海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「チェシャ・ムーン」ロバート・フェリーニョ

惹句にはハードボイルドとあるが、サスペンス基調のミステリという印象。主人公クィンは元新聞記者で現在はゴシップ誌のライター。元妻とは友達付き合いを続けており、同じ敷地内にある離れで暮らしながら、幼い一人娘の寝姿を裏庭の木から見守る日々。そんな中、古い付き合いの故買屋が助けを求めてきたが、間もなく不可解な状況で死ぬ。警察は自殺と結論付けるが、納得できないクィンは自死を否定する僅かな手掛かりをもとに独自に調査を始める。一方、クィンの行動に勘付いた殺人者は、その跡を付け回し、命を狙う機会を窺う。

期待して読み始めたが、どうにも中途半端で独自のスタイルがない。翻訳者後書きでは評価の高い作家らしいが、本作を読む限りでは人物に生彩が無く、物語に深みもない。旧友の死を原因を突き止めるために主人公が立ち上がるまではいいが、常に殺人者の影に怯え、弱さばかりが際立つ。肝心の殺人者の造形も物足りない部分が多く、不自然な展開も目立つ。要は総体的に薄く、軽い。ハードボイルドを謳うのであれば、文体にも味わいが欲しい。

評価 ★★

 

「鋼の虎」ジャック・ヒギンズ

「山脈の向こうの空は群青色と青に染まり、太陽がゆっくり昇ってくるにつれ、万年雪の上に黄金色の輝きが拡がった。眼下の谷は暗く静まりかえっていて、聞こえるものといえば、チベットへの迷路をたどるビーヴァー機の、低く、絶え間ない唸りだけだった」
静謐なシーンから始まるヒギンズ1966年発表作(本名ハリー・パタースン名義)。
この臨場感豊かな幕開けから、一気に冒険小説の世界へといざなう。常々感じることだが、冒頭数ページで作家の力量は試される。情景から、台詞から、或るいは背景説明から。作家は、読み手を引き込むための技術を駆使する。経験上、プロローグが駄目な場合は凡作が多い。無論、エピローグで手を抜いた作品も同様。余韻は、何時間も掛けて読み進んできた本編の評価にも繋がる。

主人公ジャック・ドラモンドは、元英国海軍航空隊中佐で、除隊後はフリーのパイロットとしてインドを拠点に活動していた。危険地帯へも飛ぶ〝運び屋〟となり、カネを貯めて早々に引退することを夢見ている。
舞台は中国とインドの国境、雪に覆われた山岳地帯。ここには反中国のチベット人ゲリラのアジトがあり、衝突が絶えなかった。水陸両用機ビーバーを操縦し、台湾工作員の依頼で武器類を運んだドラモンドはインドへと戻り、旧友の軍人らと休養を楽しんでいた。そこへ看護師の若い女ジャネットが訪れ、太守の息子を治療のため米国へ運んでほしいと依頼する。だが、間もなく中共軍の部隊が進撃を開始。ドラモンドが物資を運んだゲリラ部隊は現地人の目を欺く敵の偽装だった。間もなく太守の息子が滞在する村が強襲された。迎えに赴いていたドラモンドだったが、飛行機は破壊されたため、陸路を辿り安全地帯まで逃げ延びることを強いられた。かくして豪雪の山中での決死の逃走と戦闘が始まる。

大仕掛けはないが、戦争冒険小説の骨格はしっかり持っている。無名時代の作品で、恐らく熱心なファン以外は手に取ることもないだろうが、冒険小説を愛する者にとっては読み逃せない。ヒギンズ後期はマンネリ感が否めない部分もあった(逆に安心感を覚える場合もある)が、初期は意欲的に設定に工夫を凝らし、構成も引き締まっている。本作は文庫本で200頁ほどのボリュームだが、密度は濃く、展開が早い。誇り高いアウトサイダーのヒーロー像などは一貫しているが、ストーリー優先のため、主人公の造形はやや弱い。その分余韻は物足りない面はあるのだが、極寒の山岳地帯の情景や、緊迫感に満ちた戦闘シーン、甘いロマンスの要素など、ヒギンズお馴染みの世界が拡がり、ファンであれば楽しめるだろう。
評価 ★★★

 

「陸橋殺人事件」ロナルド・A・ノックス

本職は聖職者という異色の作家で、創作上のルールを定義した「ノックスの十戒」でミステリファンにはお馴染みだろう。創作期間は10年と短く、本人の意志に反して、教会など身内の抵抗にあって断筆に追い込まれたらしい。環境に恵まれなかった不運なノックスだが、処女作となる本作を読む限りでは、シニカルなユーモア感覚の持ち主だったことが分かる。
翻訳本の後書きでも触れているが、冒頭で書き手が「事件発生の場所を架空にする作者は信頼できない」と前口上するにも関わらず、本作の舞台は架空であること。後年に著した「十戒」で提言したフェアプレイの精神に必ずしも忠実ではなく、敢えて定石を破る構成であること。保守的なミステリ界隈を茶化している感があり、その延長線上に「十戒」という堅苦しい戒律を示して、作家や読者の反応を楽しむノックスの捻れた心理が読み取れるのである。

