海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「イノセント」イアン・マキューアン

スパイ小説というよりも恋愛を主軸にしたサスペンスで、筆致はいかにも文学的。冷戦下ベルリンで東側基地の盗聴を目論み、西側からトンネルを掘り進めるという英米情報部の無謀な作戦を背景とする。物語に大きな起伏は無いのだが、若い技術者が一定期間体験する濃密な情景を、独特なレトリックを用いて描き、一種異様な緊張感に満ちている。本作で「話題」となった死体解体シーンよりも、その直後に主人公が陥る悪夢の如き時間の流れを追った重苦しい心理描写が記憶に残る。

評価 ★★★

 

イノセント (Hayakawa Novels)

イノセント (Hayakawa Novels)

 

「大統領暗殺特急」ジェイムズ・セイヤー

要人暗殺を主題としたスリラーは数多く、〝ターゲット〟も千差万別だが、中でも米国歴代大統領は世界に及ぼす影響もあり、標的リストの「筆頭」といっていい。特に、第二次大戦において戦況を左右する重要人物の一人であったルーズベルトは、ヒトラーチャーチルと同じくいまだにフィクションの中で狙われ続けている或る意味〝気の毒〟な存在でもある。
1986年発表の本作は、ナチス/ドイツの命運を懸けたルーズベルト暗殺をテーマとする。計画段階から実行までをストレートに描き、スピード感溢れる展開で読ませる佳作。やや情感には欠けるが、主人公を含めた登場人物の造型にはそつがない。本作の肝は、ドイツ本土から暗殺者を送り込むのではなく、米国内捕虜収容所に捕らわれていた工作員を利用するということ。協力者を得ての脱出から逃走、計画立案と武器調達、最終的に大統領専用列車を狙った実行段階まで、随所でエピソードを盛り込み、飽きさせない。


余談だが、翻訳を作家の赤羽尭が担当しているのだが、文体は硬く、中途で力尽きて交代している。途端に読みやすくなるのは、やはり「本業」の差か。

評価 ★★★

 

大統領暗殺特急〈上〉 (扶桑社ミステリー)

大統領暗殺特急〈上〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

 

大統領暗殺特急〈下〉 (扶桑社ミステリー)

大統領暗殺特急〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

「スパイたちの聖餐」ビル・グレンジャー

第一作から人物造形が深化しているとはいえ、完成度はまだ足りないと感じた。
ベトナム戦争時、CIAは宣教師や新聞記者などを工作員として利用していた。その一人、宣教師タニーがタイとカンボジアの国境近くに姿を現わす。行方不明となってから20年が経っていた。不可解な事態に合わせるように各国情報部が活発な動きを見せ始める。米国Rセクションのデヴォローは真相を探るため、謀略の渦中へと潜り込んでいった。
真相が明かされるのは終章だが、やや漠然としたもので、精緻さに欠ける。説明を端折るため、全体の構造が掴みづらい。レン・デイトンのスタイルに近いものがあり、詩情を交えつつ、非情な諜報戦を冷徹に描こうという意気込みは伝わってくる。だが、まだぎこちない。

評価 ★★

 

スパイたちの聖餐 (文春文庫 (275‐12))

スパイたちの聖餐 (文春文庫 (275‐12))

 

 

「死者との誓い」ローレンス・ブロック

1993年発表のマット・スカダー・シリーズ第11作。これまでの重苦しい焦燥/無常感は薄まり、全体のムードはさらに明るくなっている。だが、読後に違和感しか残らなかったのは、初期作品では顕著だった詩情が失われていたためだろう。老成したとはいえ筆致は枯れており、物語自体にも精彩が無い。
前作「獣たちの墓」(1992)でも朧気に感じていたことだが、ブロックが本シリーズを書き続ける意義に疑問さえ抱いた。危なげない禁酒生活を送る中、伴侶を得ようと望む探偵。数多の苦境を乗り越え、ようやくスカダーが幸せを掴もうとしている情況は感慨深いが、人生の迷いや社会悪への憤りも同時に消え去っていると感じた。無論、探偵が須く孤独でなければならないという訳ではないが、社会の底辺で生きる人々への共鳴、理不尽な悪との対決へと至る流れは、孤影が色濃いからこそストレートに心に響いた。多くを語らずとも、暗鬱な事件を通してスカダーの過去と現在の有り様は鮮やかに浮かび上がった。
無力であることを自覚した男の為し得る最悪且つ最善の決着。その激情の中で迎える結末は、孤独な男/スカダーであればこそ得られたカタルシスだった。

