海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「KGB対SAS スーパー・ミサイル争奪作戦」ガイ・アリモ

1982年発表作。手に取ることをためらう邦題センスは別として、本作はなかなかの拾い物だ。新兵器開発で凌ぎを削る米ソ対立を背景に、タイトル通りの「スーパー・ミサイル」争奪戦が派手に展開するのだが、ハイテク軍事スリラーにアクション、秘境探検にホラーテイストを絡め、雑多な取り合わせながらも強引に押し切る力量を持つ。

人工知能を搭載したアメリカの巡航ミサイル「トマホーク」の改良型が実験中に故障し、アマゾンの密林地帯に落ちる。陸海空全域で監視していたソ連情報部はコマンドを派遣し、ミサイルを見失った米国の眼を掠めて強奪を目論む。同時刻、図らずも落下地点には原住民の生態を調べていた英国元特殊空挺部隊員がいた。事の重大さを察知した男は、発見したミサイルを分解して地中に隠すが、間もなくして、単独でパラシュート降下してきた正体不明の女と交戦することになる。一方、特命を帯びたKGB工作員と傭兵らは、現地人を拷問して情報を得ながら、ターゲットに近づきつつあった。だが、容易い任務と高を括っていた男たちは、想定外となる敵とジャングルに潜む真の怖さに直面することとなる。

本作の読みどころは、中盤で繰り広げる密林での激烈な活劇にあるのだが、より印象に残るのは、ユニークな人物設定や秘境という舞台設定を生かした多彩且つ過激なエピソードだ。リアリズムよりも娯楽性を優先し、ご都合主義的な違和感を物ともせずに劇画的な肉付けを施す。その割り切り具合が潔い。
捨て子としてアマゾンで成長し、ジャングルでのサバイバル/戦闘は水を得た魚に等しい主人公の元SAS隊員タップ。無謀にもたった一人でミサイルを狙い、真意を隠したままで対戦後にタップと共闘する無鉄砲で情緒不安定な女。この二人に加わるのは、秘薬や武術に長け、侵犯者を驚異的な強さで蹴散らしていく現地人の呪術師と、部族の誇りを胸に果敢に敵に立ち向かうシンガル族の少年。
相対するのは、世界の紛争地帯で数々の謀略に携わり、タップとは因縁浅からぬ仲となるKGBの殺し屋。証拠隠滅のために、奇襲した村々を焼き払い虐殺するなど、その非道ぶりは徹底している。だが、その傲慢を嘲笑うかのように、ジャングルに棲まう生体によって徹底的に苛められ、心身ともにズタボロとなっていく。つまり、本作で最強の「敵」となり、主役となるのは、人間ではなく、未知の動物であり、昆虫や魚だ。中でも、尿道から入り込むカンディルという実在する寄生生物に、ソ連の特殊部隊員らが襲われるシーンは、生理的な恐怖感を与える。さらに、原始的な精霊崇拝の対象となるクルピラと呼ばれる怪物も跋扈。秘境というより別次元の世界で登場人物らは闘うことになる。

粗い構成や、あからさまな反共主義と米英善玉論を前面に押し出すなどの欠点も目立つが、変種の活劇小説として楽しめる。間に合わせの素材でレシピは我流、盛り付けは垢抜けないが、濃いめの味付けで食が進むB級の旨さに近い。作者がインド出身という素性も独特のケレン味に繋がったのだろう。

評価 ★★★☆

 

途中下車 〜海外ミステリ雑記帳〜

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旅の途上でひと息入れた道すがら、どこまでも私的な海外ミステリの読み方について、その一端を脈絡のないままに記しておきたい。

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愛読する作家やシリーズは数多いが、一作品を読み終えた後は、しばらく距離をおくことにしている。集中して読み続けることは、安心感を覚える反面、作風や展開に慣れて「分かったつもり」となり、結果的に飽きることへと繋がりかねない。ある程度他の作家を挟めば、その良さも悪さも再確認でき、新たな観点が生まれる。常に新鮮な気持ちで向き合い、長く付き合うにはブレイクも必要だ。好きなものは後回しにして、なるべく初めての作家、それも出来るだけマイナーな作品に挑むようにしている。より深く楽しむための経験を、読み手としても積みたいからだ。