本作のストーリーは暇をもてあました素人探偵が、ゴルフ場近くの陸橋から落ちたと思しき死体を巡り、探偵ゲームに勤しむというもの。本格物の形式を捩った〝メタミステリ〟の一種で、時期的には、この分野での先駆といっていい。深みや味わいはないが、プロット自体は練られており、ストレートなミステリに飽き足らない読者には向いている。ただし、推理合戦のネタとなるトリック用小道具には不自然さが目立ち、こじつけも多い。人物の描き分けも決して巧みとはいえず、整理しきれていない。ただ、遊戯としてのミステリに対する作者の愛情は伝わってくるため、苦笑しながらも楽しむことはできるだろう。
種明かしをする結末のあっさり感は、名探偵が関係者一同を集めて延々と推理を披露する既存のミステリへの当て付けと受け止めることができ、ノックスの得意げな顔が浮かんでくる。

本作発表は本格推理黄金期にあたる1925年。この時代は、主流であったストレートな謎解きものが飽和状態に達し、サスペンスやハードボイルド、スパイ小説などに本格的な書き手が次々に登場して、広義のミステリとしてのジャンルが成熟しつつあった。いわば本格ものを〝変格〟する土壌も整っていた時で、しかも専門作家以外からのアプローチというのも面白い。

評価 ★★★

 

「ヘッドハンター」マイケル・スレイド

スレイドはカナダの弁護士三人(本作以降、共同執筆者は変わっている)による合作チームのペンネームで、1984年発表の本作でデビューした。フォーマットは警察小説だが、サイコスリラーの要素を大胆に盛り込んでおり、全編が異様なムードに包まれている。

不特定の若い女を狙った連続殺人。被害者に目立った共通点や接点は無かったが、殺人者は犯行後に首を持ち去っていた。連邦警察機構のディクラーク警視率いる特別捜査本部は、各分野の俊鋭を隊員として招集し、異常犯罪者らの洗い出しを始める。犯行は止まることなく、殺人者から挑発のメッセージも届く。やがて浮かび上がってきたのは、ハイチ発祥のブードゥー教にまつわる黒魔術で、殺人鬼が個人ではない可能性も出てきた。その後も一向に捜査は進まず、過去に妻子を惨殺されるというトラウマを抱えていたディクラークの精神状態は悪化していく。

どうにも良くない。サイコスリラーと捜査小説のごった煮で、読み手はかなり苦戦を強いられるだろう。章立ては短いが、無駄に登場人物が多く、しかも時代や場面が頻繁に飛ぶため、テンポ良く読み進めることが難しい。文体も一貫性がなく、ゴシック体なども意味なく多用する。合作の弊害故か構成も粗い。伏線らしきものを大量に挿入しているのだが、殆どは回収されることはなく、単にエキセントリックなカオスだけが印象付けられていく。情報は整理されないまま散らばり、状況が分かりづらい。一応ディクラークを主人公に据えてはいるものの、視点のブレが激しいため物語の軸が安定しない。文体は異常心理と幻想が織り交ぜになっており、しかも主役級の刑事まで心的外傷によって暗鬱としたエピソードを繰り返すため、タチが悪い。真相には捻りを加えてはいるが、この人物が真犯人だろうという察しはつくため、衝撃度は弱い。

マイケル・スレイドについては、先に「髑髏島の惨劇」を読んでおり、異色の本格ミステリとして読後感は悪くはなかったため、本作も期待して読み始めたのだが、どうやら出来不出来は激しいようだ。

評価 ★★

 

 

ミステリと「差別的表現」

英国の出版社ハーパー・コリンズ社がアガサ・クリスティーの作品を対象に「差別的表現」を削除した改訂版を出すと報じていた。「現代の読者にとって不快と思われる表現」について出版社独自の判断で修正を加える訳だが、当然物故している作者の〝意志〟は不問となる。クリスティーを選んだ理由は、恐らく国民的作家であり、その作品が世界中で読まれているからだろう。勘ぐれば、英国を代表するミステリ作家が「差別的表現」を使うことは許されない、という意図があるのかもしれない。同社以外でも、既にロアルド・ダールの児童書などにも変更が加えられているという。

