海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「大きな枝が折れる時」ジョナサン・ケラーマン

小児専門精神医アレックス・デラウェアシリーズ第1弾。「ロス・マクドナルドの伝統を受け継ぐ」という売り文句もあるが、清廉な主人公の立ち位置はともかく、ハードボイルド小説に不可欠な冷徹さや、罪を犯す人間の掘り下げ方などが浅く、処女作の段階ではまだ方向性が定まっていない印象。
1985年発表で、翻訳された当時は随分話題となった。一人称の語り口は明るいタッチで、ややシニカル。若くして引退同然の身でありつつも生活は安定し、恋人や友人との仲も良い。これは、題材とする幼児虐待の重さを少しでも軽減する狙いもあるのだろう。自身が臨床心理医であるケラーマンの体験が随所に生かされ、主人公を通した子どもたちに対する眼差しも優しさに満ちている。

プロットは、小児性愛者である金満家らが共謀して児童虐待を繰り返す犯罪の捜査をメインとするが、構成や人物造型に強引な部分も目立つ。非道の実態をリアルに描写することは避けており、異常者らの謀みを暴くミステリとしての体裁を崩すことはない。アレックスとコンビを組む刑事は性的マイノリティの設定だが、奇をてらっているようで、余分だと感じた。主人公を骨のある男として描いていることには好感が持てる。第2作以降の成長に期待といったところだ。

評価 ★★★

 

大きな枝が折れる時 (扶桑社ミステリー)

大きな枝が折れる時 (扶桑社ミステリー)

 

 

「その男キリイ」ドナルド・E・ウェストレイク

「やとわれた男」で鮮烈なデビューを飾ったウェストレイクは、「殺しあい」「361」と、シリアスなクライムノベルを上梓していたが、第4作以降はジャンルにこだわらず書いたようだ。1963年発表の本作は、人生経験に乏しい若い男が数多の体験を経て処世術を身に付け、「大人」へと成長するさまを描いた異色作で、劇的な変貌を告げるラストは強烈な余韻を残す。

経済学を専攻する大学生ポール・スタンディッシュは、半年に及ぶ実習期間を全国的な労働組合本部で働く。指南役は組合幹部のキリイ38歳で、精悍なやり手と評判だった。一方の軟弱さを絵に描いたようなスタンディッシュは24歳。早速二人は、地方支部立ち上げの打診があった地方の町ウィットバーグに派遣される。製靴会社社員ハミルトンに接触し、調査と下準備をするためだ。だが、顔合わせを果たす前に、ハミルトンが何者かに殺された。地元の警察に拘束された二人は謂れのない尋問を受ける。町の住人の大半は製靴会社に関わる仕事に就き、経営陣は行政や警察機構に対して絶対的な権力を振るっていた。スタンディッシュは、ハミルトンの友人であった老人ジェファーズから、社内で不正があり、その証拠を経理担当で老人の孫娘アリスが握っていることを知る。労組本部から助っ人らも駆け付け、会社との取引材料として背任行為の事実を利用することにするが、直後にジェファーズも不審死を遂げる。事態は急速に様相を変えていた。

本作の読みどころは、純真な主人公が生々しいエゴの衝突を重ねて次第に〝したたかさ〟を修得していく過程にこそある。敢えてスタンディッシュの一人称に「ぼく」を選んでいるように、序盤では弱音を吐き、人前で泣き叫ぶ醜態もさらすのだが、自らも心身を傷付けられた殺人事件を解決したいという欲求が、タフな男へと鍛え上げる足掛かりとなっていく。
敵対するのは、理不尽な暴力を振るう警察官や尊大な製靴会社支配人のみではない。スタンディッシュの功績を横取りし、出し抜き、成り上がろうとするキリイこそが最大の「敵」であることが、終盤までに明らかとなる。

切れ味鋭い幕切れで、圧倒的な重みで迫るタイトル「Killy」の意味。柔な男の甘美なる幻想を打ち砕き、リアルな裏社会に触れさせることで伝授するハードな生き方。本作は、いわばウェストレイク流人生訓の表出ともいえる。

評価 ★★★★

 

その男キリイ (1979年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

その男キリイ (1979年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

「サハラの翼」デズモンド・バグリイ

名作「高い砦」(1965)によって冒険小説ファンを熱狂させたバグリイは、1983年に59歳の若さで死去するまで、常に高水準の作品を発表し続けた。概ねプロットはシンプルで、冒険行もストレート。簡潔な文体によるシャープな活劇小説の書き手として、日本の読者にも愛された。
1979年発表「サハラの翼」は、バグリイ後期にあたる第12作目。余分な贅肉を削ぎ落とした硬質なロマンを前面に押し出している。本作は、捻りの無い筋立てや、ややステレオタイプな登場人物の描き方、意外性の薄い黒幕の正体など、欠点は多い。ただ、全体としては冒険小説の本道を行くものなので、バグリイの世界は変わらずに楽しめるだろう。