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加えて、読了したカテゴリと同系のミステリにも、すぐには手を出さない。元来、私は読書に於いては雑食で、様々な世界の物語を味わいたいという欲求が強い。難解な本格推理で頭を悩ませた後には、躍動感に満ちた冒険小説の世界へと旅立ち、人間不信に陥るようなスパイ小説で凍えた翌日は、硬派なハードボイルドで市井の人と触れ合い温まる。その為、特定の作家やカテゴリに一家言ある研究家になれるはずもなく、定住無き放浪者と成り果てているのだが。

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読書も「ひとつの冒険だ」というのが私のスタンスだ。魅惑の世界が無限に拡がっているのだから、楽しまなければ勿体ない。これも活字中毒者故のやるせなき症例なのだろう。面白い本を読めば、人に紹介したくなる。つまりは、本ブログのコンセプトでもあるのだが、それにも増して自分自身の糧にしたいという思いが強い。海外ミステリに限らず、読書は人生を豊かにする。陳腐な表現だが、紛れも無い事実である。

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本ブログで取り上げている作品は、読み終えた順ではなく、レビューを書き上げたものから掲載している。あまりにも感動が深過ぎて、なかなかレビューを書けないことも多い。最近では、テリー・ヘイズの大傑作「ピルグリム」がそれで、あれこれ頭の中で熟成するのを待ってから、一気にレビューを綴った。読了してから半年が経っていた。
逆に読後感の良くない作品は、本を乱暴に閉じた勢いのまま、さっさと書き上げている。批評家や他の読者が絶賛している場合は、なおのこと筆が進む。百人百様の受け止め方があり、ネットの片隅でどうほざいても影響が無いことは、それこそ百も承知している。なぜ、評価出来ないのかを上げていく過程で、自分の嗜好をあらためて知ることもできる。それも次に繋がる大切な学びだ。

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冒頭で気が乗らない作品は、とことん寝かして、忘れた頃にまた読む。その時点で、やっぱり駄目だと感じたら、いったい何が良くないのかに着目して、気を鎮めつつ読み進める。ラストシーンを読み終え、解説者の〝大人の事情〟に憤慨しつつ、引っ掛かりを再点検する。
私とは真逆の高評価を得ている本の多さに驚くことも多々あり、自分の読解力の限界を知ることもある。最近の例では、フーコの「薔薇の名前」がそれだ。批評家を含む多くの読み手が、同作を海外ミステリの至宝として崇めているが、レビューで書いた通り、私は全く価値を認めない。或る種、不快だったのは、この本を取り巻くミステリ界隈のお祭り騒ぎだった。記号学の権威が著した「娯楽小説」という文脈ではなく、「海外ミステリ」という枠組みの中で、歴史的な名作を凌駕したかのような評価を与えていたこと。いったい、これまでどんな本を読んできたのだと、尋ねてみたい。

掛け替えのない傑作が次々に絶版となり姿を消していく傍ら、書店の限られた本棚を我が物顔で占める「薔薇……」。その種から、新たな海外ミステリファンが芽生えるとは、とても思えないのである。世界的大ベストセラー/数多のミステリ誌でランキング第1位、などという記号に幻惑されて、「たまには海外ミステリでも」とフーコを手にする人は、一過性の読書で終わるどころか、「海外ミステリは難しい、もう読まない」と敬遠されるのが落ちではないか。

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何のしがらみのない個人のブログ、批評する自由を楽しむことが大切だ。恐れずに、臆することなく、自分の個性/スタイルで書く。

例え、つまらなかったと感じたとしても、著者は読者に楽しんで欲しいという思いを込めて創作し、世界にひとつしかない作品を上梓している。読み手は、作者の意気に応えるべきだ。褒めるにしろ、けなすにしろ、とことん突き詰めて書きたい。