当たり前だが、ミステリに限らず文学/芸術は、その作品が生まれた時代、社会的状況、そして作者自身の思想を反映するものだ。読者は人種や性、階級や障害者らに対する差別的表現に触れることで、その時代に何が〝問題〟であったかを識る。
そもそも〝由緒正しき名探偵〟は差別的発言をしない/してはならない、という定義がおかしい。ミステリの主人公が聖人君子である必要性など無く、まして「本格ミステリ」に登場するようなアクが強く高慢ともいえる探偵らが、平然と人種差別の言動をするさまに読者が違和感を覚えることなど殆どないだろう。たとえエルキュール・ポアロが論理的ではない先入観のみで「ユダヤ人」を侮辱する発言をしたとしても、当時の英国における偏見/差別、その社会的認知が登場人物/語り手に投影されているだけであり、それはクリスティーと大半の読者が共有していた価値観/通念であったに違いない。これは何処の国でも同じであり、日本の文学など差別的表現で溢れかえっている。小説では、主要な人物(もしくは書き手)の偏った思考や行動はストーリー展開にも大きく影響することもあるため、安易に削除すればプロットの根幹をも破壊しかねない。

だが、出版社の余計な配慮によって、それらは「無かった」ことになる。あたかも差別無き平等な社会であったと誤解させることは、極端に述べれば歴史の改竄に近く、作品そのものの価値をも歪める。「差別的表現」を削除する対象が、優生思想に基づくあらゆる差別遂行を主張したアドルフ・ヒトラーの「我が闘争」ではなく、クリスティーの大衆的ミステリだから「許される範疇」なのではない。今現在も万人に読まれ続けている娯楽小説であるからこそ、根深く浸透していた差別意識/状況をそのままに伝えるべきではないだろうか。さらに文献をあたり、歴史を紐解けば、差別された側の闘いの軌跡も学ぶこともできる。つまり、同社の改訂を大袈裟に述べれば、作品を通して差別問題を考え、その撤廃に向けての行動を促す機会を読者から奪うことにも通じる。

事実を認識せずして、どう差別と向き合い、差別無き社会実現へと歩むことができるだろうか。
実は先般、日本でも相似する出来事があった。広島市教育委員会が小中高で使う平和教育の教材から、原爆投下後のヒロシマを描いた名作「はだしのゲン」を削除するというものだ。具体例として「子どもが浪曲を歌って小銭を稼ぐシーンについて『浪曲は現代の児童の生活実態に合わない』、母親に食べさせようと池の鯉を盗むシーンについては『鯉盗みは誤解を与えるおそれがある」』などの理由を挙げている。被爆した少年が愛する家族の飢えをしのぐために為した〝盗み〟を断罪し「教育」上の観点から抹消しようとした。ここにも手前勝手な正義の意識、裏を返せば偽善が露呈している。そもそも、なぜ「広島/長崎に原爆を落とされたのか」を検証することもなく、天皇ファシズムによって軍国主義をひた走り、無謀な侵略戦争によって自国他国を問わず殺し続けた国家の責任を問うこともなく、焦土と化した地で懸命に生きようともがいた人々の姿を「現代の生活実態に合わない」などと都合の良い解釈を加えた上で「いつの時代でも日本人は清く正しくあった」と子どもたちに、それこそ「誤解を与える」ことを教育だと主張しているのである。その一方で現代の子どもたちは戦争ゲームなどの仮想現実の世界で、武器を手に取り暴力まみれの遊びに浸っている。これを見て見ぬ振りをしたまま、平和を考えるためにはこれ以上のない教材となる「はだしのゲン」を消し去ろうとする矛盾。
歴史の事実/暗部に墨を塗り、犯罪や差別が無かったことにしようとするのは、中途半端で歪んだ理想主義に過ぎず、現代の子どもらに何の教訓も授けることはない。

ミステリに話を戻せば、欧米のスパイ/冒険小説に於いて戦中や戦後しばらくは日本やドイツなどは敵/悪の象徴となり、当たり前のように差別的表現をされる。これは、戦時下の日本が米英やアジア諸国に偏見を持ち唾棄したことと同様で、時の権力者らがイデオロギーを用いて植え付けたレイシズムの表れだ。その事実を作品の中で描いているからといって、読み手は作者が偏向しているとは、通常であれば捉えない(右翼/保守であれば別だが)。
時代にそぐわない表現だから修正する。子どもたちに悪影響を与えかねないから削除する。ならば犯罪を扱うミステリ小説そのものが否定されることになる。けれども、描かれた殺人や窃盗などに刺激を受けた読者が犯罪者に変貌することは、まずあり得ない。ミステリには、基本的に推理する楽しさを求めるのであって、作品中に「差別的表現」を認めるか否か、不快に感じるか否かは、読み手の読解力と経験次第だ。そこに問題を感じたならば、時代背景や作者自身について徹底的に調べ、考察し、その後の言動に変化をもたらすだろう。

時にミステリには人間社会の闇が生々しいまでに刻印されていることがある。その闇から目を逸らして(逸らさせて)、何の意味があるというのか。