海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「狐たちの夜」ジャック・ヒギンズ

ヒギンズは過去の作家として忘れ去られつつあるが、「鷲は舞い降りた」や「死にゆく者への祈り」が、今後も色褪せていくことはないだろうし、代表作を読めば事足りるという薄い存在でもない。本作のようにいささか強引な筋書きであろうとも、独自に構築してきた〝美学〟は一貫しており、その根幹には揺るぎない冒険小説への愛がある。

1944年「D-デイ」前夜。イギリス海峡で演習中だった連合軍の艦船が沈み、極秘扱いとなっていたノルマンディへの上陸作戦を知る将校が行方不明となった。やがて、その漂着先はフランス北西沖の旧英領ジャージー島と判明。連合軍首脳部は救出計画に着手するが、島はナチス占領下にあり、捕らわれた英国人の口封じも視野に入れる。潜入工作員として選ばれた英国陸軍のマーティノゥはナチス将校を偽装した上で、補助役となるジャージー島出身の女とともにフランスへと向かう。

物語は「敵側」に捻りを加えている。
同時期、アフリカ戦線での活躍により〝砂漠の狐〟と呼ばれていた智将ロンメルは、自国の未来を憂う同志らとヒトラー暗殺のプランを練っていた。或る時、己と瓜二つの男に遭遇したロンメルは、隠密行動時に於けるアリバイ工作のための替え玉として利用することを思い付く。だが、人真似に長けたその男の実体は、出生を偽ったユダヤ人だった。もし素性が曝かれた場合は死が待ち受けていたが、敢えて男は身代りを引き受ける。ロンメルは偽装を施した男を、視察の名目でジャージー島に送り、その間に自らは総統暗殺に向けた謀議の場へと赴く。
かくして、洋上の孤島に偽者らが集い、敵味方入り乱れての生命を懸けた騙し合いと任務遂行への戦いが展開されていく。

多様な過去を背負いつつ、未踏の冒険へと向かう者どもの昂揚と躍動。闘いのさなかで培う友情と刹那的な恋愛。本作に於いても、信義を重んじるヒギンズならではの世界が拡がり、後戻り出来ない路を歩む者らが出会うことで、互いの運命が変わっていくさまが劇的に描かれている。やや甘さが残るとはいえ、熟練の腕を振るった人間ドラマは味わい深く、余韻も心地よい。

評価 ★★★☆

 

狐たちの夜 (ハヤカワ文庫NV)

狐たちの夜 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

「九回裏の栄光」ドメニック・スタンズベリー

1987年発表作。都市再開発を巡る政治家・企業家の腐敗/犯罪を描いたノワールタッチの骨太な犯罪小説。タイトルからイメージする野球を軸にしたスポーツ・ミステリではない。
舞台は、米国地方都市ホリオーク。フリーの記者ロフトンは、マイナーリーグ所属の地元球団を独自に取材した記事をローカル新聞社に売り、生活費を稼ぐ不安定な日々を送っていた。そんな中、急激な再開発が進む街で不審な放火事件が続出。同時期に不可解な情況下で球団選手が殺された。一見無関係に見える二つのケースから漂うきな臭い悪徳の影。ロフトンは関係者をあたり調べを進めていくが、この街の事件が己の人生を変えることになるとは予想だにしていなかった。

ロフトンは、かつて大手新聞社のエース記者として辣腕を振るっていたが、有力者の不正に関わったことで失墜した。その悔恨があるからこそ、流れ者として生きる街の不正を曝くことに挑み、己の再生を懸けて闘うのである。
物語が分厚く力強いのは、主人公の矜持が徐々にかたちを成して、不屈の記者魂が呼び覚まされ、悪を紛糾する行動へと赴くまでの覚醒へと至る過程がしっかりと描かれているからだろう。

評価 ★★★☆

九回裏の栄光 (ミステリアス・プレス文庫)

九回裏の栄光 (ミステリアス・プレス文庫)

  • 作者: ドメニックスタンズベリー,佐藤ひろみ
  • 出版社/メーカー: ミステリアス・プレス
  • 発売日: 1990/06
  • メディア: 文庫
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「サイコ」ロバート・ブロック

ヒッチコックの映画化によりブロックを一躍著名にした1959年発表作。残虐な殺人シーンのインパクトでホラーのイメージが強いが、原作はサイコスリラーの先駆として評価が定着している。異常殺人者を主役格に置き、狂気へと墜ちていった背景を解き明かす〝サイコ物〟のフォーマットを完成させ、トマス・ハリスハンニバルシリーズなど後の世代へと繋げている。
今読めば、全体的に古さを感じてしまうのだが、ベテラン作家らしく筆致はこなれている。ただ、ブロックが本領を発揮するのは、やはり密度が濃く引き締まった短編ではあるのだが。

