海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

ミステリと「差別的表現」

英国の出版社ハーパー・コリンズ社がアガサ・クリスティーの作品を対象に「差別的表現」を削除した改訂版を出すと報じていた。「現代の読者にとって不快と思われる表現」について出版社独自の判断で修正を加える訳だが、当然物故している作者の〝意志〟は不問となる。クリスティーを選んだ理由は、恐らく国民的作家であり、その作品が世界中で読まれているからだろう。勘ぐれば、英国を代表するミステリ作家が「差別的表現」を使うことは許されない、という意図があるのかもしれない。同社以外でも、既にロアルド・ダールの児童書などにも変更が加えられているという。

当たり前だが、ミステリに限らず文学/芸術は、その作品が生まれた時代、社会的状況、そして作者自身の思想を反映するものだ。読者は人種や性、階級や障害者らに対する差別的表現に触れることで、その時代に何が〝問題〟であったかを識る。
そもそも〝由緒正しき名探偵〟は差別的発言をしない/してはならない、という定義がおかしい。ミステリの主人公が聖人君子である必要性など無く、まして「本格ミステリ」に登場するようなアクが強く高慢ともいえる探偵らが、平然と人種差別の言動をするさまに読者が違和感を覚えることなど殆どないだろう。たとえエルキュール・ポアロが論理的ではない先入観のみで「ユダヤ人」を侮辱する発言をしたとしても、当時の英国における偏見/差別、その社会的認知が登場人物/語り手に投影されているだけであり、それはクリスティーと大半の読者が共有していた価値観/通念であったに違いない。これは何処の国でも同じであり、日本の文学など差別的表現で溢れかえっている。小説では、主要な人物(もしくは書き手)の偏った思考や行動はストーリー展開にも大きく影響することもあるため、安易に削除すればプロットの根幹をも破壊しかねない。

だが、出版社の余計な配慮によって、それらは「無かった」ことになる。あたかも差別無き平等な社会であったと誤解させることは、極端に述べれば歴史の改竄に近く、作品そのものの価値をも歪める。「差別的表現」を削除する対象が、優生思想に基づくあらゆる差別遂行を主張したアドルフ・ヒトラーの「我が闘争」ではなく、クリスティーの大衆的ミステリだから「許される範疇」なのではない。今現在も万人に読まれ続けている娯楽小説であるからこそ、根深く浸透していた差別意識/状況をそのままに伝えるべきではないだろうか。さらに文献をあたり、歴史を紐解けば、差別された側の闘いの軌跡も学ぶこともできる。つまり、同社の改訂を大袈裟に述べれば、作品を通して差別問題を考え、その撤廃に向けての行動を促す機会を読者から奪うことにも通じる。

事実を認識せずして、どう差別と向き合い、差別無き社会実現へと歩むことができるだろうか。
実は先般、日本でも相似する出来事があった。広島市教育委員会が小中高で使う平和教育の教材から、原爆投下後のヒロシマを描いた名作「はだしのゲン」を削除するというものだ。具体例として「子どもが浪曲を歌って小銭を稼ぐシーンについて『浪曲は現代の児童の生活実態に合わない』、母親に食べさせようと池の鯉を盗むシーンについては『鯉盗みは誤解を与えるおそれがある」』などの理由を挙げている。被爆した少年が愛する家族の飢えをしのぐために為した〝盗み〟を断罪し「教育」上の観点から抹消しようとした。ここにも手前勝手な正義の意識、裏を返せば偽善が露呈している。そもそも、なぜ「広島/長崎に原爆を落とされたのか」を検証することもなく、天皇ファシズムによって軍国主義をひた走り、無謀な侵略戦争によって自国他国を問わず殺し続けた国家の責任を問うこともなく、焦土と化した地で懸命に生きようともがいた人々の姿を「現代の生活実態に合わない」などと都合の良い解釈を加えた上で「いつの時代でも日本人は清く正しくあった」と子どもたちに、それこそ「誤解を与える」ことを教育だと主張しているのである。その一方で現代の子どもたちは戦争ゲームなどの仮想現実の世界で、武器を手に取り暴力まみれの遊びに浸っている。これを見て見ぬ振りをしたまま、平和を考えるためにはこれ以上のない教材となる「はだしのゲン」を消し去ろうとする矛盾。
歴史の事実/暗部に墨を塗り、犯罪や差別が無かったことにしようとするのは、中途半端で歪んだ理想主義に過ぎず、現代の子どもらに何の教訓も授けることはない。

ミステリに話を戻せば、欧米のスパイ/冒険小説に於いて戦中や戦後しばらくは日本やドイツなどは敵/悪の象徴となり、当たり前のように差別的表現をされる。これは、戦時下の日本が米英やアジア諸国に偏見を持ち唾棄したことと同様で、時の権力者らがイデオロギーを用いて植え付けたレイシズムの表れだ。その事実を作品の中で描いているからといって、読み手は作者が偏向しているとは、通常であれば捉えない(右翼/保守であれば別だが)。
時代にそぐわない表現だから修正する。子どもたちに悪影響を与えかねないから削除する。ならば犯罪を扱うミステリ小説そのものが否定されることになる。けれども、描かれた殺人や窃盗などに刺激を受けた読者が犯罪者に変貌することは、まずあり得ない。ミステリには、基本的に推理する楽しさを求めるのであって、作品中に「差別的表現」を認めるか否か、不快に感じるか否かは、読み手の読解力と経験次第だ。そこに問題を感じたならば、時代背景や作者自身について徹底的に調べ、考察し、その後の言動に変化をもたらすだろう。

