海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「スカイトラップ」ジョン・スミス

1983年発表、ジョン・スミスの処女作。翻訳本表紙カバーは、冒険小説ファンの心をくすぐる安田忠幸の装画。だが、素晴らしいのはそこまで。結論から述べれば、滅多にないほどの駄作なのである。その分インパクトがあり、逆の意味での面白さはある。版元の宣伝文句ではギャビン・ライアル張りのスリラーと褒めちぎっているらしいから、著者はパロディーではなく、大真面目に「スリラー」を書いたのだろう。実際、数箇所で失笑したが、笑い転げるようなシーンは無かった。
では、いったい何が駄目なのか。

まず、航空冒険小説で必要不可欠な「大空を駆け抜けるロマン」が微塵も味わえない。主人公は、自らの操縦ミスにより同乗していた副操縦士ら二人を死なせ、重度の飛行恐怖症となったパイロット、スティーヴ・リッチー。数年後、未だに「飛べない」操縦士であることをわきまえず、アフリカのマラウイからイスラエルまで、双発機ドルニエを運ぶ仕事を請け負う。単に客として搭乗した飛行機の中でも極端に脅え、常に酒が手放せない何とも頼りない男でありながら、眼前のカネに目が眩み、安々と引き受けるのである。
やがて、依頼主の目的は南アフリカの企業から強奪したダイヤモンドの密輸だったことが分かる。その秘密を知るタイピストが殺されるのだが、驚くべきことに、その女はリッチーの元恋人だった。英国で別れた女が、遠く離れたマラウイの飛行機販売会社に雇われていたというご都合主義。リッチーは、悠々自適に暮らす飛行士仲間の男と結託し、密輸の途上でダイヤモンドを掠め取る姑息なプランを練る。過去、一度は愛した女の復讐を遂げようという感情など端から湧かず、以降はカネに執着し、さっさと飛行士の免許を返して、ヨーロッパの避暑地で余生を暮らすことを夢見るのである。
だが、いざドルニエに乗り、怖々と操縦桿を握り締めたまではいいが、つきものの悪天候でひたすらにパニックに陥る。自信喪失から立ち直るどころか、早く飛行機を降りたくて身悶えるという醜態を曝すのである。しかも、中途で間抜けにも密輸品を載せた飛行機を「悪漢」どもに奪われてしまうという始末。以後、虚脱するエピソードが続く。

肝心の飛行シーンは全体の3分の2辺りを過ぎてから。とにかく滑稽なほどびびりまくる情けない男に、感情移入など出来るはずもなく、斬新な「ヒーロー像」のみが植え付けられていく。
冒険小説としての評価以前に小説としての完成度が低い。執筆当時は現役パイロットだったらしいが、飛行機に対する愛情も、刺激的な操縦シーンも、空への憧れ/冒険心が一切伝わらないのは致命的だ。翻訳にして350ページだが、本来ならば見せ場となる飛行シーンは僅かで、しかも魅力に欠けている。殆どがダイヤモンド密輸に関わる悪党らとのやりとりに費やしているのだが、物語は全く進展しない。ミステリ仕立てにしているのは良しとして、謎解きは途中で放り出しており、ぶつ切りの構成のために、スミスが何を骨子として描こうとしたのかが皆目不明となっている。
要は作家として素人であり、修練無きままに書き殴った印象しか残らない。致命的なのが主人公の設定で、撤退した俗人ぶりを発揮し、倫理観に欠け、含蓄のある台詞や空の男としての矜持が無い。下手な冒険小説でも本作に比べれば良作として評価を上げることだろう。

冒険を通して恐怖心を克服する、それこそ描くべきテーマではないか。

「幸運」にもスミスの別の作品が翻訳されているようなのだが、それこそ怖くて手が出せない。

評価 ☆

 

スカイトラップ (ハヤカワ文庫 NV (386))

スカイトラップ (ハヤカワ文庫 NV (386))

 

 

 

