海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「戦慄のシャドウファイア」ディーン・R・クーンツ

1987年発表、日本での人気を決定付けた快作。当時、1990年前後のクーンツ・ブームは凄まじく、無名時代の過去作品も含めて相次いで飜訳され、大概は好評を得ていた。スティーヴン・キングの牙城へ一気に攻め込み、その後のモダンホラーを牽引した実力は伊達ではない。

遺伝子工学を極め、政府に取り入って財を成した天才科学者リーベンが事故死する。離婚調停での莫大な慰謝料を拒否することで夫への侮蔑を意思表示した妻レイチェルに激怒した直後だった。だが、死んだ男は、間もなく甦る。リーベンは、自らに施していた人体実験により不死となっていた。男の目的は、ただひとつ。自尊心を踏みにじった妻への復讐を果たすこと。やがて、どこまでもレイチェルを追い掛け回す男の身体は、徐々に異形の怪物へと変化していく。同時に理性を失い、遂には捕食の対象として人間を狩り始める。

メインプロットを刈り込み、肉付けしたディテールで仕上げる分厚い構成。早い場面転換と映像的な描写。シーン毎に小さな山場を盛り込み、次第に大きな流れへと繋ぐダイナミックな展開。終盤へ向けてひたすらに加速するスピード感。娯楽小説のあらゆる要素を盛り込んだ豪腕は特筆すべきで、エンターテインメント性を徹底的に探究し、消化し、放出している。破壊力が圧倒的なのは当然である。

多くの登場人物を一人も無駄にせず、しっかりと印象付ける。本筋に絡まず小休止となるエピソード類でさえ、力を緩めない。ページを捲る読み手のテンポ、緊張感の持続こそが大切だと知る作家の極意を伝えてくる。主要な人物らが事件を通して過去を断ち切り、トラウマを克服し、ひと回り成長するさまをしっかりと描く。これも、よほど筆力が無ければ出来ないことだ。

クーンツは当初、本作を女性名義のリー・ニコルズで出版しているため、恋愛要素も多い。けれども、それ以上に「人間愛」をケレン味たっぷりに謳い上げる。
愛するもののために闘う女と男。その何もかも突き抜けた後ろ姿を眩しく感じた読者は、すでにクーンツの虜となっている。

評価 ★★★★

 

戦慄のシャドウファイア〈上〉 (扶桑社ミステリー)

戦慄のシャドウファイア〈上〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

 

戦慄のシャドウファイア〈下〉 (扶桑社ミステリー)

戦慄のシャドウファイア〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

「コーマ - 昏睡 -」ロビン・クック

医学サスペンスの第一人者クック1977年発表のデビュー作。
ボストンの大病院で、患者が脳死に至る事故が相次ぐ。何れも麻酔を施した手術後に昏睡状態へと陥り、最終的には植物人間と化していた。原因は不明。同病院の実習生スーザン・ウィラーは、通常であれば起こり得ない事態に疑問を抱き、過去に遡ってデータを調べ始める。外科や内科、麻酔科の権威らと対峙し果敢に追求するも、激しい抵抗に遭う。事故の起こった場所が特定の手術室であることを掴んだスーザンは、麻酔ガスを送る設備に細工された跡を見つける。さらに、昏睡状態の患者らは、或る研究施設へと一様に運ばれていることを知る。一線を超えたスーザンは、必然的に殺し屋を引き寄せた。

難解な医学用語が氾濫するが、プロット自体はシンプルなため、流すだけでいい。
本作の核は、終盤で暴かれる真相そのものにあり、現代にも通じる極めて重い課題を投げ掛ける。物語自体はサスペンス主体で、あくまでも娯楽性を重視しているが、或る種閉ざされた世界でもある医療現場の裏側、1970年代の執筆時、近い将来に起こり得る事案に鋭くメスを入れている。実際、程度の差はあるが、いま現実に〝闇のビジネス〟として公然と行われている事象である。
飛躍的な医術の進歩。資本主義社会に於いては、その恩恵が平等に授けられる訳ではない。富める者と貧しき者、権力を持つ者と持たざる者の歴然とした格差が、命さえも換算していく。一方は〝人身御供〟と同義となる売買の対象と成り果てて。
物語の後に「著者覚え書き」で記したクックのアクチュアルな警鐘は、今もなお古びてはいない。

