海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「葬儀屋の未亡人」フィリップ・マーゴリン

1998年発表のサスペンス。いささか強引な部分はあるものの、随所でツイストを利かせつつ、ミステリの定石を踏まえた仕掛けを施している。成り上がることを人生の基軸に置く者が、傲慢さ故に崩壊する有り様を生々しく描き出す。
〝一応〟の主人公である若い判事クィンの高潔だが脆弱さな人格を踏まえた犯罪計画。心理的なトラップにまんまと嵌まり、徐々に追い詰められていく男の焦燥は終盤に向かうほど重くなっていく。読み手のイライラ感は煽られる一方なのだが、作家の優れた技量の証しなのだろう。

 評価 ★★★

葬儀屋の未亡人 (ハヤカワ文庫 NV (1001))

葬儀屋の未亡人 (ハヤカワ文庫 NV (1001))

 

 

 

「さよなら、シリアルキラー」バリー・ライガ

カテゴリは〝ヤングアダルト小説〟という私自身は食指が動かない分野に属しているが、散々使い古された題材「サイコキラーもの」に挑んだ本作は、停滞したミステリ界に幾ばくかの新風を吹き込んで話題となったようだ。

主人公ジャズ・デントは17歳の高校生で、実の父親ビリーは123人を殺害した「21世紀最悪の連続殺人犯」という設定。少年は己に流れる汚れた血を憎みつつ恐れている。いつか狂気に陥り、大量殺人者である父親と同じ轍を踏むのではないか。行方不明となった母親は父親が殺したと信じ、包丁を見る度に自分自身もそれに加担していたのではないかという悪夢に襲われる。実質124人を殺し終身刑となった男と、その息子の関係性は屈折しており、ジャズが時に応じて父親の教えに従う部分もある。本作は良くも悪くも、この枠組みの中で展開する。

死体に様々なポーズをとらせたことから、ビリーは初期に〝アーティスト〟と称されていた。その殺人現場を模した自称「ものまね師」の殺戮が、ジャズの生まれ育った田舎町で再現されていく。父親を逮捕した後に懇意となった保安官を通じて捜査状況を掴んだジャズは、友人と恋人の助けを借りつつ、「ものまね師」の正体を探るために奔走する。本作の肝は、父親の陰惨な凶行を辿らなければ、殺人者に近づけないということであり、主人公の葛藤と抑制、その克服の描き方に力を入れている。

読者層を踏まえて文章や構成は平明でストレート。
ジャズを支える友人と恋人、保安官の存在は、軸となる凄惨な事件を浄化する役目を担っている。ただ、光と闇の狭間で揺れ動く少年の孤独と焦燥を、敢えて重くせずに、ティーンエイジの苦悩と同様のレベルで描いているのは、〝青春小説〟でもある本作の限界点を示し、やや物足りない。さらにいえば、百人以上を殺したビリーの凄まじい闇に触れる心理的な掘り下げがないという欠落も大きい。また、殺人者の息子を捜査に介入させることなど現実にはあり得ないし、第2部へと向けた終盤での警察の無能ぶりなどに、物語としての甘さが際立つのだが、著者はあくまでもジャズの成長を描くことに主眼を置いているため、大方の読者には許容範囲であろう。

本作は三部作の第1弾。終盤で次作に繋がる展開があり、完結していない。

評価 ★★★

 

さよなら、シリアルキラー (創元推理文庫)

さよなら、シリアルキラー (創元推理文庫)

 

 

「優雅な死に場所」レン・デイトン

登場する人物全てが正体を隠し、偽りの言葉で煙に巻く。それは主人公の英国秘密情報部員も然り。名無しの「わたし」は、急場を凌ぎ、僅かな情報の欠片を集めることに留意する。時と場を変えて繰り返される曖昧模糊とした駆け引き。真意が見えず、その言動がどのような目的で、どういう結果をもたらすのか、読み手に対しても明確に判断できる材料を与えない。関係者と接触を図り、相手の足元を照射し、手掛かりを探し求める。濃い靄の中から立ち現れるのは、国家存亡の危機に繋がる敵国の陰謀か、或いは卑しく利己的な策士らの悪業か。

1967年発表となる本作の舞台は、冷戦下のパリ。英国秘密情報部「わたし」の差し当たっての任務は、著名な精神分析学者だという男ダットに「核実験の降下灰の記録」を渡すことだった。だが、指令の目的は定かではなく、対応措置も不明だった。「わたし」は、既に築いていた人脈を利用して、怪しげな診療所を経営し、得体の知れない男女との交流を深めるダットに近付く。やがて、背後に浮かび上がるソ連、中国工作員らの陰。打つべき、次の一手は何か。「わたし」は、更なる迷宮への入り口に向かう。

