海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「象牙色の嘲笑」ロス・マクドナルド 【名作探訪】

1952年発表、シリーズ第4作。新訳を機に再読したが、リュウ・アーチャーの精悍さに驚く。無駄無く引き締まったプロット、簡潔且つドライな行動描写、シニカルでありながら本質を突くインテリジェンス、人間の業を生々しく捉える醒めた視点、抑制の効いた活劇、深い余韻を残して幕を閉じる芳醇なカタルシス。己の信条のみに律する孤高の男アーチャーは、時に過剰なほどにスタイリッシュだ。ハードボイルドの王道を歩んだロス・マクドナルドの技倆は、既に他を圧倒していたと言っていい。

オーソドックスな失踪人捜しから始まる物語は、幾重にも重なる謎を絡めつつ、鬱屈した愛憎に起因する連続殺人の深遠へと迫っていく。筋立ては終盤まで整理されることなく複雑な展開をとるが、一気に氷解する幕引きに至り、極めて緻密で大胆な伏線を忍ばせていたことが分かる。特に、殺人者を指し示す〝象牙色の嘲笑〟が忽然と立ち現れる際の悪寒は凄まじい。アーチャーは修羅場と化したエンディング寸前で、関係者の一人を躊躇うことなく射殺するのだが、冷徹な傍観者へと変わる後年のスタンスを思えば、極めてラディカルな行動主義には感慨深いものがある。

比喩には戦争の後遺症的な頽廃感が色濃い。後になるほどに感傷の度合いを深めていくロス・マクだが、本作の時点では罪と罰のあり方を冷厳と示そうとする揺るぎない信念を感じさせる。

 評価 ★★★★

 

 

「ロンドン・ブールヴァード」ケン・ブルーエン

アイルランド人作家ブルーエンが、影響を受けた犯罪小説家らに捧げるオマージュ。一人称による切り詰めた文体、テンポ良く場景を切り替えていく映像的な手法で、シニカルでダークな世界を構築している。頽廃と昂揚、無情と熱情を対比させつつ、ノワールのエッセンスを凝縮。登場人物らの狂気と紙一重の挙動から伝わるのは、実存的不安を抱えるニヒリズムだ。ただ、ストーリー自体は分かりやすいため、ジェイムズ・エルロイジム・トンプスンの〝危ない〟作品をいきなり読んで拒否反応を起こされるよりも、本作のような〝軽め〟のノワールが入門編として適している。ちなみに、エルロイが主人公憧れの作家として物語の中に登場するが、台詞は無い。

評価 ★★★ 

ロンドン・ブールヴァード (新潮文庫)

ロンドン・ブールヴァード (新潮文庫)

 

 

「ハマースミスのうじ虫」ウィリアム・モール

長らくの絶版で「幻の名作」と喧伝された1955年発表の犯罪小説。一風変わった予測不能の展開は新鮮な面もあるが、今読めばやはり全体的に古い。
証拠を残さずに恐喝を繰り返す男バゴットに憤慨した素人探偵デューカーが、独自に調査し、罠に掛け、自滅する間際まで追い詰めていくという展開だが、筆致と構成が凡庸なために緊張感に乏しい。
登場人物らの造形も深みと魅力に欠ける。己の能力や価値を認めない社会に対して不満を持ち、成り上がることだけを生き甲斐とする劣等感剥き出しの小物バゴット。その通俗的な動因同様、犯罪のスケールも驚くほど小さいのだが、余りにも脆弱故に証拠隠滅を図って最終的には殺人に至る。