時にミステリには人間社会の闇が生々しいまでに刻印されていることがある。その闇から目を逸らして(逸らさせて)、何の意味があるというのか。




「人類の叡智」という虚妄

ロシアの独裁者プーチンが始めた侵略戦争によって、その尊い命を奪われたウクライナの子どもは、ユニセフの統計によれば487人。今後はさらに増え続ける。そして親を殺され未来を失った子どもは、相当な数となるだろう。
戦死者はロシアとウクライナ両軍とも10万人。ウクライナ市民は7千人。
すべて暴力による死だ。
しかも、この大義無き戦争を止める智慧さえ、人間は持たないのである。殺さなければ、終わらないという無残な有り様。

ジャン=ポール・サルトルは、こう述べた。
「金持ちらが戦争を起こし、貧乏人が死ぬ」

この狂気は、現実である。人類の叡智とは、いったい何なのか。

私的なお知らせ〜JAZZ TIME〜

私のもうひとつの趣味であるジャズの名盤、名演を「TikTok」で紹介しています。
毎日更新を目指していますので、ぜひ気軽にのぞいてみてください。
※本記事下段に「雑記」を追加しました。

【Jazz Time】
https://www.tiktok.com/@kikyo_shimotsuki?_t=8ZQcZYatowc&_r=1

【雑記】
ジャズを聴き始めたのは、社会人になって間もない頃だった。それまでは心地良さ優先で軽めのフュージョンを好んで聴いていたが、境界線に位置するウェザーリポート、ザ・クルセイダーズのアルバムをきっかけに、ジャズの世界へ旅立った。
しばらくは、お世辞にも充実しているとはいえない近くのCDショップへと足繁く通う日が続いた。ジャズはいかにもマイナーな音楽らしく、店内の片隅に申し訳なさそうに、コーナーが設けられていた。それでも、私にとっては宝の山だった。
僅かな情報を頼りに、入門者向けとされているCDを購入していった。例えば、レイ・ブライアントRAY BRYANT TRIO」、ソニー・クラーク「COOL STRUTTIN'」、ウエスモンゴメリーFULL HOUSE」、クリフォード・ブラウン「BROWN=ROACH」、そして後に最愛のジャズマンとなるビル・エヴァンス「PORTRAIT IN JAZZ」。どれも歴史的な名盤ばかりだ。とにかく圧倒的なパワーと創造的なアドリブによるドライブ感に魅せられた。私の生まれる前に録音された貴重な記録。けれども、誰であっても初めて出会う音楽は常に新しく、喜びとなる。
オーディオの前で小さなジャケットを眺め回し、読み込んだライナーノートをひっぱりだしては収め、「SwingJournal」や「ジャズ批評」を熟読し、気に入ったアーティストのアルバムを何枚も購入した。ビル・エヴァンス「WALTZ FOR DEBBY」などは毎晩聴かないことには、寝付けないほどまでになった。

モダン・ジャズ隆盛期におけるジャズマンの道のりには人種差別や麻薬問題など、アメリカ社会が抱える闇も表出されているのだが、これも音楽表現に深みをもたらしていた。時にエネルギーの源となり、時に心身を癒やす、甘美でエモーショナルなジャズ。その魅力は今も尽きることがない。

▼世界中で愛されているジャズの名盤
ビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビィ」

 

書評という「冒険談」

1月19日、本の雑誌」創刊者で書評家の目黒考二氏が亡くなった。享年76歳。
ミステリファンには、北上次郎の筆名の方が馴染み深いだろう。特に冒険小説の水先案内人としての貢献度は計り知れず、その魅力を熱く語り尽くした「冒険小説の時代」「冒険小説論」などは、これからも指標として読み継がれていくに違いない。国内外を問わず、古典から現代まで網羅した情報量は圧倒的で、私自身も書評やエッセイは大いに参考にさせてもらった。ただ、最近の極端なマーク・グリーニー推しは、やっと現れた〝新星〟に期待する昂ぶりは分かるとはいえ、正直辟易していたのだが、これも嗜好を明確する北上次郎の信念の表れだったのかもしれない。
盟友・椎名誠の傑作「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」に登場した〝めぐろ・こおじ〟の如く本を読めない世界は耐えられないであろうから、恐らく天国でも好きな本に囲まれて過ごしているのだろう。
小説を読むということは「冒険」であり、それについて人々に語り伝える書評とはいわば「冒険談」でもある。数々の冒険談で楽しませてくれた北上次郎さん、本当にお世話になりました。ありがとう。

 

 

 

