海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「グリッツ」エルモア・レナード

1985年発表作。エルモア・レナードがミステリ作家としては稀ともいえる脚光を浴びて、一躍著名人となった時期にあたる。当時レナードは本作タイトル「グリッツ(金ぴか)」の通り、昂揚感に満ち、充実した生活を送っていたのだろう。本作も生きの良い会話が主体で、刑事とギャング、小悪党らが俗語を用いて丁々発止の掛け合いをするさまが楽しめる。

主人公はやさぐれた刑事モーラ。けちなチンピラに弾丸をくらい療養の身だったが、その後ろ姿を執拗に追う男がいた。復讐の機会を狙うのは、モーラが刑務所送りにした悪漢テディ。人殺しは朝飯前だが、あまりにも小者であることと、予測不能の行動をとるために、尻尾を掴ませない。一方モーラは、療養先で知り合った娼婦アイリスがカジノ・ホテルのホステスとしてスカウトされたことを知る。どうにも胡散臭さを感じたモーラはホテルのオーナーに接触を図るが、アイリスを引き止めることはかなわなかった。悪い予感が当たり、後日アイリスが不審死を遂げる。モーラは、真相を探るべく、ぎらぎらと妖しい光を放つ街アトランティック・シティへと向かう。

クライムノベルを通してアメリカ社会の一断面を鮮やかに切り取り、所謂〝レナード・タッチ〟と称された作風にも更に磨きが掛けられている。
卑しい街に曲者揃いの登場人物を放り込めば、あとは勝手にストーリーが動き出すといった感じで、緻密な構成よりも場面ごとのムードを重視し、躍動感に満ちた展開で読ませる。スタイル的にはチャンドラーの世界に通じるものなのだが、いわばマーロウなどが象徴する孤高のヒーローが不在の中で、本来なら脇役であるはずの男と女が、堂々と主役を張って「俺たちの物語」を創り上げていくといった印象だ。悪徳がはびこる街で、例え生き方は荒んでいようとも、己の信条までは穢さず、守らねばならない者/コトのために立ち上がる。その精神こそがハードボイルドである、とレナードは告げているかのようだ。

評価 ★★★☆

 

グリッツ (文春文庫)

グリッツ (文春文庫)

 

 

「アイス・ハント」ジェームズ・ロリンズ

現在も精力的に創作活動を続けている精鋭の一人ジェームズ・ロリンズ2003年発表作。SFホラーの要素に冒険小説的な活劇をふんだんに盛り込んだスリラーで、著者の迸るエネルギーに満ち溢れた力作だ。恐らくロリンズは、〝読者をいかに楽しませるか〟というエンターテインメント性について相当探究したのだろう。その筆致は極めて映画的でテンポ重視、存亡の機を前にした者どもの壮絶な戦いを〝けれん味〟たっぷりに描いていく。ただし、閉ざされた空間の中で小集団に分かれた登場人物らを同時発生的に危機が襲い、途切れることなく終盤まで戦闘シーンが続くため、逆に読者自身に体力がないと息切れしかねない。

主な舞台はアラスカから北極までの極寒地。北の果てで浮標する巨大な氷島内に何層にも分かれた円形の構築物が発見された。米国は観測/研究のために科学者、軍人らの合同チームを派遣、探索を行うが、旧ソ連が極秘裏に建造した基地に生存者は無く、無惨な状態で放置された死体のみが転がっていた。長期滞在を想定した施設内には様々な実験装置、武器弾薬庫などがあり、最下層には遺棄された潜水艦。さらに、中層から氷山内部へと続く地下道先の氷洞には、凍結した古代の生物が奇怪な姿をさらしていた。一方、同施設の成り立ちから関わっていたロシアの海軍提督が、米国の動きを察知し、既に破綻していた謀略のケリをつけるべく基地奪還に向けて独自に動き出していた。

物語は、功を焦る科学者の手によって長い眠りから目覚めた太古の怪物が人間を襲い始めるくだりから一気に狂乱の世界へと突入し、人類対モンスター、アメリカ対ロシアを主軸に激闘を繰り広げていく。現代兵器のみならず、旧式の武器を手に延々と続く白兵戦。極地での不可解な謎に始まり、超大国の陰謀を絡めて一気にカタストロフィーにまでなだれ込んでいく構成は、大風呂敷を広げながらも力業で読ませる。
中盤からは山場の連続で、絶体絶命のピンチを切り抜けた先に更なる難関が待ち受ける。場面展開が早く、数多の登場人物の行動を同時進行で描くため、下手な作家ならばカオス的な状況に落ちるところをロリンズはその一歩手前で巧くまとめ上げている。また、やや類型的ではあるが、それぞれの過去/現在のエピソードを挿入し、混乱することなく人物を描き分けていることも特筆すべき点だ。とにかく、ロリンズの底知れぬパワーには圧倒された。