主人公は、英国で保安コンサルタント会社を経営するマックス・スタフォード。保安を担当する軍需品製造会社社員ポール・ビルソンが前触れも無く失踪し、調査に乗り出す。その男は、取り柄のない平凡な経理課員でありながら、高給の優遇を受けていた。行方を探り始めて間もなく、スタフォードは不可解な妨害行為を受け負傷する。保安上は契約先に実害が生じていなかったため、事件から手を引くことはできた。だが、スタフォードは、さらに追跡調査を進め、唯一の近親者である姉に接触。ビルソンが姿を消した理由とは、飛行家であった父親の死を扱った新聞記事が要因らしい。1936年、アフリカ横断飛行レース中にサハラ砂漠で消息を絶ったピーター・ビルソンは死んでおらず、多額の保険料を騙し取ったと揶揄する内容だった。幼い頃に父親を失い、強い憧憬を抱いていたポールは怒り狂い、父親が死んだ証拠を手にするためにアフリカへと飛んだのだった。しかし、40年以上も前に墜落したその場所は容易には辿り着けない砂漠地帯と推察できた。
経営者として自らを縛り付け、安定しながらも変わらない日常に飽き足りなさを感じていたスタフォードは、休養という名目で会社を離れ、ビルソンの跡を追う。だが、同時に墜落機発見を阻止する命を受けた殺し屋が動き始めていた。

ビジネスマンとして成功した男が安穏たる日々を捨て、未知の冒険に没入していく。安全圏を外れ、敢えて危険地帯へと乗り込む。関係性の薄い第三者的な立場は、自らの行動が当事者らの未来を変えていくこととなる。それだけに己を律しなければならない。切り拓く路の先にあるのは、再生か死か。何れにしても、男にとっては生命を懸けるだけの値打ちを、そこに見出しているのである。これぞ、冒険の根幹となる動因だろう。

物語は活劇よりも、アフリカ北部の厳しい自然環境や遊牧民の生態に触れつつ、それまでの生き方を述懐する主人公の心の揺れに力を注いでいると感じた。人間の力など到底及ばない自然の摂理。果てなき地平。星の美しさ。大地に横たわり、空を見上げるスタフォードの感動。このシーンを描くために、バグリイは「Flyaway」を著したのではないだろうか。

評価 ★★★

 

サハラの翼 (ハヤカワ文庫NV)

サハラの翼 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

「8(エイト)」キャサリン・ネヴィル

ネヴィル1988年発表作。女流作家ならではのロマンス色の濃い〝冒険ファンタジー〟で、伝説のチェス・セット「モングラン・サーヴィス」を巡る争奪戦を、史実を織り交ぜながら描く。とにかく長大な物語で、相当な労力を費やしたことが伝わる力作ではあるのだが、あれもこれもと詰め込み過ぎて、結果的には大風呂敷からほとんどこぼれ落ちてしまっている。全編が劇画調のドラマ仕立てのため、ゴシック小説好きなら楽しめるのだろうが、私にはどうにも食指が動かない代物だった。

物語は、18世紀末のフランス革命後の混乱期と70年代の現代を交互に舞台とする。時代を超えて真相を追い求めることとなる〝ポーン〟役の女性二人を主人公とし、実在した歴史的人物を大量に登場させて絡めていく。権力掌握を目論む者には悪魔的な力を発揮するという「モングラン・サーヴィス」を手にするため、革命家や皇帝らが暗躍。さらには、ヨーロッパ中の著名な芸術家や哲学者、科学者らは、須く死の直前まで、その謎の解明に取り組んだ探求者であったという説を強引に押し付ける。しかし、核となるチェス・セットがどのような「奇跡」をもたらすのかを知ることができるのは、結末ぎりぎりになってから。それまでは、次から次へと登壇する歴史的人物にまつわる実像/虚像ごたまぜの挿話と神秘にまつわる蘊蓄を延々と読まされる羽目になる。ある程度のケレン味は必要だが、終始はったりを利かせていては、肝心の山場が極めて薄くなってしまうことは当然である。謎の解明は、ようやく終局で果たされるのだが、誰でも思いつくオカルト的な〝落ち〟では尻すぼみも甚だしい。

数多の偉人が生涯を賭けて追い求めた真相に、「コンピュータ専門家」である選ばれし女性のみが辿り着けるというご都合主義。世界にまたがる錚々たる面子が、最終的には血縁者として繋がり、小さなファミリーへと収縮して「見事な大団円」を迎えるという竜頭蛇尾。いったい、ここまでの道程は何だったのかと、溜め息しきりだった。

評価 ★★

 

8(エイト)〈上〉 (文春文庫)

8(エイト)〈上〉 (文春文庫)

 

 

 

8(エイト)〈下〉 (文春文庫)

8(エイト)〈下〉 (文春文庫)

 

 

「兄の殺人者」D・M・ディヴァイン

珍しくクリスティーが褒めたというディヴァインのデビュー作品で1961年発表作。本格推理作家として、現在も高い評価を受けているらしいが、終始退屈な代物だった。英国のミステリ作家は大概が地味な作風で、ケレン味に欠けるきらいがある。本筋はアリバイ崩しだが、登場人物の俗物ぶりが疎ましく、中盤からはフーダニットとしての興味も薄れていた。トリックも今ではテレビドラマさえ使わないお粗末なもの。形骸化した「本格物」の薄い物語性しか印象にない。

評価 ★

 

兄の殺人者 (創元推理文庫)

兄の殺人者 (創元推理文庫)