評価 ★★★

 

コーマ―昏睡 (ハヤカワ文庫 NV 326)

コーマ―昏睡 (ハヤカワ文庫 NV 326)

 

 

「暗殺者」グレッグ・ルッカ

1998年発表、アティカス・コディアックシリーズ第三弾。大手煙草会社を窮地に陥れる重要証人の暗殺をボディガードが防ぐ。本作は以上の一文で事足りる。捻りも起伏も無く、読後に何も残らない。評価できる点が何一つ無い。こんな駄作を褒めちぎることの出来る高尚な読解力を私は持っていない。以下は、凡作と断定する理由の一端だ。

ルッカは初読。世評が高いシリーズらしいが、切れ味の無い凡庸な作品で、とにかく退屈の一言に尽きる。しかも、無駄に長い。
事前情報としてあったのは、〝ボディガードを主人公としたハードボイルド〟という括り。だが、すれすれで合致するのは、一人称一視点のみ。主人公の揺るぎない冷徹さ、文体から滲み出る感傷、社会的弱者への共鳴、権力に与しない反骨精神、そして己の信条に基づいた決着の付け方。それらのハードボイルドに不可欠な要素が、微塵も味わえない。単に、タフを気取る若い男の自慢話に過ぎない。このレベルでマイクル・コナリーに比肩すると〝批評家〟らが持ち上げているのだから、ハードボイルドファンが減るのも、むべなるかなだ。暗澹たる気持ちになる。
前二作は未読だが、本筋には全く絡まない過去の事情、それにも増してどの女と関係があったかなどの〝情事の履歴〟をご丁寧に解説しており、読む必要はない。というよりも、遡って読む気になれない。

主人公のボディガードは、身内での腕比べに勝つことと、数多の女を口説くことに必死だ。生命を狙われている証人は、根拠薄弱のままアティカスのみに信頼を抱く。さらに科学的証拠を一切語らずに煙草の危険性を説いて回り、煙たがられる。証人が隠し持ち、口封じの動因となるネタは、誰もが知識としてある煙草の害悪のみで、その他の〝情報〟は最後まで明らかとならない。つまり、プロットの肝が本作には存在しないのである。これで、スリルが生まれるはずがない。

登場人物らは須く自信過剰なナルシスト。老若男女、敵味方問わず、造形が浅く、類型的。行動と台詞が似通っているため、アティカスが今どの女と会話しているのかが判別できない。といっても、混乱したところで、物語には何の影響もない。描き分けが出来ていないのは、致命的である。

そもそも幾ら読み進めても、ボディガードという生業の魅力が伝わらない。その道のプロを題材としつつ、予想外の思考や行動が無い。〝敏腕〟であるらしい主人公が、暗殺者の眼を欺くために使う奥の手とは何か。驚くべきことに、素人でさえ考えつく〝替え玉〟なのである。いったいどのような経験を積んできたのだろうか。敵役の暗殺者も頓馬なのは同等で、まんまと策に嵌まるのだが、失笑よりも溜め息しか出ない。

大企業が訴訟を有利に運ぶために、公然と殺し屋を雇うという没リアリティ。暗殺者は、わざわざボディーガードを挑発して計画に組み入れ、不必要に己の出番を増やした果てに、分かりやすい正体を曝す。仮面を付けながらも、女であることをアピール。これでも世界トップ10入りの腕を持つというのだから恐れ入る。成り手不足が深刻なのだろう。作者は、この自己顕示欲が強い殺し屋を気に入ったようで、続編に使うつもりで温存している。結末は、予想通り中途半端の極み。この先どうなるのか、続きが気にならない。ありがたい。