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他人の評価が納得できるか否かは、当然自分で読むこと以外に方法はなく、その行動なくしては始まらない。何を切っ掛けにするにしろ、レールは眼前に敷かれている。車窓から眺める景色が、既に旅を終えた人から届いたレビュー/絵葉書と同じか、それとも全く違う印象を受けるか。いずれにせよ、旅立つことから始めるしかない。

 

「旅の記録」としての海外ミステリ

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海外ミステリや映画のレビューを綴られているブログ「僕の猫舎」のぼくねこさんが、この度「海外ミステリ系サイトのリンク集」をまとめられた。
https://www.bokuneko.com/entry/2019/02/25/121721
拙ブログも著名な方々と共に紹介して頂いており恐縮しきりなのだが、海外ミステリに対するぼくねこさんの迸る熱意と愛、それを共有する〝仲間〟への思いがひしひしと伝わる内容となっている。ぜひ、新たな本との出会いを求めて訪れて頂きたい。


以下は、その思いを受けての私の駄文だが、「自己紹介に代えて」という意味もある。
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私が海外ミステリに〝憑かれた〟のは、例に漏れずクイーン「Yの悲劇」を十代の頃に読んでからだ。

究極的に殺人へと至る悪の心理、犯罪のまやかしを論理的に解き明かすという快感。娯楽性のみならず、罪と罰のあり方も問い掛ける重層性。生と死、堕落と再生、混沌と秩序。ミステリは、人間を描くことに於いて、やわな文学が太刀打ちできない深みと重さを持っていた。

世の中にはこんなに面白い本があったのだと、とにかく衝撃を受けた。その興奮覚めやらぬまま、友人らに熱く語っていたことを昨日のことのように思い出す。厚かましくも他人に薦めたくなる欲求、これが本ブログの出発点であり、常に根幹にあるものだ。

少年期は、限られた小遣いやバイトで稼いだカネは、殆ど本の購入にあてた。早川書房の「ミステリマガジン」や数多のガイド本を片手に、古書店も漁った。驚いたのは、ミステリの幅の広さで、読めば読むほど、新たな世界が待っていた。本格、サスペンス、ハードボイルド、警察小説、スパイ/冒険小説、さらには幻想/ホラー。名作、傑作、大作、凡作、駄作。唸り、感動し、泣き、笑い、学び、時には放り投げた。日本の優れた作家たちも出来るだけ読んだ。中でも、結城昌治との出会いは至高で、全著作を血眼になって収集した。

当たり前だが、海外ミステリの舞台は外国である。例え日本を描いていても、大半は現代に忍者が駆け回るような設定であり、異国と同じである。本を開いた瞬間から、読み手は物語の中に登場する社会の住人となり、摩天楼の下や寂れた酒場の片隅で、奥深い森や渇いた砂漠の只中で、大海原や大空の上で、謎に満ちた冒険へと向かう。
単なる旅の雑誌や映像と違う点は、歴史や民族性、言語や風俗、街並みや自然環境、社会的問題や国際的な立ち位置さえも、物語を通して知ることができるということだ。海外ミステリを一冊読むごとに「旅の記録」が増える。作中で出会い、別れた人々への思いもまた同時に記憶されていく。

実は、本ブログを立ち上げた際、一気に掲載したレビューは覚え書きと変わらず、単に読後感をそのまま綴ったものが多い。以降、日々の読了とほぼ同時進行で駄文を掲載しているのだが、最近は文章が長くなってしまう傾向にあり、しかも文句を付けたい作品ほど「悪化」するため、反省しきりではある。書くことよりも読むことを優先するため、必然的に紹介できていない本が増える。ただ、記録された「旅」を読み返すと、自分の拙い文章からでさえ、物語の情景がくっきりと甦ることがある。

色褪せることのない感動を求めて、今日もまた新たな旅に同行している。

「雨を逃げる女」クリストフェール・ディアブル

1977年発表、仏推理小説大賞作。薄墨のような闇の中で展開するサスペンスは、フレンチミステリならではの味わいで、小品ながらノワールの香りも漂う。

主人公は、タクシー運転手のコール。雨の降りしきる夜、街を彷徨ったいた若い女を拾う。手には拳銃、語る内容も謎めいていた。名はコーデリア。家庭内のいざこざでやけ気味になっていた男は、成り行きで一夜を共にする。同じ夜、街のチンピラが工事現場で射殺され、ちょうど女と出会った時と場所が一致した。コーデリアを殺人者として疑いつつも、コールは妖しい魅力に抗することができず、自らも事件の渦中へと呑み込まれていく。真相はやや強引ながらも、自滅していく男の焦燥を抑えた筆致で描いている。