「ハドリアヌスの長城」ロバート・ドレイパー

まず、北村治による文春文庫の挿画が、さまざまなイメージを喚起させる。

裂け目無く屹立する高く赤い壁。それは紛れもなく刑務所の塀だと分かる。そこに、斜陽を浴びた男の影が浮かび上がっている。背中を向け、うつむき加減に呆然と立つ男。それに比して、影は己の存在を誇示するかのように黒く壁に刻印されている。まるで何処までも背後に陣取り、男の内面を見透かそうとしているかのようだ。ここから読み取れるのは、孤独と焦燥、そして欺瞞と憤りである。

男の人生に何があったのか。あるいは、何が起ころうとしているのか。ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが築いた長城を冠したタイトル。その意味するものとは何か。

時間をかけて読み終え、あらためて表紙を見る。この厳しい物語を一枚の絵に表象させた画家の秀逸な表現力に唸った。

主人公はヘイドリアン・コールマン、38歳。男は様々な思いを胸にして、殺伐とした町へと戻ってきた。テキサス州東部のシェパーズビル。ここは「刑務所の町」だった。囚人15万人を数カ所の刑務所に収容、住人の殆どが関連する仕事に就いていた。ヘイドリアンは馴染みの顔と再会を果たしていくが、彼らは各々違う複雑な反応を示した。両親が遺した家へと戻り、唯一の家族である奔放な妹の身を案じつつ、旧友のもとへと向かう。ソニーホープ。父親を継ぎ、テキサス州矯正施設長庁官として権力を握り、町を支配する男。ヘイドリアンにとっては、少年時代を共に過ごした幼馴染みであり、初恋の女を奪われた恋敵であり、何よりも人生を狂わされた悪の根源だった。

1999年発表の力作。設定はかなり異色だが、序盤を過ぎた辺りから独特な世界観に引き込まれる。謎解きは一切無いが、主人公の過去と現在を繋ぐ伏線を回収しつつ、大きくうねりながら終盤へと向かうため、ミステリの構造は備えている。人間の業に迫る作者の眼は確かで、ドラマ性を高める情景描写も巧みだ。

ヘイドリアンは15歳となる誕生日に人を殺した。親友ソニーの命を救うためだった。少年は裁きを受け、懲役50年の刑を宣告された。15年間服役したのち、ようやく仮釈放の日を迎えようとしていた。青春期の全てを刑務所内で送った。だが、それを恨んだ他の囚人に襲われ、自衛のために二度目の殺人を犯した。ヘイドリアンは不可能といわれた脱獄を試み、からくも成功した。
長い長い逃亡生活。それは8年間にも及んだ。この窮地を救ったのはソニーだった。救済運動を起こし、遂には特赦を勝ち取った。逃亡中、ヘイドリアンが危険を承知で二人の若者の命を救っていたことも有利に働いた。社会的に〝自由〟の身となったヘイドリアンは、甘い郷愁と苦い悔恨を抱えて、帰り着いた。だが、彼を待ち受けていたのは、さらなる理不尽な苦難と非情の裏切りだった。

以上が物語の背景となる。主人公ヘイドリアンは、いわば過去に呪縛された男だ。故郷に帰り、己の罪と対峙し、アイデンティティを取り戻すために一切を清算する。だが、それはこれまで以上の試練を意味した。その葛藤と苦難に満ちた過程を、回想シーンを織り交ぜつつ、じっくりと描いている。特にヘイドリアンの人格形成において重要な鍵となる家族との短い挿話が強く印象に残った。
もう一人の主役でもあるソニーとの関係性を通して、無垢故に殺人者となった男と、煩悩故に身を滅ぼす男を対比。未熟であった少年二人の弱さが予期せぬ結果を生み出すエピソードは極めてドライで、主人公の重い語り口によって読み手へと息苦しいまでに迫ってくる。

お前にとって大切なこの俺を守るために、或る男を始末してほしい。単なる利権のために、腐り切ったエゴイズムを剥き出しにするソニー。常にヘイドリアンを利用してきた旧友との決着は、脆弱であった己自身との決別ともなった。これまで気付かないふりをしてきた男の真性を、あらためて眼前にしたヘイドリアンはどう行動を起こすのか。刑務所とソニーという二重の牢獄に囚われていた男は、ようやく決断し、実行へと移す。そして、孤独であったと思い込んでいた彼が知るのは、迎え入れてくれた人々の優しさだった。崩れていく赤い壁。そこに鉄槌を打ち込む男の背中を照らす眩い太陽。

終盤での裁判シーンは簡略化しているが故に、一層厚みを増し、不条理な罪を背負ってきた男の万感の思いが濃縮されており、感動を呼ぶ。クライマックスでは目頭が熱くなったほどだ。

作者のドレイパーはテキサス州出身で記者、編集者として経験を積み、発表当時はまだ30代だったようだ。文学志向が強く生硬な面もあるが、罪と罰というテーマに新鮮な切り口で挑んでおり、読み応えがある。
実は本作の魅力は、熱い思いが伝わる訳者の後書きで全て言い尽くされており、私が付け加えることは殆どない。ただ、こういう秀作が埋もれたままになっている状況は、海外ミステリ界にとって大きな損失である。

評価 ★★★★★