「警部、ナチ・キャンプへ行く」クリフォード・アーヴィング

米国の大富豪ハワード・ヒューズの自伝捏造によって世間を騒がせた異端の作家アーヴィング1984年発表作。その経歴とは裏腹に、本作はナチス強制収容所を舞台に、戦時下での「正義のあり方」を問い直す、実直で揺るぎない信念を感じさせる力作である。

原題は「ジンの天使」。ジンとは、ドイツ占領下のポーランド内にある架空の町を指し、ナチスは1日に2千人近くをガス室送りにする強制収容所を置いていた。極めて「機能化」された地獄のシステムに組み込まれ、同胞抹殺の「補助役」となり、目前の死を辛うじて回避していたユダヤ人たち。その集団の中で不審死が相次ぐ。傍には不可解なメモが残され、正体不明の殺人者は「死の天使」と呼ばれた。無秩序が加速し捕虜のコントロールが利かなくなることを恐れた所長は、事態収拾のため、犯人の炙り出しに着手。ベルリン刑事警察から派遣されたのは、道理無き戦争を忌避し、未だナチスの非人道的犯罪の実態を知らぬパウル・バッハ警部だった。

ホロコーストによって屍の山が築かれるすぐ隣りで、連続殺人を捜査するという暗鬱なるアイロニーと堕落した人倫を補完するニヒリズム。囚われの身でありながらもユダヤ教の特殊な戒律を守ろうとする人々。自国の蛮行に対して反発しながらも反逆者の烙印を恐れて命令に従うバッハだったが、真摯に捕虜らと向き合い、捜査を続けていく中で、ナチスの異様で異常な精神崩壊/国家の末路を直視する。
やがてドイツ国内のゲットーで反乱が起こり、人員整理のため、ジン強制収容所の閉鎖が決定される。だが同時期にジンの捕虜らは、武器と金を調達した上で武装隆起の計画を進めていた。バッハは地道な捜査によって「死の天使」の名を突き止めるが、事態はすでに後戻りできないまでに狂い始めていた。

終局での凄まじい高揚と破滅。ドイツ人としてではなく、一人の人間として「正義」を全うしようとしたパウルの非業。戦争下に於ける非人道/残虐性の末期を重苦しい虚無感とともに描き切ったクライマックスは、本作が優れた戦争小説でもあることに気付かせる。
ユダヤ強制収容所での反乱は、実際に300人が脱走に成功した(直後にその殆どが命を落としている)というソビボルをはじめ、幾つか例がある。アーヴィングは事実と虚構を巧みに織り交ぜながら、余韻の残る劇的な物語に仕上げている。

評価 ★★★★

 

 

「地獄の家」リチャード・マシスン

「幽霊屋敷」を舞台とするモダンホラーの先駆であり、ジャンルの開拓者でもあったマシスンの存在を知らしめた一作。
残虐非道の限りを尽くした狂人の霊が取り憑いた家。物理学者夫婦と霊媒師の男女という相反するチームが、その実態を解明すべく乗り込む。想像を絶する怪奇が相次ぐ中、超常現象を電磁パルスによって「解釈」しようと試みる学者は当然のこと挫折。その妻は「憑依」されて死との境界を彷徨う。霊媒師らは「交信」には長けているものの、対抗手段を持たず非力。跋扈する悪霊は、もてあそぶように4人をいたぶっていく。

文章は簡潔でテンポは良い。ただ、今読めば古めかしく感じ、物足りさが残るのは仕方がないことか。オカルトにはもう少し妖しさが欲しい。ミステリの片隅を占めるホラーは、日本でも一時期量産されたように比較的創作しやすい分野といえるが、相当な実力を備えていなければ、完成度を高めることは難しい。化け物や超常現象を適当に散りばめれば良しではなく、実感として得られる恐怖を読者に与えるためには、かなりの技量がいる。モダンホラーは「怖くない」という定評は、一部の例外を除いて誤りではなく、すでに古典的な本作においても然りなのである。

評価 ★★

 

 

