海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「悪魔の参謀」マレー・スミス

実在したコロンビアの麻薬密売組織メデジン・カルテルを題材とした1993年発表作。今現在に通じるアクチュアルなテーマに切り込んだ大作/力作だが、情報を詰め込んだ濃密な文体のため、テンポが鈍く、読了するまでかなりの時間を要した。ただ、終幕は凄い。それまでの一切を無に帰するデカダンス、絶望感は他に例を見ない。誰一人救われることのない虚無的な結末に、しばらく茫然としたほどだ。

物語は、三つのパートを同時進行で描き、徐々に関連付けて収束させる構成で、終章直前までは主要な登場人物が殆ど交差しない。さらに、主人公を絞り込まず、情況を俯瞰的な視点で流していく。

第一のパート。ニューヨークの駅構内でジェーン・ドゥ(身元不明女性の死体)が発見される。不純物を含んだ麻薬摂取によるもので、現場近くに居合わせたニューヨーク市警殺人課刑事ルーコウは、死してなお美しさを失わない女に心を揺さぶられ、その名を突き止めることを誓う。ドラッグを蔓延させる元凶/メデジン・カルテルとの繋がりを掴んだルーコウは、組織の末端から深部へと迫るが、不可解にも女の素性を知る者が次々に抹殺されていく。ジェーン・ドゥの正体が暴かれることを極端に嫌うカルテルの真意とは何か。
第二のパート。アメリカと大西洋を隔てたアイルランドのダブリン。政界との関係も深い控訴院判事ピアソンは、IRA暫定派の政策顧問という裏の顔を持っていた。国内のテロリストらを裁く一方で、英国に打撃を与える過激派テロを主導するという相反する二重生活。すべては、アイルランド統一という大儀のためだった。喫緊の課題は軍資金不足で、暫定派参謀長のケーシーは、闘争継続に不可欠となる莫大なカネを、コロンビアのカルテルから入手すると告げた。ヨーロッパ大陸への麻薬密輸にIRAの地下組織を転用し、巨額の見返りを要求するという苦肉の策。その調停役にピアソンを指名する。だが、アイルランド国内へのコカイン流入に人倫上の抵抗があるピアソンは、密かに策謀の破綻を目論む。
第三のパート。メデジン・カルテルとの戦争状態にあったコロンビア政府は、英国に水面下での支援を依頼。特命を帯びたSIS南米局は、カルテル内部へ工作員を潜入させるミッションに着手する。局長ジャーディンの指示のもと、SAS隊員のフォードら候補者を選び、鍛え上げていく。その間に、IRA暫定派とカルテルの密約を知るが、決行の日は近付いていた。

以上のパートに、粘り着くように絡むのは、際限なき暴力と賄賂によってコロンビアの権力機構を形骸化したメデジン・カルテルの不遜な動き。ボスのパブロ・エンビガード(パブロ・エスコバルをモデルとする)、その片腕となる顧問弁護士レストレポらの狡猾さと異常性を浮き彫りにしていく。

国家権力と同等の支配力を手中にした暴力装置カルテルの圧倒的な恐怖にどう立ち向かうか。
ルーコウの真っ直ぐな正義感、ピアソンの捻れた背徳感、ジャーディンの打算的な使命感。主役格三人は常に追われるような緊張/閉塞感の中で、一歩一歩駒を進める。
中でも、ピアソンの行く末は重苦しい悲劇に満ちている。一人娘シヴォーをカルテルに拘束され、任務遂行強制のための脅迫材料とされていた。仕組んだのは〝身内〟である参謀長ケーシーだった。ピアソンは煮え滾る怒りに打ち震つつ、娘の奪還を模索する。
一方、刑事ルーコウは脅迫によって行動を制限されながらも、カルテルを騙してようやくジェーン・ドゥの名〝シヴォー〟を知る。いまだ我が子の生存を信じる父親に会うために、ルーコウはコロンビアへと飛ぶ。
その同時期、カルテル接触後、ドン・パブロの信頼を得て幹部クラスに成り上がっていた元SAS大尉の工作員フォードは、内部情報を英国秘密情報部へと着実に送っていた。だが、手にしたカネに目が眩み、遂には魔が差す。SIS南米局長ジャーディンは、フォードの真偽を見る罠を仕掛けるために、動乱の南米に赴く。

ピアソン、ルーコウ、ジャーディン。それぞれの思いと重圧を抱えて、破滅の場となるコロンビアに集結する。この中で誰よりも罪深い男、地獄絵図と化すラストシーンへと導く〝悪魔〟とは、一貫して〝影〟であり続けた男、ジャーディンに他ならない。諜報員としては極めて優秀。だが、己の性的衝動を抑えることができず、妻子持ちでありながら、部下や工作員の妻に手を出す。習慣となった教会での告解。それを聞く神父がIRAシンパとは夢にも思わず。フォードの妻との肉体関係の告白が、策謀の無惨な失敗を招く最大の要因となることにも気付かず。ジャーディンは、自覚無きままに終幕を演出する。

極めてドラスティックな展開は、麻薬との闘いが不毛であることを表しているのだろう。個々の裏切りによって緻密な謀略に綻びが生じていくさまを描いたエピソードの数々は、欲に絡め取られた俗物らの生々しい業を白日の下に曝す。著者スミスの人間観は、宿命的なペシミズムに捕らわれていると言っていい。

長々と筋を追ってきたものの、本音を述べれば評価に迷う作品だ。飜訳本上下巻800頁、中途までは退屈に感じることも多く、新人作家としての稚拙さも目立った。ただ、クライマックスで頂点に達するボルテージは傑作に近い仕上がり。驚いたのは、SISジャーディンが登場する続編を書いていることだ。この〝不快なヒーロー〟で大丈夫なのだろうか。

評価 ★★★☆☆

 

悪魔の参謀〈上〉 (文春文庫)

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悪魔の参謀〈下〉 (文春文庫)

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