かつて来日したデイトンは
「わたしの著書は断片のよせあつめとして書かれ、最後にきて、読者は、知識や問題をあたえられるのではなく、一つのムードないしは雰囲気とともにのこされるように配慮されています」
と、メッセージを残している。
つまり、自覚的に難解な代物を創作している訳だ。盤上の駒/歩兵の動きのみに焦点を当て、対局者の姿を一切見せずにゲームの流れを追わせる手法とでもいえばいいだろうか。全体像は明らかとはならないが、読者なりに幾通りにも解釈できる余地を残す、実に厄介なスパイ小説を成立させているのである。

比較対象となる代表格ジョン・ル・カレが「蔭」、デイトンを「陽」とする評が定着しているが、文体や構成のスタイルは当たっていても、諜報戦を「ゲーム」として捉え、得てして不明瞭な終局を迎えるデイトンの方が退廃的/虚無的な読後感が強い。
終盤では、登場人物らに共産主義と資本主義のイデオロギーについて論議させているが、カオス的情況の中から現れてくるものとは、またしても未解決のままとなったアイロニカルな「情報の断片」のみなのである。

評価 ★★★

 

 

 

「逆転のベルリン情報」L・クリスチャン・ボーリング

1985年発表作。垢抜けない邦題もあってか、翻訳された当時は全く話題になっていなかったが、冷戦期の分断ドイツを舞台としたスパイ小説の力作である。
長いプロローグとなる前半で下地をつくり、26年後の二重スパイ狩りへと繋ぐ。壁の築かれた東西ベルリンの臨場感溢れる描写が秀逸で、反共的な視点も極力抑えている。全てを怪しく疑うCIA防諜局長の職業病ともいうべき人間不信や、KGBの現地潜入のやり方を皮肉っている点も面白い。やや浅い人物造形も、練り込んだプロットで補われている。心憎い終幕も用意。決してテンポが良いとはいえないが、スパイ小説の魅力は存分に味わえるだろう。

評価 ★★★

 

逆転のベルリン情報 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

逆転のベルリン情報 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

 

 

「濃紺のさよなら」ジョン・D・マクドナルド

音楽界で「ミュージシャンズ・ミュージシャン」という言葉がある。同業者に少なからずの影響を与えて尊敬を集めているが、必ずしも一般の人気とは一致せず、どちらかというとマイナーな存在。要は大衆的ではないが、玄人受けするクリエイターのことだ。容易には真似の出来ない技量、独自の世界観を持つ孤高さ、業界への貢献度など。無論、なぜ評価されているのかを知るには、その作品に直に触れることが一番の近道となる。
米国ミステリ作家で思い付くところでは、クライムノベルのエルモア・レナード、スリラーのロス・トーマス、そしてハードボイルドに限らずジャンル不問のジョン・D・マクドナルドとなる。日本では、その作品よりもロス・マクドナルド(ケネス・ミラーが筆名としてジョン・マクドナルド、ジョン・ロス・マクドナルドを当初使用)と混同されて迷惑したという逸話の方が知られているかもしれない。
共通するのは、ずば抜けた傑作がない代わりに、安定した良作をコンスタントに発表し、通好みの味わい/洗練したスタイルで根強いファンを持つということ。複雑なプロットよりも人物造型に力を入れ、緻密な構成よりも印象に残る情景を重視、簡潔だがクセのある文体で読者を引き込む。つまり、狭義のミステリへのこだわりが無く、幾通りもの楽しみ方ができる「大人の小説」の書き手である。

本作は、トラヴィス・マッギーシリーズ第1弾で1964年発表作。薄倖の女の弱みにつけこみ、大金を奪い取った男との対決までを描く。常時ヨットに居住するマッギーの生業は、もめごと処理屋/取り返し屋という曖昧且つ特殊なもので、生活費を稼がねばならない時にだけ仕事を請け負うというスタンス。揉め事をさらに引っ掻き回して糸口を探るというやり方はいかにもハードボイルド的。筋立てだけ追えば、いかにもアメリカ的な自由を体現する主人公の楽観さが目立つようだが、一読すれば結構奥深い視点を備えていることが分かる。
叶わないと悟りつつも夢を追いかけざるを得ない市井の人間たちを見つめる主人公の視線は、乾いていながらも深い共感を滲ませている。共同体の中で生きるシニカルな人間観察者として、マッギーは時に応じて社会学的な考察を語る。或る意味、流浪の身でありながらも、現実社会との関わり、その中で生じる軋轢/トラブルから距離を置くことが出来ない不器用さ、裏を返せば誠実さを秘めているのである。さらに、マッギーは己の力を過信した結果、惚れた女を失うことになるが、主人公を完全無欠ではなく、弱さを曝け出す等身大の男としても描いている。物語自体は大きな起伏もなく、謎解きの要素も薄いが、新たなヒーロー小説のあり方を模索する他の作家らに刺激を与えたことは間違いない。

評価 ★★★

 

濃紺のさよなら (Hayakawa pocket mystery books)

濃紺のさよなら (Hayakawa pocket mystery books)