実は、私が最後まで解せなかったのは「正義」の側にこそある。人殺しとなる以前の単なる脅迫者の段階で、バゴットを〝悪魔〟のように憎悪する主人公や警察官らの正義感/動機の真意が全く分からないため、物語がさっぱり面白くならない。どう読んでも、人の弱みに突け込んでカネを巻き上げるしか能がないバゴットよりも、ケチな犯罪者の尻を追い掛ける〝高尚な趣味〟を持つ暇人デューカーの執着心の方が「恐ろしい」と感じてしまうのである。恐喝を受けた者らは、多少なりの負い目があるため、理不尽にもカネで解決できたことに一安心していた。だが、或る日突然お節介な探偵もどきが脅されたネタを根掘り葉掘り聞き出し、二次的被害を被る。現代でいえば、人の不幸を売り物にするマスコミの役割に近い。
いわば、悪人と対決するヒーローに憧れる〝素人〟の身勝手な正義感に辟易したと言えばいいだろうか。終盤に至っては単なる嗜虐で、「正義」は成されたと悦に浸る素人探偵の横暴さこそ「うじ虫」の如き卑しさを内包していると感じてしまうほどだった。
「全編に漲る緊迫感と深い余韻」という謳い文句に共感できる点は何一つ無いが、変わりダネの作品であることは間違いない。

評価 ★

 

ハマースミスのうじ虫 (創元推理文庫)

ハマースミスのうじ虫 (創元推理文庫)

 

 

「夜歩く」ジョン・ディクスン・カー

執筆時25歳のカーが1930年に発表した処女作。
いささか緩慢な構成や緻密さに欠ける仕掛け、浅い人物造形などに若さを感じるが、隆盛期にあったミステリの世界に新風を吹き込もうという気概に溢れている。後に開花する怪奇趣味や不可能犯罪への愛執にも満ちてはいるのだが、怨念/愛憎を動機とする殺害の状況は「やり過ぎ」ではないかと感じるほど過剰で、本格物にありがちなトリッキーな不自然さのみが印象に残る。
私の読み落としかもしれないが、第一となる殺人で被害者の首は剣によって切り落とされているのだが、大量の返り血を浴びているはずの殺人者はアリバイ作りのために即刻関係者の前に姿を現している。謎解きの面白さを主眼とするミステリが或る意味厄介なのは、ひとつの引っかかり/疑問が最後まで解けない場合のフラストレーションが、作品自体の評価に繋がってしまう点にある。

存在感の〝薄い語り手〟と〝濃い探偵〟という「本格推理物」ならではの設定は、ポー創始以降、コナン・ドイルが定着させた〝基本〟に倣うもので、大半の読み手が安心感を覚え、推理に没頭できるように形作られている。だが、この手のフォーマットは展開が分かりやすくなる半面テンポが悪くなり、ある程度の技倆が無ければ大した効果を上げない。作家らは、語り手なり探偵に奇抜な造形を施して、新鮮味を与えるように苦心しているのだが、逆に余計な付け足し/邪魔な挿話で終わってしまうことも多い。本作でも、語り手が或る登場人物と恋愛一歩手前までいくという唐突且つ余分なエピソードを盛り込んでおり、それがプロットに生かされているとは言えない。歩み始めたばかりのカーの青さが露呈しているのだが、後の傑作群を思えば、巨匠にも「こんな時代があった」と捉えるべきなのだろう。

評価 ★★

夜歩く (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-2)

夜歩く (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-2)

 

 

「レイドロウの怒り」ウィリアム・マッキルヴァニー

1983年発表、グラスゴウ警察犯罪捜査課警部ジャック・レイドロウを主人公とする第2弾。前作「夜を深く葬れ」よりも更に硬質で濃密な文体となり、一文一文を読み飛ばすことが出来ない。一読しただけでは、重層的な修辞まで読み取ることは不可能だと感じた。思索する刑事レイドロウは、より一層渋みを増し、その一徹ぶりも強固になっている。物語自体は拍子抜けするほどシンプルな筋立てなのだが、レイドロウが歩むほどに情景が揺らぎ、相貌を変えていく。警察小説というよりも、クライムノベルやノワールに近い肌触りだ。
何層にも塗り重ねた油絵のような色彩の群像劇。都市と人間を主題としたアフォリズムの集積であり、人倫の荒廃/軋みを社会学の手法を用いて活写した小説。ミステリという枠組みを超越した「マッキルヴァニーの文学」としか例えようのない世界観で読み手を圧倒する。

評価 ★★★★

レイドロウの怒り―レイドロウ警部シリーズ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1445)

レイドロウの怒り―レイドロウ警部シリーズ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1445)