「声」アーナルデュル・インドリダソン

孤独な生活を送っていたドアマンがホテルの地下室で惨殺される。
かつて男は、美しい歌声で人々を魅了したことがあった。だが、避けて通ることのできない変声のため、スポットライトを浴びた初舞台で、一瞬にして「ただの少年」へと変わったのだった。厳しく指導し息子に期待を懸けていた父親。失望と嘲笑、果ての転落。以降の人生はもはや「余生」に過ぎなかった。人々との関係を絶ち、人畜無害となっていた男を殺害した動機とは何か。レイキャヴィク警察の捜査官エーレンデュルは、私生活でのトラブルを抱えつつも、濁りきった事件の底に沈殿する鍵を求めて、再び水中深くへと潜り込んでいく。

インドリダソン翻訳第三弾。「家族」を主題とする著者の主張がより明確となり、前面に出てきている。本作では、親と子の関係性を問い直す三つのケースを扱い、マイノリティに関わる現代的な問題も絡めている。その中心となるのは、世捨て人同然となった男の半生なのだが、挫折の容量は重いとはいえ、人間の業に思いを馳せるような悲劇性は高くない。捜査を主導する主人公エーレンデュルの家族関係とのリンクを一層深めているため、軸となる事件自体の強度が弱められた感じだ。テーマを深めるためのメッセージ性が過多となり、肝心の物語が薄くなってしまっている。前2作「湿地」「緑衣の女」に比べてプロットの構成力も弛緩しているのは残念だ。

評価 ★★★

 

声 (創元推理文庫)

声 (創元推理文庫)

 

 

「過去からの狙撃者」マイケル・バー=ゾウハー

スパイ/スリラー小説の醍醐味を堪能できるバー=ゾウハー1973年発表の処女作。二重三重に仕掛けを施したプロットは、後の「エニグマ」、「パンドラ」で更に深化するのだが、無駄なく引き締まった本作も決して引けを取るものではなく、綿密に練り込まれた構成の巧さには舌を巻くしかない。入り組んだ謎がクライマックスで一気に氷解するロジックの快感は、柔な〝本格推理モノ〟を軽く凌駕する。さらにスピード感溢れる展開の中で、眩暈さえ覚える濃密なサスペンスは、終局に近付くほど強烈になっていく。

物語は、ダッハウナチス強制収容所で起きた陰惨な事件を発端とし、70年代米国を皮切りに連続して起こる不可解な殺人が謎をはらんで進行する。ソ連外相が暗殺された翌日、その運転手が同一の銃で殺害された。それだけに留まらず、ヨーロッパでも関連すると思しき犯行か続く。米ソ諜報機関は外相が「人違い」で殺されたと結論を下し、動機を含めて殺害者の炙り出しに着手する。
入り組んだ迷宮の如きパズルを解き明かすのは、一線から退いていたCIA局員ソーンダーズ。やがて、一連の被害者は、第二次大戦中に或る強制収容所に収容されており、その地獄を生き延びたという共通点があることを掴む。ソーンダーズは過去の闇へと潜り、悲劇的な事実のみならず、今も燻り続ける復讐の火種を目にする。だが、瞠目の真相は、まだ氷山の一角にしか過ぎなかった。

先の見えない冷戦時にデタントへと向かう一方で、勢力均衡が崩れることを恐れ、前例のない緊張関係にあった米ソ首脳の謀略。「平和」へと傾き始めた動きに反発する一部政府/軍上層部排除の目論み。個の報復と国家の陰謀が複雑に絡み、事件が予想外の様相を見せる中、ソーンダーズは卓越した分析/解析力を駆使し、終幕に於いて大胆且つ卑劣極まりない策略の全貌を明らかにする。

空虚で苦いラストも余韻を残す。バー=ゾウハーの超絶技巧が冴え渡る傑作だ。

評価 ★★★★★

 

過去からの狙撃者 (ハヤカワ文庫 NV 160)

過去からの狙撃者 (ハヤカワ文庫 NV 160)