評価 ★★★★

 

アイス・ハント (上) (扶桑社ミステリー)

アイス・ハント (上) (扶桑社ミステリー)

 
アイス・ハント (下) (扶桑社ミステリー)

アイス・ハント (下) (扶桑社ミステリー)

 

 

「沈黙の犬たち」ジョン・ガードナー

1982年発表の英国海外情報局員ハービー・クルーガーシリーズ第3弾。クルーガーが築いた東ドイツ諜報網を壊滅させたソ連の宿敵ヴァスコフスキーとの最終的な闘いの顛末を描く。「ベルリン 二つの貌」から繋がるストーリーのため、まず同作を読んでおくことは必須。「…貌」でのボルテージの高さは圧巻だったが、本作ではさらなる盛り上がりを見せる。実力派ガードナーの力量に圧倒される傑作であり、骨太なスパイ小説の醍醐味を存分に味わうことができる。

ソ連諜報機関の最高位で暗躍する英国の長期潜入工作員〝ステントール〟は、己の正体が暴かれつつあることを知り、SOSを発信する。ソ連内部に潜む裏切り者を突き止める任に就いたのは、先の闘いで英国SISに完膚無きまでの打撃を加えたKGB少将ヴァスコフスキーだった。冷徹な智将は、内部に眠る「犬」を炙り出すための計略を実行に移すが、その好餌として選んだのは「…貌」ケースで失墜させたクルーガーに他ならなかった。クルーガーを東側への逃亡を図っている「売国奴」として匂わせ、その接触/過程を通して〝モグラ〟を炙り出す。一方、孤立無援の情況下でヴァスコフスキーへの復讐に燃えるクルーガーは、〝ステントール〟救出作戦とともに仇敵の策略を逆手に取る秘策に着手。かくて機は熟し、双方は凄まじい頭脳戦を展開していく。

本作で特に印象に残るのは、身動きの取れない〝ビッグ・ハービー〟に代わり急遽スカウトされた若き工作員ゴールドのエピソードだ。ソ連に潜入し、〝ステントール〟脱出の手筈を整えるのだが、結局は使い捨ての駒として悲痛な最期を迎える。対立する国家・イデオロギーが闘争を繰り広げるその末端で非情な諜報戦の犠牲となっていく者どもを省くことなくドライに描き切ることは、秀れたスパイ小説のパラダイムでもある。また、熟年クルーガーと女スパイの恋愛模様も挿入するなど、本筋にきっちりと絡む枝葉から、物語は一層の深みを増し、淀むことなく終章へと流れていく。

二重三重に練り込んだ緻密な構成の中で展開する緊張感溢れる腹の探り合い、一気に変転するスピード感に満ちた攻防戦、重厚で哀切な人間ドラマ、怒濤のクライマックスへと向かう疾走感……裏切りの美学ともいうべき高密度エスピオナージュの最高峰として、クルーガーシリーズは改めて評価されるべきだろう。

残念ながらガードナーは既に逝去しているが、ずば抜けたストーリーテリングの才は、巨匠ジョン・ル・カレをも凌駕する。現代スパイ小説は長らくル・カレの牙城で、その他の優れた作家がなかなか脚光を浴びないことに歯痒い思いがあったのだが、特にクルーガー・シリーズにおけるエンターテインメント小説としての完成度/熟成度は、難解且つ冗長なだけの「スマイリー三部作」を超えている。

評価 ★★★★★

 

沈黙の犬たち (創元推理文庫 (204‐3))

沈黙の犬たち (創元推理文庫 (204‐3))

 

 

「ココ」ピーター・ストラウブ

長大なボリュームのサイコ・スリラーで、文学志向の強いストラウブの濃密な筆致のせいもあり、読み終えるのに時間を要した。ベトナム戦争従軍によって重度の神経症を負った者が臨界点に達して殺人者と化す。新鮮味の無い設定だが、どう物語を膨らませ、捻りを加えて展開させるか、作家の腕の見せ所といえる。

本作に登場する主要な帰還兵らは須く心的外傷を抱えており、戦場の血を浴び錆びついた鎖で互いに繋がれている。社会復帰を果たし、それぞれが人生のやり直しを始めても、再び〝戦友〟が集えば極めて特殊な軍人の戒律/指揮系統によって縛られていく。彼らにとっては、その呪縛こそ鬱屈した慰撫へと導くものであり、ベトナム戦争の記憶は日常の倦怠を解き放つ麻薬の如き常習性を伴って脳内にとどまり続け、過去と現在/異常と正常の境界を容易に乗り越えていく。