かつてブロック自身が述懐しているように、主人公を破滅の一歩手前まで追い込んだ「八百万の死にざま」(1982)の壮絶な幕切れをもってシリーズは〝一応〟完結している。その余韻のままに回想へと繋ぐ秀作「聖なる酒場の挽歌」(1986)は別として、その後の作品についてはスカダーが主人公である必要性はない。ノワールへの傾斜を深めた、いわゆる「倒錯三部作」は、元アル中のヒーローという設定無しでも充分成立しただろう。
続編を重ねるほどに探偵の私生活を綴る量も増えているようだが、ロバート・B・パーカー/スペンサーの如き腑抜けた人生訓/ディスカッションを延々と読まされる苦痛と同じく、淀んだハードボイルドの残滓のみを私は読み取ってしまうのである。
罪と罰」とどう向き合うか。その主題は変わらずとも、事件に私的情動が絡む要素は減り、第三者/傍観者としての立ち位置が固まり、物語の強度は明らかに弱まっている。変貌したシリーズを熟成した「大人のミステリ」として楽しめる心の広い読者であれば問題はないだろうが、世慣れた警句を挟みつつ「本格的な謎解き」にいそしむスカダーに、私は魅力を感じない。
初登場時は「リュウ・アーチャーへのニューヨークからの返答」というキャッチフレーズが相応しく、現代ハードボイルドの「手本」ともなる作品を送り続けていた。だが、一端は頂点を迎えた後、徐々にボルテージは下がっていく。かつて自らが生きた吹き溜まりを硝子越しに観察する冷徹さ。賢く生き、立ち振る舞うすべを学んだ狡猾さを、近作のスカダーには感じてしまう。恐らく次作を読むことで、その思いはさらに強まるだろう。

評価 ★★

 

死者との誓い (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

死者との誓い (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

 

 

「暗号名レ・トゥーを追え」チャールズ・マッキャリー

ジョン・F・ケネディ暗殺事件は、20世紀における米国史上最大のミステリともいわれている。今も数多の陰謀論の種子となっている要因は、混迷した世界情勢下で国内外問わず「敵」と目されていた存在があまりにも多く、加えて各々が多種多様な動因を抱えているため、いわばどこの国/組織/人物であっても首謀者で有り得るという、極めて不明瞭つ複雑に絡み合った因子を持つからだろう。決め手に欠けるオズワルド単独犯説を疑問視し、まことしやかに流布する種々雑多な「真相」。この格好の〝素材〟は、ジャーナリズムの世界ばかりでなく、小説家らの創作意欲をも搔き立てきた訳だが、史実に如何にして斬新な脚色を施し、リアリティを保ちつつ魅力的な作品に仕上げるかは、当然のこと創作者の腕次第となる。1974年上梓の本作は、暗殺の真相に肉迫する迫真性をそなえていることはもちろん、元CIA局員マッキャリーならではの情報収集/分析力と、作家としての優れた技量が見事に結実したスパイ/スリラーの傑作である。

米軍介入後泥沼化の一途を辿ったベトナム戦争。物語は、その序章となるクーデター、1963年11月1日南ヴェトナムでのゴー・ディン・ディエム大統領殺害を発端とする。南北対立が深まるヴェトナムの地で、身分を偽装し諜報活動に従事していたCIA工作員ポール・クリストファーは、ケネディ暗殺の報を受け、ディエムの死との関連性を直観する。陰謀の臭気を嗅ぎ取り独自に調査を始めるが、重要な手掛かりはディエムの血縁者がもたらした「レ・トゥー」という不可解な暗号のみだった。全世界が不穏な空気に包まれた中、クリストファーは身辺に危険を感じつつも、謀略と暴力の渦中へと乗り込む。やがて、ヴェトナム古来の因習に起因する闇の力、凄まじい復讐の情念が眼前へと姿を現す。

マッキャリーは、冷戦期真っ只中の勢力図を俯瞰した上で、時代背景を的確に整理し、臨場感溢れる舞台を用意している。見過ごされてきた事実を抽出してパズルのピースを填め直し、1963年11月22日のダラスへと繋がるプロセスを再構築、冒頭で組み立てた物語の核となる大胆且つ緻密な推論から導き出された瞠目すべき結論/真相を立証する。
終幕に向かって加速度的に緊張感を増す展開。精緻な構成力と洗練された筆致も素晴らしく、深みのある人物造形、哀感に満ちた情景描写によってプロットの強度を高め、熟成したスパイ小説としてまとめ上げている。特に、詩人でもある主人公クリストファーの陰影に富む言動は味わい深く、出番は僅かながらも忘れ難い印象を残す誇り高き男、ディンペルとのエピソードは、非情な世界であるからこそ、より一層詩情が際立つことを物語っている。
論理と情理の結晶、読後の余韻も格別だ。

評価 ★★★★★

 

暗号名レ・トゥーを追え (扶桑社ミステリー)

暗号名レ・トゥーを追え (扶桑社ミステリー)