本作は、ボディガードの指南書としては役立つだろうが、私が読みたいのは、ハードボイルドであり、心に残る小説なのである。

評価 ☆

 

暗殺者 (講談社文庫)

暗殺者 (講談社文庫)

 

 

「神の拳」フレデリック・フォーサイス

1994年発表、いわゆる「湾岸戦争」を題材に虚構と事実を織り交ぜたスリラー。
1990年8月2日、OPEC内で他の産油国との対立を深めていたイラクは、遂にはクウェートに侵攻して即日全土を占領、同月8日には併合を宣言した。国連の撤退要求にフセインは応じず、1991年1月16日に米国を主軸とする多国籍軍が攻撃を開始。圧倒的な物量と最新技術を駆使した現代兵器の差は歴然としており、2月末にはクウェートは開放された。それら一連の流れを追いつつ、イラクが準備していた秘策〝神の拳〟の正体を米英らが探り、実行阻止に動くさまをドキュメントタッチで描く。

鳥瞰的にストーリーが展開するため、登場人物が整理しきれないほど多い。唯一の主人公格は、工作活動のためにバクダッドに潜入する英国軍人で、終盤では重要な任務を果たすものの、個性/魅力に乏しく印象に残らない。
要は〝良くも悪くもフォーサイス〟なのだが、本作に限っていえば良い点は少ない。構成が雑で、人物造形もなおざり。メインの謎となる「神の拳」も、一昔前のスパイ小説もどきで荒唐無稽。謀略小説の弱点と言っていい情報過多も、テンポを阻害している。湾岸戦争の顚末を俯瞰したプロットは、興味深い点が多いとはいえ、米英側に偏り過ぎている。アラブ民族の主義/思想の掘り下げも深いとはいえない。

フォーサイス自身のスタンスは明確ではないが、独裁国家の暴走を〝正義の側に立つ国家群〟が止めた戦争、という型通りのチープな勧善懲悪の構図を取っている。組み込んだ内情には偏向報道を鵜呑みにした部分や、短絡的な善悪二元論に捕らわれている観点も散見する。世界のパワーバランスを軍事力や諜報戦などに焦点を当てて背比べするだけの空疎な軍事小説に近いものを本作には感じた。
巨大な油田地帯を狙う米国の思惑によって、その後のイラクフセインが辿った道のりを考えれば、元ジャーナリストとしてはお粗末過ぎる予見の無さも際立つ。無論、読み手側の勝手な註文/文句であり、それこそ私はルポルタージュでも読めば良い話しではあるのだが。所詮、フォーサイス型のエンターテインメント小説では限界がある、ということなのだろう。


以下は、余談である。

ジョージ・ブッシュが主導した「湾岸戦争」と、ブッシュJr.が親父の私怨を晴らすために画策した「イラク戦争」の実態は、今では殆ど明らかとなっている。
冷戦終結によって、軍備拡大のための理由付けとなる格好の敵国ソ連を失ったアメリカが、さらなる肥大化を遂げるため、満を持して〝ならず者国家〟の筆頭に引き上げたのがイラクだった。
かつては中東の防波堤として利用したイラクを「潰す」動因は幾らでもあった。北朝鮮とは違い、そこには莫大な石油が眠っていた。さらに、その土地は中東での覇権には相応しい場にあり、イスラエルとの共同戦線を張るには万全の位置だった。
フセインを騙して誘導し、クウェート侵攻へと導く策略は見事に嵌る。ベトナムでの恥辱を、イラクで晴らす。悪党を正義のガンマンが征伐する。単純なウエスタンに、大衆が幻惑され、米国への誇りを取り戻すことを念頭にした謀略。それに追随する多国籍軍とは、米国に従属し見返りを求める国家群の寄せ集めに過ぎないが、物を言うのは手下の数である。〝湾岸〟ではカネをたかられて指を咥えていただけの日本も、二度目は戦場の恐怖を味わわせてやれる。
つまり、この二つの「戦争」はアメリカの筋書き通りに、世界中にハリウッド映画張りの刺激的な興奮を与えることのできる一大興行として擬装できた。「イラクが隠し持つ大量破壊兵器」という嘘を公然と吐いた果てに、喉から手が出るほど欲しがっていた巨大な油田地帯に足を踏み入れ、真の目的を成就する。今となっては無用の長物、フセインの首はすぐ其処にあった。
イラクを舞台とする「戦争」は、いわばギャングの抗争レベルに等しく、どちらがより狡猾な悪党かを決めたに過ぎない。当然、端から結果は分かっている茶番だった。