ワシントンの戦没者慰霊碑完成を機に再会した4人の男は、アジアで起こった連続殺人事件を語り合う。見出だしたのは「ココ」という血塗られた符牒。その名は、或る村での虐殺の悪夢に直結していた。戦場のただ中に出現し、再び甦ったサイコ・キラー。「ココ」は、ソンミ事件を想起させる無差別殺戮の真相を告白するという餌で、かつて現地へと赴いていたジャーナリストらを個々に誘い出し、残虐な殺し方を用いて口を封じていた。「ココ」の正体は、現在小説家として名を馳せていた〝戦友〟の一人であると確信した帰還兵らは殺人者が潜伏する地へと飛んで炙り出すことを画策する。真犯人を突き止めて世間を驚嘆させ、あわよくばカネを生む一大イベントへと変転できるからだ。だが、その深層には暴力への歪んだ崇拝が流れており、その狂気の度合いは「ココ」に引けを取るものではなかった。

 物語は「ココ」という存在が決して異質な化け物ではなく、狩る者と狩られる者、両者の首はいつでも挿げ替え可能であったことを、それぞれの過去と現在のエピソードを積み上げて指し示していく。「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化す」(ニーチェ)ことへのイロニーとして、そもそも怪物を〝創造〟したのは身勝手な征伐を加える側であることも描き出している。相手を〝獲物〟として互いに狩り合う構造は、戦争によって崩壊する精神の脆弱性と「殺す」ことでしか得られないカタルシスの無常観に満ちている。

評価 ★★★

 

ココ (上) (角川ホラー文庫)

ココ (上) (角川ホラー文庫)

 

 

 

ココ (下) (角川ホラー文庫)

ココ (下) (角川ホラー文庫)

 

 

「シンガポール脱出」アリステア・マクリーン

戦争小説の名作として今も読み継がれている「女王陛下のユリシーズ号」(1955年)でデビューを果たしたマクリーン1958年上梓の長編第三作。現代に通じる戦争/冒険小説の骨格を創り上げた初期の作品は、まさに神憑っているとしか例えようがない。映画化された「ナヴァロンの要塞」を機に金銭的に潤ったマクリーンが次第に精彩を失ったという定番化された冷評もあるが、真に「傑作」の名に相応しい雄編を数え上げれば、質・量共に他の作家を凌駕していることは明らかだろう。
海に滅びゆく者たちの一大叙情詩「ユリシーズ」、エンターテインメントとしての冒険小説を徹底的に突き詰めた「ナヴァロン」。さらに極寒のハンガリーを舞台に激烈な諜報戦を描いた「最後の国境線」(1959年)などは、実際にページを捲る指先が凍傷にかかったような感覚に陥ったほどで、極限状態であればあるほどに冴え渡るその圧倒的な筆力は、やはり天性の才能だと認めざるを得ない。

本作は、虚妄に過ぎない「大東亜共栄圏」の旗印のもと、東南アジア諸国へ侵攻した「大日本帝国」を敵役とし、実際に英国海軍従軍中に捕虜となったマクリーンの苦い経験が活かされている。陥落寸前のシンガポールで退路を絶たれた民間人や英国軍人らは、密航船で辛くも脱出するが、座礁して沈没。付近を航行中だった英国籍大型タンカーが生存者を救出したものの、敵の戦闘機の攻撃を受け、救命ボートで洋上を漂うこととなる。だが、不可解なことに日本軍は止めを刺さない。遭難者の中に潜り込んだ敵側スパイ。狙うのは、正体を隠して乗船中の英国将軍の極秘文書。密命を帯びた者とは誰か。灼熱の地獄の中での決死のサバイバルが展開していく。

マクリーンが好んで描くのは、どんな状況であろうと屈せず闘うプロフェッショナルの姿だ。本作の主人公/一等航海士ニコルソンは、常に先頭に立ち、身を挺して危機を乗り越える誇り高く、ストイックな男である。ヒーローとしては申し分のない理想像なのだが、マクリーンは臆することなくストレートに活躍させるため、決して嫌味にはならない。現代の冒険小説では、精神的弱さやハンディキャップの克服も大きなテーマとしているが、決して弱音を吐かず、強靱な精神力/経験を培った男が数多の試練に立ち向かうシャープな冒険行が、雑じり気のない感動を呼び起こすのは、まだ「騎士道精神」的な美学が冒険小説の根底に流れていたからだろう。ラストシーンのぶつ切り感も、硬派なマクリーンの世界を象徴する終幕といえる。

評価 ★★★