 評価 ★★★

雨を逃げる女 (角川文庫)

雨を逃げる女 (角川文庫)

 

 

「熊と踊れ」アンデシュ・ルースルンド/ ステファン・トゥンベリ

北欧ミステリ界の精鋭として脚光を浴びるルースルンドが脚本家のトゥンベリと共作したクライム・ノベル。読了後、スウェーデンで実際に起きた犯罪をもとにしており、トゥンベリが事件関係者の身内であることを知ったのだが、そこでようやく納得できた。実は、批評家らがこぞって絶賛している本作に、私はさっぱり感心しなかったのである。読んでいる最中、人物設定や展開に妙な違和感/唐突さを覚え、なぜこうなるのか、という疑問が多々あったからだ。
察するところ、「事実」に絡め取られるあまり、付加した創作部分がおざなりとなり、結果的に辻褄の合わない中途半端な作品に仕上がったのだろう。犯罪ルポなのか、フィクションなのか。その迷い/曖昧さが全編に渡り染み付き、結果的に剥がれ落ちている。穿った見方かもしれないが、本来は筆力のある作家ルースルンドが、共作者とその家族を気遣い、テーマを十分に掘り下げられなかったのではないかと感じた。

〝物語〟は、母親に対する父親の暴力が常態化した家に育った3兄弟の陰惨な日常を描く「昔」と、工務店を真面目に営む一方で犯罪者の道を歩んでいる3人の「今」、という過去と現在のパートを交互に展開する。文庫本上下巻で1000ページを超えるボリュームだが、エルロイ/ウィンズロウに倣ったと思しき文体はリズム感があり、一気に読むことはできた。だが、余分な贅肉が多く、このプロットであれば3分の1の分量で事足りるし、全体が引き締まったのではないか。特に、狂気に満ちた父親に喧嘩の極意、つまりは「熊と踊れ」的な戦法を長男が教わることが主軸の「昔」は、中弛みが激しく、敢えて分離させるほどの重みを持たない。
「今」に於いて兄弟と幼馴染みの4人は結束して銀行強盗となるのだが、犯罪に手を染める動機を一切明かしていない。俗悪な家庭環境が悪影響を及ぼした、で説明不要なのかもしれないが、少年期に無駄なページを割くよりも、何故「暴力」に魅せられ、父親の〝上〟をいく犯罪者を目指したのかを語る方が重要ではないか。

血の絆が暴力を通してしか感じとれない家族。裏切りが親と息子、兄弟同士の間で起こるが故に、関係はより縺れ、憎悪は倍加する。それらは朧気には伝わってくるものの、一人一人の造形がステレオタイプで浅い。全体的なまとまりの無さ、父子の不可解なエピソード、無能な刑事パートの無意味さなど、どれもが踏み込んだ情況を作り出せずに終わっている。事実を優先した結果、肉付けがアンバランスなのである。主題とする暴力の描き方も表面的。投げ出したかのような結末からは、主要人物の一人の生死さえ分からない。
ただ、長男が裏稼業遂行のためにあっさりと信条を捻じ曲げ、絶縁したはずの父親や幼馴染みと和解していくさまは、非常に惨めでありながら、唯一リアリティを感じた。これが事件通りなのかは知らないが、所詮はこの程度といったところか。

マイナス面ばかり強調してしまったが、本作に対する期待の反動であり、事実と虚構の上に成り立たせる小説の難しさをあらためて学んだことで良しとしたい。

評価 ★★

 

熊と踊れ(上)(ハヤカワ・ミステリ文庫)

熊と踊れ(上)(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

熊と踊れ(下)(ハヤカワ・ミステリ文庫)

熊と踊れ(下)(ハヤカワ・ミステリ文庫)