 湾岸戦争終結後に、フセイン抹殺へと至る派遣国家の狂った所業は、本作の創作時点でも充分に予期できたはずだが、フォーサイスの主眼はそもそも「戦争の実態を描く」ことではなかったようだ。どうやら、ジャーナリストとしての鋭い視点/考察に期待してはいけないらしい。

評価 ★★

 

神の拳〈上〉 (角川文庫)

神の拳〈上〉 (角川文庫)

 

 

 

神の拳〈下〉 (角川文庫)

神の拳〈下〉 (角川文庫)

 

 

「十字架を刻む男」ロバート・L・ダンカン

1989年発表のサイコスリラー。主人公は、元ニューヨーク市警刑事ピーター・スタイン。犯罪の統計と分析、犯人像を割り出すコンピュータ会社を立ち上げ、警察に協力している。この設定自体は、現代ではもはや成立しえないだろう。

銃殺した被害者を荒野に放置する連続殺人がラスベガスで発生。死体には、大きく十文字が切り刻まれていた。殺人犯の名はデズモンド。狂信的なキリスト教信者で、自らは救世主であり、死者を蘇生させる力を備えていると妄信していた。全ては「神の啓示」だった。その基点は、少年時に遡る、刑事スタインとの或るエピソードにあった。
デズモンドは、誘拐した少女を人質にして「使命を果たすためにラスベガスへ来い」というメッセージをスタインに送る。元刑事は記憶を探るが、殺人者に思い当たる節が無かった。スタインを「神の代理人」の如くに扱うデズモンド。二人の過去を結ぶ接点、そして「果たす使命」とは何か。衝動的に殺人を繰り返していたデズモンドは、遂にはメディアを通じて〝奇跡〟を演出/誇示しようと試みる。

残念ながら筆力が無いため、場面が凡庸に流れ、スリルが生まれない。没個性の主人公はともかく、メインのサイコキラーの造形が浅い。濃密な心理戦を通して〝闇〟を掘り下げることもなく、刑事との距離が最後まで縮まることなく物語は終わる。

トマス・ハリス羊たちの沈黙」が爆発的に売れて以降、数多のエピゴーネンが氾濫し、飜訳された。一時は大半が〝精神異常犯罪物〟ではないかと感じたほどだった。「所詮は二番煎じ」という評価とならないために、作家らは知恵を絞っていたようだが、そうそうインパクトのある作品が生まれるはずもない。かといって、狂気や残虐性の度を高めただけでは、無為なるサディズム志向に陥るだけである。その適例がケッチャム「隣の家の少女」なのだが、異常性のみに焦点を当てたストーリーは、娯楽性皆無の異端まで行き着いてしまうことを証明している。
本作のプロットは、いつかどこかで読んだ記憶のあるものばかりで、プラスアルファが無いのは致命的。サイコスリラーならば、「狂気」のひと言で何でも説明が付く……では、ノンフィクションを読んだ方がましだ。

評価 ★

 

十字架を刻む男 (ハヤカワ文庫NV)

十字架を刻む男 (ハヤカワ文庫NV)