・トゥーを追え (扶桑社ミステリー)

 

 

「ケンブリッジ・シックス」チャールズ・カミング

スパイ小説は当たり外れが特に多いジャンルで、ル・カレやグリーンを継ぐ、フォーサイスと比肩する、注目の大型新人登場など、威勢の良い宣伝常套句の大半は眉唾物なのだが、中には大傑作も当然含まれているため、読書リストから外すわけにはいかない。だが、翻訳で500ページを超える作品が中盤に行き着くまでもなく完全に駄作だと分かった場合、放り出すことなく「何故駄目なのか」に着目して読み進めることがある。2011年発表の本作も同様。前評判のいい加減さを見事に証明するもので、後半は溜め息をつきつつ、逆に「この小説の面白さが分からない」私は読解力が足りないのだろうか、と不安を覚えたほどだった。

カミングは英国秘密情報部に「リクルートされた」経歴を持つらしいが、最近では元スパイという肩書き自体珍しくなく、その経験が生かされるかどうかは、当然「作家」としての素質/才能に依る。題材となる英国秘密情報部の汚点「ケンブリッジ・ファイブ」は散々使い古されており、5人組以外にも二重スパイが存在したかもしれないという設定も安易だ。敢えてこのテーマに挑戦するからには、斬新な切り口と意外性を組み入れ、料理の仕方に相当の腕を要求されるところだが、本作に関しては素材もスパイスも料理人も凡庸で味も素っ気もない。
さぞや6人目のダブルスパイが再び英国を揺るがす脅威となり、「国際情勢を左右する事実」がどのような顛末を辿るかにも大いに期待していたのだが、結末を読み終えても一切分からない。というよりも、プロットは早々に破綻しているため、間抜けな登場人物らがひたすらに空回りする笑えない滑稽さのみが記憶に刻まれていく。終始、主人公のとぼけた歴史学者が「重大な秘密」を探るために身勝手な汗をかきつつヨーロッパを右往左往して要らぬ騒動を巻き起こし、それをヒロインらしき工作員が何のメリットがあるのか皆目不明なままフォローする。終盤に至っては出来の悪いパロディーで、つまらない物語をさらに最低のレベルへと引き下げている。単に呆けた老人に振り回されていたという醜態。何ら得ることが無くても、大きな秘密を握ったらしい主人公は、英露にとっては多額の口止め料を支払う価値を持つ人物となったようなのである。慰謝料や生活費で借金まみれの主人公には大助かりの結末なのだが、単なる道化を恐れる理由が何一つとして伝わらない。「ケンブリッジ・ファイブ」との関わりや秘史も皆無で、著者はSISに主人公と同じく箝口令でも敷かれているのだろうか、と馬鹿なことを考えて憂さを晴らすしかない。

まとまらないプロット、全編緊張感に欠け、展開も違和感しか残らない。さらに、視点が脈絡を無視して変わるため、いま誰の言動を読んでいるのか混乱する。要は使い手によっては効果を上げる技法が、完全に失敗している。登場人物は多いのだが、造形が浅く、主人公をはじめとして魅力的な人物は皆無だ。
相変わらず某サイトでは、絶賛のレビューが溢れていたのだが、この程度の凡作で楽しめることが不思議でならない。そもそも、どんでん返しなどあっただろうか。もしくは、私は別の作品を読んでしまったのだろうか。

評価 ☆

 

ケンブリッジ・シックス (ハヤカワ文庫NV)

ケンブリッジ・シックス (ハヤカワ文庫NV)

 

 

「クリスマスのフロスト」R・D・ウィングフィールド

日本でも根強い人気を誇るフロストシリーズ。下品でくだらない冗句を吐き、警部でありながら単独行動を好むという著しく管理能力に欠ける一方で、憎むべき犯罪に対しては鋭く臭覚を働かせ、粘り強く犯人に迫っていく持久力を持つ男。極端な仕事中毒者として描いているが、裏を返せば私生活が満たされない孤独な一面もあるということだろう。主人公以外にもクセのある人物を多数配置することで、より一層フロストの変人ぶりが際立つのだが、デフォルメはドタバタ喜劇となる一歩手前で抑えられ、展開の邪魔にはなっていない。本作は1984年発表の第1作。放送作家としてラジオドラマに携わったウィングフィールドの経験が生かされ、その筆致はテンポが良く、ひたすらに読者を楽しませようという意気込みに溢れている。ただ、警察小説としてはボリュームがあるため、もう少し引き締めても良い気がした。物語はいわゆるモジュラー型で、同時進行で幾つもの事件を手掛けていく。まとめ上げるには相応の力量がいるが、雑になることなく整理している。ただ、読み終えて心に残るものは何も無いのだが、さっぱりとした軽い味わいも魅力のひとつなのかもしれない。

評価 ★★★

 

クリスマスのフロスト (創元推理文庫)

クリスマスのフロスト (創元推理文庫)

 

 