評価 ★★★

サイコ (ハヤカワ文庫 NV 284)

サイコ (ハヤカワ文庫 NV 284)

 

 

「悪魔のような女」ボアロー、ナルスジャック

1952年発表作。数度の映画化もあり、ボアローナルスジャック合作の中で最も読まれている作品と言っていい。サスペンス小説の模範ともなる構成で、次第に追い詰められていく人間の心理描写は流石の筆致だ。登場人物を必要最低限まで絞り込み、緊張感が途切れることを防いでいる。フランスならではのノワール的な雰囲気も濃厚で、配役として欠かせない悪女、翻弄される脆弱な男、一切役に立たない第三者の不甲斐なさなど、基本をきっちりと押さえている。

平凡なサラリーマン、ラヴィネルは愛人の医師リュシエーヌと共謀して保険金殺人を計画する。営業出張先の宿泊所へと妻ミレイユを誘い込んだ二人は、睡眠薬で眠らせたミレイユを風呂桶に沈めて殺害。その2日後、死体を運んで自宅前の洗濯場から川に落とす。翌日早朝に仕事から帰ったラヴィネルが、妻の遺体を発見するという段取りだった。男はアリバイ工作を為した上で予定通り帰宅する。だが、水路の途中で引っ掛かっていたはずのミレイユの死体は跡形もなく消えていた。やがて、見間違いようのない妻の筆跡でメッセージが届き始める。ミレイユの兄夫婦を訪ねたラヴィネルは、先刻まで妹が顔を見せていたと告げられた。やはり、妻は生きているのか。幾度も打ちのめされた男は、次第に現実と妄想との境目を行き来するようになる。

物語は、勧善懲悪で終わらない痛烈なツイストを利かせたラスト一行で、「悪魔のような女」が誰なのかを指し示す。自壊していく殺人者の意識の流れを綴ることは相当の技倆がいるのだが、多少荒削りではありながらもリアリティを持たせたまま仕上げている。

 評価 ★★★

 

悪魔のような女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

悪魔のような女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

「白の海へ」ジェイムズ・ディッキー

ミステリではないが、根幹には冒険小説のテイストがあり、予測不能の展開もあって強烈な印象を残す。

日米戦争末期、焼け野原と化していく東京でB29型爆撃機が墜落する。投げ出された機銃兵マルドロウは奇跡的に命拾いするが、敵国にただ一人取り残される。不可解にも男は、味方の救出を待つことなく、独自の観念に基き行動に移る。その手に漠とした日本地図を持ち、異国の直中を逃亡。頭の中にある目的はひとつ。北へと向かうこと。限りなく「白い世界」北海道へ。それは、理性ではなく、本能が命じていた。
男の「視野」は極めて狭く、思考範囲も限られている。生存本能に関わる感覚は異様なまでに鋭く、別の側面では非常に鈍い。自然に対する感性も野性児と同等。白鳥を殺し、餓えと寒さを凌ぐ。北海道へと渡ることは、男が生まれ育ったアラスカの大地へ還ることと同義だった。

男は日本人を侮蔑し、動物と同格として視る。身を守り、生き抜くために平然と殺す。異質であることがシンパシーへと変わる日本への畏敬は全く無い。読者によっては不快に感じるだろうが、海外作家が陥りがちな誤解と偽善に依る美辞麗句が無い分、潔いと感じた。
終盤、北海道に渡った男は或る部落に辿り着く。恐らくアイヌ民族であろう。歓迎されたにも関わらず、一匹の子熊を救う為に、村の男を殺す。そして、最期となる地では鷹匠の老人と出会う。男は、序盤とは全く別の人間に変貌している。社会性とは無縁の剥き出しの「生」。その躍動/昂揚が頂点に達した時、「白い世界」は真っ赤に染め上げられていく。

主人公の内面を推し量ることはできない。狂気と紙一重でありながらも、男を終始貫いているのは野性的な帰巣本能だ。人も動物も区別無く実存し、朽ち果てる「虚無」の世界。荒涼とした大地の上で、去来したものとは何か。静寂の中で迎えるカタルシスは白銀の彼方へと消え、男を駆り立てた思いも無へと化す。

評価 ★★★★

 

白の海へ TO THE WHITE SEA (小学館文庫)

白の海へ TO THE WHITE SEA (小学館文庫)