「収容所から出された男」ブライアン・フリーマントル

多作でありながら常に水準を超えた作品を精力的に創作し続けるフリーマントル1974年発表作。非情なスパイの世界を冷徹に描いた傑作「別れを告げに来た男」を前年に上梓、デビュー作にして驚異的な完成度を誇っていたのだが、第2作も期待を裏切らず、才能豊かな作家の実力と幅の広さを実感できる。ただ、本作のプロットは異色で、ソ連強制収容所での暗鬱な幕開けが終わり本筋に入ると、予測不能の流れとなり、従来のスパイ小説の定型から外れていく。
仇敵の策略によって失脚したブルトヴァは、収容所内で自殺寸前のところまで追い詰められていたが、熟練の対外交渉専門家を急遽必要とした政府上層部の命により地獄から這い出る。ブルトヴァは首を吊るための紐を収容所内の友人に譲り、再び国家の仕事に就くこととなるのだが、この短いプロローグは衝撃的な終幕への伏線となっている。
ブルトヴァは、ノーベル文学賞候補者となった若い男バルシェフのために、財団などへの圧力を含めた交渉の任に当たる。ソ連にとって、反体制作家の象徴ソルジェニーツィンの轍を踏ませることなく、純度の高い文学者を輩出し世界の認知を得ることは、軍事力ではない民族的/文化的な威厳へと繋がる国家的プロジェクトであった。巧妙且つ狡猾な交渉術を駆使し、ブルトヴァは目的を達成するが、その先さらに大きな問題となったのは、作家を引き連れての西側諸国への講演旅行だった。荒んだ資本主義社会が情緒不安定で脆弱な文学者に与える悪影響は測り知れず、しかも取材に同行するピューリッツア賞受賞の写真家は男色家で、下手をすれば収容所から出された男の命取りとなりかねない。案の定、バルシェフは訪問先のアメリカで失態を演じ、必然的に監督責任を負うブルトヴァは追い詰められていく。不信と裏切り、色と欲、国家的な思惑と陰謀が絡み合い縺れる中、老境の男の眼前で、再び地獄への扉が開かれようとしていた。

息遣いまで伝わる卓越した人物造形と、それぞれの心理的葛藤を踏まえた情景描写、ラストシーンでの重苦しい述懐を高める緻密な構成。その筆致は熟成しており、なるべくして作家となったフリーマントルの力量をあらためて思い知る。原題の意は「立ち去る時はわたしを見て」。感傷的でミステリアスなタイトルの真意を、どう捉えるかは読者に委ねられているが、生き残りを懸けた私闘の果て、激情のままに主人公が吐露する最後の一文に、全ての答えが表出されていると私は感じた。

評価 ★★★★

 

収容所から出された男 (新潮文庫)

収容所から出された男 (新潮文庫)

 

 

「水時計」ジム・ケリー

ケリー2003年発表の処女作。地味ながらも繊細な文章で、舞台となる地方都市イーリーの冷たくも美しい情景を描き出している。凍結した川から引き揚げられた車に身元不明の他殺体が発見される冒頭から、嵐の中で殺人者と対峙する終幕まで、物語の底流には淀んだ水がうねり、渦巻く。主人公ドライデン自身が水に呪われた存在で、不慮の事故によって運転していた車が水没、同乗の妻のみが長期にわたる昏睡状態へと陥っている。新聞記者でありながら、取材には旧友のタクシーを利用。そのトラウマが追い掛ける殺人事件と絡み合うことで物語に厚みが増し、単なる謎解きから脱している。だが、事件の鍵となる多くの事実は知己の刑事からもたらされているため、記者としての力量が感じ取れず不満が残る。ただ、過去と現在を繋ぎ真相を探っていくプロットは緊張感に満ちており、陰影のある世界観にも好感が持てた。

評価 ★★★

 

水時計 (創元推理文庫)

水時計 (創元推理文庫)

 

 

「ノーブルロード」ピーター・ローダー

1986年発表作。英国女王暗殺を巡るサスペンスで、謳い文句も「フォーサイス以来の大型新人」と威勢はいいが、実力の差は歴然としており、かえってローダーには有り難迷惑だったのではないか。全体的にリアリズムに乏しく、構成力も弱い。プロットは、IRA分派で武闘派組織INLAの暗殺者が、ダービー当日の競馬場パドックで出走馬を見る女王を射撃しようというもの。計画は当然のこと事前に察知され、その攻防を主軸として展開するのだが、メインとなる暗殺者を含めて造型が浅く、数多登場する人物らの行動に玄人の仕事ぶりを感じ取ることはできない。同じ主題となるフォーサイスジャッカルの日」が如何にプロに徹した傑作だったかを思い知るのも皮肉な話だが。

評価 ★

 

ノーブルロード (集英社文庫)

ノーブルロード (集英社文庫)

 

 

「死角」ビル・プロンジーニ

1980年発表、私立探偵〝名無しのオプ〟シリーズ第6弾。初登場時は、狂的なパルプ・マガジン蒐集家にして、肺癌の恐怖に怯えるヘビースモーカーという設定で、ネオ・ハードボイルドの一角を占めていたが、前作「暴発」で煙草をきっぱりとやめており、探偵自身の行状について語ることも減っている。ただ、静謐な文体と、全体的にくすんだ色調はそのままで、軽口を叩かず、真摯に真相を追うオプの姿勢は、読んでいて心地良い。批評家らが散々指摘していることだが、プロンジーニは謎解きを主体とする本来のミステリにこだわる小説家で、本シリーズも探偵のライフスタイルよりも、手掛ける事件の不可解性と事実を追い求めていく過程で生じるサスペンスに軸を置いている。短期間で二つの家族に起こる悲劇と偶然がもたらす不条理な連続性。骨格のしっかりした物語は、シャープで切れ味も良い。

評価 ★★★

 

死角 (新潮文庫 フ 12-4 名無しの探偵シリーズ)

死角 (新潮文庫 フ 12-4 名無しの探偵シリーズ)